高き空 遠き夢
高き空 迷い飛ぶ鳥
風に逆らい 翼 疲れて
流されるまま 消えゆく雲より
生きている あかしが お前にはある
もっと遠くへ もっと高みへ
ひとりぽっちで 北風の空
風が怖いだろう昨日が悲しいだろう
翼 とめたら 旅も終わるよ
遠き夢 果てしない空
引き返すには もう遅すぎて
憧れは 青い地平線
生きている今を 飛んでゆくだけ
もっと素直に もっと自由に
弱い心が 空に翔く
もっと遠くへ もっと高みへ
ひとりぽっちで 北風の空
風が怖いだろう 昨日が悲しいだろう
翼 とめるな 旅も終わるよ
夢も消えるよ
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守ることをせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のために
この遠い道程のために
「道程」は、1914年、大正時代に書かれた詩です。
それまでの詩とは違い、ふだん話している言葉、口語体で書かれていました。
若者が持つ将来への不安と、前向きな決意が感じられることから、多くの人々に親しまれてきました。
この詩の作者は高村光太郎、詩人として、また彫刻家として、明治末から昭和にかけて活躍された方です。
光太郎は、8人兄弟の長男として生まれました。
父は、明治時代を代表する木彫り彫刻家高村光雲です。
偉大な父光雲のあとを継ぎ彫刻家になることは、光太郎にとってごく当たり前のこと。
14歳のとき、東京美術学校、いまの東京芸術大学の予科に入学します。
美術学校を卒業した光太郎は、1906年、海外へ留学、アメリカやヨーロッパで学びました。
そこで目の当たりにしたのは、西洋の最先端の芸術でした。
欧米と日本、その文化の違いに光太郎は衝撃を受けます。
3年後、帰国した光太郎は、日本の古い美術界の慣習にことごとく反発します。
展覧会に作品を出品せず、美術界を批判する評論、エッセイや、詩などを次々に発表し続けました。
父の期待に応えられず、新しい芸術を生み出すこともできないまま、当時の光太郎はもがいたのでしょう。
そんなとき転機が訪れます。
のちに妻となる長沼智恵子との出会いです。
光太郎はそれまでの生活を改め、生まれ変わることを決意します。
出会ってから3年後、二人は結婚。その年発表されたのが「道程」です。
1914年、31歳のときの作品でした。
「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る/ああ、自然よ/父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ/常に父の気魄(きはく)を僕に充たせよ/この遠い道程のため/この遠い道程のため」。
自分の人生を自分の力で切り拓いていこうという強い決意がこめられた光太郎の「道程」。
この詩は、いまも卒業や入学、就職など、人生の転機を迎えるときに、広く読み継がれています。
入学したばかりの不安と、大学生活でどんなことが起きるんだろうという期待を持って読んだという大学一年生。
将来への不安のなか、自分を奮い立たせるような気持ちで読んだという就職活動中の大学四年生。
親としての責任や、家族のことを考えたという31歳の夫婦。
さまざまな受けとめ方があります。
昭和33年に発行された高村光太郎全集第三巻。
ここに、初めて雑誌に掲載されたときの「道程」の原型が収められています。
オリジナルの「道程」は、102行からなる、いまとは全く違う詩でした。
光太郎は、この詩をばっさりと削っていきます。
残したのは、自立を宣言する最後の部分のみでした。
わずか9行のこの詩に光太郎がこめた思い。
それは、偉大な父との精神的な決別であり、新しい人生を自分の力で切り拓く決意です。
高き空 迷い飛ぶ鳥
風に逆らい 翼 疲れて
流されるまま 消えゆく雲より
生きている あかしが お前にはある
もっと遠くへ もっと高みへ
ひとりぽっちで 北風の空
風が怖いだろう昨日が悲しいだろう
翼 とめたら 旅も終わるよ
遠き夢 果てしない空
引き返すには もう遅すぎて
憧れは 青い地平線
生きている今を 飛んでゆくだけ
もっと素直に もっと自由に
弱い心が 空に翔く
もっと遠くへ もっと高みへ
ひとりぽっちで 北風の空
風が怖いだろう 昨日が悲しいだろう
翼 とめるな 旅も終わるよ
夢も消えるよ
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守ることをせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のために
この遠い道程のために
「道程」は、1914年、大正時代に書かれた詩です。
それまでの詩とは違い、ふだん話している言葉、口語体で書かれていました。
若者が持つ将来への不安と、前向きな決意が感じられることから、多くの人々に親しまれてきました。
この詩の作者は高村光太郎、詩人として、また彫刻家として、明治末から昭和にかけて活躍された方です。
光太郎は、8人兄弟の長男として生まれました。
父は、明治時代を代表する木彫り彫刻家高村光雲です。
偉大な父光雲のあとを継ぎ彫刻家になることは、光太郎にとってごく当たり前のこと。
14歳のとき、東京美術学校、いまの東京芸術大学の予科に入学します。
美術学校を卒業した光太郎は、1906年、海外へ留学、アメリカやヨーロッパで学びました。
そこで目の当たりにしたのは、西洋の最先端の芸術でした。
欧米と日本、その文化の違いに光太郎は衝撃を受けます。
3年後、帰国した光太郎は、日本の古い美術界の慣習にことごとく反発します。
展覧会に作品を出品せず、美術界を批判する評論、エッセイや、詩などを次々に発表し続けました。
父の期待に応えられず、新しい芸術を生み出すこともできないまま、当時の光太郎はもがいたのでしょう。
そんなとき転機が訪れます。
のちに妻となる長沼智恵子との出会いです。
光太郎はそれまでの生活を改め、生まれ変わることを決意します。
出会ってから3年後、二人は結婚。その年発表されたのが「道程」です。
1914年、31歳のときの作品でした。
「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る/ああ、自然よ/父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ/常に父の気魄(きはく)を僕に充たせよ/この遠い道程のため/この遠い道程のため」。
自分の人生を自分の力で切り拓いていこうという強い決意がこめられた光太郎の「道程」。
この詩は、いまも卒業や入学、就職など、人生の転機を迎えるときに、広く読み継がれています。
入学したばかりの不安と、大学生活でどんなことが起きるんだろうという期待を持って読んだという大学一年生。
将来への不安のなか、自分を奮い立たせるような気持ちで読んだという就職活動中の大学四年生。
親としての責任や、家族のことを考えたという31歳の夫婦。
さまざまな受けとめ方があります。
昭和33年に発行された高村光太郎全集第三巻。
ここに、初めて雑誌に掲載されたときの「道程」の原型が収められています。
オリジナルの「道程」は、102行からなる、いまとは全く違う詩でした。
光太郎は、この詩をばっさりと削っていきます。
残したのは、自立を宣言する最後の部分のみでした。
わずか9行のこの詩に光太郎がこめた思い。
それは、偉大な父との精神的な決別であり、新しい人生を自分の力で切り拓く決意です。