暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

膝を痛めた、と思ったものが痛風の発作だった

2017年12月14日 18時44分20秒 | 健康

 

右ひざが痛い。 理由は分かっている。 月曜の夜雪道を3kmほど急いで転ばないように小股で歩いた。 大学の共済組合主催のクリスマス料理講習会に急いだのだった。 毎年この時期に夕方7時から12時近くまでシェフ・ルシアンのところでコース料理を作っては喰い、飲んでは作る催しで、これにより家庭のクリスマス料理の幅を広げようと言う意図の下、もう7,8年出かけている恒例の催しだったのだが今年は初めてオランダにしては大雪がどかっと降り、自転車で行けないからそれではバスでと思えば午後にはすべてのバス路線がストップしてしまい結局歩きということになっていたのだった。 幸いなことに集まった6組の中に近所に住む知り合い夫婦が車で来ていたので帰りはそれに乗せてもらい歩かなくとも済んでいた。 その翌朝も自転車では危ない雪道をリュックを担いでスーパーまで買い物に往復で2kmほど歩いたので膝に負担をかけすぎたのだろう、と思った。 

火曜の夜には膝の皿が痛み、筋肉痛に効くペーストを塗って寝たが水曜の未明には痛みで眼が覚めた。 2年ほど前にフランスのプロヴァンスを100km以上重いリュックを担いで歩いた時に痛めた膝がまたもどってきたのかとちょっとうんざりした気分になり、そのとき使った膝を締めるサポーターをつけたのだがウォーキングでは効果があったものが効かなかったので変だと思った。 

朝食のテーブルでそれを家人にいうと、一言、痛風じゃないのと宣った。 ハッと気づきペーストでもサポーターでも効かないことの理由がわかったものの自分の痛風のパターンは足の親指の根元が普通で精々が踝だから膝の皿には考えが及ばなかった。 昼には友人のアラードと町で昼食を摂る約束をしていたので痛みを軽減するためにArcoxiaを一錠飲んだ。 雨の中、町中に自転車を漕げるぐらいまで痛みは減ったもののまだ痛いので2時ごろにもう一錠飲んだ。

この前痛風の症状が出たのは4月の26日だったからほぼ8か月前である。 毎日尿酸値を下げる薬を飲んではいるけれど3か月から半年ごとに症状が出る。 今回の痛みはかなりなもので2日で4錠服用し木曜のフィットネス・トレーニングには膝を使わない運動をやっとこなせるまで痛みが引いた。


Christine Arnothy著 「日本の女性」を読む

2017年12月13日 22時56分18秒 | 読む

 

 

Vrouwen van Japan  (日本の女性) 1959年

Christine Arnothy  (文)全58頁

Mark Riboud (写真) 全98葉

A. W. Bruna en Zoon,  Utrecht   1959

 

1  目次

2 日本の女性、 3 柔軟かつ従順、 4 混合する二つの世界、 5 夜の光、 6 似顔絵を描く娘、 7 音楽、 8 家庭生活、 9 或る程度の深い話、 10 そして、それからゲイシャ?、 11 可愛い舞妓、 12 浴場で、 13 自由!、 14 畳、 15 料理、 16 理容室で、 17 茶事、 18 花嫁、 19 産児問題、 20 女性が立ち上がるのを見る、 21 更なる変化、 22 西洋演劇、 23 文字、 24 女流小説家、 25 真珠と海女、 26 サヨナラ

 

先日町の古LP・CD屋のペーターに貰った古本である。 何語かからオランダ語に翻訳され、原書のタイトルも原語に関する記述もない。 エッセーと写真が半分半分で1959年、昭和34年に出版されている。 写真の版権はパリ・ニューヨークに拠点を置く写真家集団マグナムのもので、著者は1930年にハンガリーで生まれ45年の終戦末期、15歳のときブダペスト包囲戦を命からがら家族と共にフランスのパリに逃げてきて後に作家活動に入りフランス語での「15歳のわたしは死にたくない」などの著作がある女性である。 2015年没とネットの記述にある。 読了後まで著者のことは知らなかったが読み進めるうちに徐々に著者の背景がうすうすと理解できるような記述があった。

西欧人が日本を訪れて旅行記をものするのはイエズス会の神父のものをはじめとして古くからごまんとあり、80年代前半には日本の経済発展はピークを迎えて欧米では文化人類学・サブカルチャー研究フィールド・ワークの舞台として多くの人が来日し長期・短期にわたり逗留、そして日本社会は精査されその結果として学術書なり様々な書物が出版されてきた。 日本ではすでに60年代から日本人論が好まれそれは現在でも以前として書かれ読まれ続けている。 そして興味のあるのはその論なり出版物は書かれた当時の社会をさまざまな意味でその時代を映す鏡となっていることだ。 その写された時代の姿とそれを覗く観察者がそこに映し出されているのがはっきりとわかるのをみるのは興味深い。 ことに書かれたのが今からほぼ60年前の日本であるということにことさら興味が惹かれる。 自分が日本を離れたのが37年前、自分がまだ9歳のときの日本の姿を著者と写真家は観察している。 自分が育った小学校低学年の頃の日本の田舎やそこからたまに出かけた都会の印象はノスタルジーとともに深くこころに残っている。

自分の知人でオランダの写真家、故エド・ヴァンデル エルスケンが初めて日本の土を踏んだのが本書の写真が撮られた年だった。 それ以来ヴァンデル エルスケンは度々日本を訪れいくつもの写真集を出版している。 その写真と本書の写真を比べると明らかな違いが認められるだろう。 それは本書の被写体は女性だけに限られているけれどその佇まいは概ね静かで日本人がみてもどちらかといえば慎ましく大人しい、当時のそれぞれの職種、年齢の平均的な姿なのだが、ヴァンデルエルスケンの被写体はその場所から切り取られはっきりとした輪郭と表情をもつ人々の姿でありそこではっきりとそれぞれの出版物の意図がにじみ出ていることだ。 尚本書に掲載された写真のページの幾つかは次のサイトに紹介されている。

http://bintphotobooks.blogspot.nl/2015/06/women-of-japan-marc-riboud-photography.html

シモーヌ・ド・ボーヴォワールの「第二の性」がフランスで出版されたのが1949年だから著者がそれに触れなかったことはほぼ無いだろう。 戦争を経験しハンガリーからパリに逃げて女性作家として自立するプロセスでは女性としての自覚、社会に対する何らかの批判性をもって活動していると見做してさしつかえなく、ことに「日本の女性」とした本書であるのだからそこには単にエキゾチックな日本の探訪記には収まらないものがあるものと期待していいだろう。 冒頭、既婚・未婚に関わらず日本を訪れる者に対して知ったかぶりの者はウインクし、男には芸者の国にいくのかいといい、女性に対しては、男のいう事をよく聴き淑やかで無駄口をきかず理想的な女たちの国に女性としていくのなら比べられるのを覚悟しているのだろうがそれはいい根性だ、とも言い、日本の女性を妻とする男の幸せは言うべくもない、と言われてきた著者はフランスから飛行時間だけで40時間、6か所を中継して途中怪しい食事をテヘランで摂り、熱暑のニューデリー、バンコックを経由して日本に向かうのであるが機内での日本人スチュワーデスはフランス人のアナウンスを忠実に唄うような日本語で繰り返すがその事務的な微笑みの陰には夢見るようなまなざしはない、と書く。 香港から乗り込んできた中国人スチュワーデスはぴっちり体を包んだチャイナ服の切れ上がった股の部分から端正な脚が覗き疲れ切った乗客の眼には目覚まし効果が十分ではあるが夜の10時に羽田に到着した著者はこれから出会う女性たちが一般に言われる日本の女性像からは違ったものであることを半ば確信して東京の町にでる。

伝統的な髪結い、現代的なヘヤーサロン従事者、学生、芸者の卵、主婦、作家、バーの女性、農家の主婦など様々な女性にインタビューしたあと良子、幸子、静江、稲子、真理子などの名前を反芻しその名前に付けられた意味を想う。 日本の町で、とりわけ東京での移動に使うタクシーの荒っぽさに驚き「カミカゼ・タクシー」と呼ばれていることを知らされる。 日本女性の柔軟性と従順さには生きる知恵が裏付けされていて盲従ではないことを確認し、そこではアメリカ女性とは対照的な知性をみる。 こういう部分が当時も今も残るフランス人のアメリカ人に対する批判、偏見が充分うかがえるようだ。 戦後の日本の女性に対しては新旧、西洋/東洋の二つの相反する異なった世界の価値観が混ざり合わさっていることを観察している。 これは戦後70年経っても程度の違いはあれ社会に通底していることであるものの西欧からきて日本に長く滞在している者には認められるものではあるのだろうが日本人には当時に比べるとそれが見分け難くなっているのではないか。 

興味深かったのは産児問題について語られた部分だ。 女性問題でネックになるのはこの部分でもあるからだ。 昨日のニュースでも託児所の不足が政府発表と調査機関の発表とはことごとく異なり、まるで安倍政府が女性の職場参画に対して消極的であるかのような施策を未だ採り続けているといった批判がなされていたことだ。 本書が書かれた当時、日本の人口が8600万人、戦中には産めよ増やせよ、との掛け声がそのまま戦後ベビーブームを起こし、町のどこにも背中に負われた赤子がみられるようになり産児制限、避妊、受胎調節というような言葉も広げられ女性の脳に組み込まれるようになる。 けれど実際にはキャンペーンは公には行われず年出生数は170万人に及び、1951年には出生数が死亡数を130万超過したことがここでは述べられている。 1957年には出生数は156万人で政府のキャンペーンの効き目があったのか胎児の死亡率が上昇し、20秒ごとに新しい生命が誕生し、42秒ごとに死亡が数えられる。 斯くして統計数も1945年当時のものにほぼ戻り日本政府の政策が一定の効果をもたらしたものではあるが産児制限の陰に違法の堕胎が数多く行われ大きな問題となっていることも記されている。 

著者は当時日本の著名人にもインタビューしている。 歌舞伎の女方尾上梅幸43歳に何歳に見えるのか尋ねられ32と答え普通の男が女になっていく姿を見て驚愕し、新劇女優東山千恵子の来歴を聴き、ことに外交官夫人としてモスクワで観たチェーホフの「桜の園」以来西欧演劇を志し第一人者となり女優を養成する姿に接し、作家では林芙美子没後であり著者は1930年代にフランス語に翻訳された「放浪記」を読んでいることから同じ女流作家である吉屋信子に接し彼女のパリ時代の思い出をも聴きだしている。 

帰国に際して著者が日本で出合い見た日本の女性について、当然人形のように美しくおとぎ話の妖精のような女性たちを見ることはあっても一概には、日本の女性も他国の女性と同じく人生と格闘する人間には変わりないことを確認する。 そして10年後の日本の社会について、著者は子供の数は減少し、町は多少とも静かになっているかもしれないと想像する。


初雪だった

2017年12月10日 21時54分30秒 | 日常

 

オランダ全土に降雪注意報が出ていた。 この2日ほど日中3℃ほどの日が続き外に出る用事もなかったので3日間家の中にすっこんでいた。 日中霙交じりの氷雨が降ったりしていたが今日湿った雪が降って積もった。 家人は地元のウオーキングクラブの役員として小さなグループでハーレムの海沿いの砂丘地帯を歩く予定をしていて朝早く家を出て行った。 戻ってから訊いたところでは踝ぐらいまで積もった雪を歩くのは何でもないが、ただ、何人かが通ったところはぬかるんで歩きにくかったようだ。 防湿防寒の備えはしていてもどこからかしみ込んできて冷たいと言いながら湿った服や手袋を暖房のエレメントで乾かした。 1月、2月にマイナス10℃ぐらいになって乾いた寒さのほうが気持ちがいいとぼやく。 6人の年寄りたちのグループだったが途中で戻ろうかと相談したら誰も戻りたがらず結局15km雪の中を歩いたとのことだった。 一度歩きだせば暖かいけれど止まれば冷たいので帰りの来ない電車を待つ時間が一番寒かったそうだ。 この雪でダイヤが混乱して普通なら40分ぐらいで戻れるところを2時間かかったと言った。 

自分は独り暖かい家の中で外を眺めていた。 そして隣家の木に雪が積もっているのに気付き、そうだ、クリスマスツリーの時期だというのを思い出し、屋根裏からプラスチック製の組み立て式ツリーの箱を下ろして来てラジオの音楽を聴きながらまたのんびりと例年の如く飾り付けた。 


自転車がパンクした

2017年12月07日 13時47分36秒 | 日常

 

ジムで汗を流して自転車で家に戻ろうと100mも漕がない内に急に後輪の空気が抜けたのが感じられたから慌てて飛び降るともう空気は抜けてしまっていた。 そこから押しても家まで1kmもなく、またこの頃の天気のようにビチョビチョ雨が降っているわけでもないので手押しで家まで帰った。 けれど西風は冷たく先ほどまでのジムの熱気は道中で全て消え失せていた。 家に戻って腹筋運動などのジムの宿題をこなしシャワーを浴びたらパンクを修理する気が失せていた。 今日はどこにもいく予定もなく、また外は霙交じりの雨が吹き始めているのでやっと温まった体で外に出たうえに手を汚してまでパンク修理をする気も起こらない。 こんな日にパンク修理はいやだなあ、と帰途自転車を押し押しふと思いついたへたれ俳句を下に記す。 そんな今の時期、それでも好ましいパンク修理の情景を想って捻りだしたものだ。 けれど現実は外気3℃で冷たくかじかんだ指を汚しつつ物置小屋で世界を毒づきながら蠢くことになるのだ。

 

木漏れ日に

破れチューブを

繕りぬ


フィットネス・ジムの宿題

2017年12月06日 19時22分45秒 | 日常

 

毎週月曜と木曜の11時から1時間リハビリ・フィットネス・ジムに通っている。 もう始めてから15週間、30回になる。 1時間で行う筋トレから持続力養成にすこしづつシフトしていくにつれルーティ―ンになったトレーニングの一部を家でやれという宿題がでた。 マットをつかってやる腹筋と大腿筋のトレーニング三種に時間がかかるからそれを火・水か金・土に自宅でするように指導されたわけだ。 それを今日自宅の自室でやった。

ベッドの木枠に両足をひっかけ脚を曲げ仰向けに寝転び両手を首の後ろに組んで45度ほど起き上がるのを25回, それが済むと30秒休む。 それを4回繰り返す。 そのあと1分休憩し、横向けに寝転び脚を伸ばしすこし上に上げて30cmほどの円を描く。 時計回り、反時計回りとそれぞれ連続して途中で脚を下ろさず30秒ずつ続けて行う。 45秒休んで反対側に寝転び反対側の脚を同様に伸ばしまた30秒づつ逆方向に円を描く。 これをそれぞれ2回づつ行う。 立ち上がり辺りを歩いて股の痛みを解し2分ほど休憩、 次に普通の腕立て伏せの姿勢で屈伸運動をせず、合掌風に手を組み肘で体を支え背と脚を真っすぐ直線に伸ばし45秒間その姿勢を保つ。 その後45秒間休みまた45秒間体を支える。 45秒の運動とその後45秒の休憩を3回繰り返し4回目は体をその姿勢を2分間支える。 これでこのセットには23分かかりインストラクタ―・トレーナーのイネカが言う通り、1時間のトレーニングでのこの運動の割合が多すぎるような気がする。 

だからこれを家でやってジムではこれで浮いた23分を心臓系運動で持続力アップに向けるのが狙いのようだ。 持続力、耐久力は自分の弱い部分なのでいよいよ筋力から本格的な体力づくりに向かうこの変化は大歓迎だ。


観た映画; 2001年宇宙の旅  (1968)

2017年12月05日 23時05分40秒 | 見る

邦題; 2001年宇宙の旅    (1968)

原題; 2001: A SPACE ODYSSEY

139分

監督: スタンリー・キューブリック  
製作: スタンリー・キューブリック  
原作: アーサー・C・クラーク  
脚本: スタンリー・キューブリック  
  アーサー・C・クラーク  
撮影: ジェフリー・アンスワース  
  ジョン・オルコット  
特撮: ダグラス・トランブル  
編集: レイ・ラヴジョイ  
出演: ケア・デュリア デヴィッド・ボウマン
  ゲイリー・ロックウッド フランク・プール
  ウィリアム・シルヴェスター ヘイウッド・R・フロイド
  ダニエル・リクター 月を見るもの
  レナード・ロシター アンドレイ・スミスロフ
  マーガレット・タイザック エレーナ
  ロバート・ビーティ ラルフ・ハルヴォーセン
  ショーン・サリヴァン ビル・マイケルズ
  アラン・ギフォード プールの父
  アン・ギリス プールの母
  エド・ビショップ  
  ケヴィン・スコット ミラー
声の出演: ダグラス・レイン HAL9000の声
 
公開当時は賛否両論を呼んだものの、今や映画史上のベストテンに必ず入る、殿堂入りの名作SF。人類の夜明けから月面、そして木星への旅を通し、謎の石版“モノリス”と知的生命体の接触を描く。一応のストーリーはあるが、映画はその物語性を放棄し、徹底した映像体験で構築されている。猿人の眼前に屹立するモノリス、それに触れた猿人が骨を武器として用い他の猿人を打ち殺し、空高く放り投げられた骨は一瞬にして宇宙船へと変わる--その、史上最も時空を超えたジャンプ・カットを後に、舞台は宇宙へ移行する。『美しき青きドナウ』や『ツァラトゥストラはかく語りき』といったクラシックをBGMに、悠々と描き出される未来のイメージ。そして、木星探査船ディスカバリー号での淡々とした日常業務。やがてコンピュータHAL9000に異変が起こり、ボウマン船長は光り渦巻くスターゲイトをくぐり抜けスター・チャイルドとして転生する……。訳知り顔で、作品の根底に眠る意味を解く必要はない。座して体験せよ、そういうフィルムなのだ。

以上が映画データベースの記述である。 知人に貰ったDVDをパソコンのモニターで観た。 本作を初めて映画館の大スクリーンで観てからほぼ半世紀になる。 そのときの衝撃はヨハン・シュトラウスと宇宙船の映像が甘く美しい宇宙空間遊泳幻想を掻き立てるもので、それ以後様々な映像が我々の前に現れるとシュトラウス・宇宙船の映像が必ず脳内の参照源として引き出されてくるものとなった。 当時宇宙から見た地球の映像で正確で美しいものは本作のものぐらいしかなく魅入られるように眺めたものだ。 それがこの50年で様々な実像、CG映像に慣らされた我々は改めてみる本作の画像に一種映画の看板的なブラッシュワークをみることができるもののこの50年と言う時間を考えるとそれも自分たちの眼が「すれてしまった」ものとしてその書き割り像を看過することができる。 自分たちは戦後このようなSF画像を小松崎茂のイラストで見てファンタジーを掻き立てられてきたではないか。 これから先どんな美しくリアル感を盛り立てる映像が造られていくかしれないものの本作のこの映像はどの年代にも参照先として受け継がれていくことは間違いがない。 例えば宇宙船の形にしてもこれほどクラシックなものはあるだろうか。 地球からリング状の宇宙ステーションに客を運ぶ航空機/ロケットの美しさは現実のロケットの醜さを露呈させ、こうでなければならないと諭すようでもある。

本作を封切り当時高校生の自分が観てそのファンタジーにはついて行けないものがあった。 謎の石板とされているものを地球上には存在しない金属でつくられたものだと思い込んでいた。 そしてそれが「猿の惑星」における自由の女神像と同等に見た。 つまり本作での猿「人類」たちはこの金属板モニュメントを造り消滅した前世代に次ぐ次世代の人類だと考えたのだが、そこにつけられた題の「人類の夜明け」というものをどの人類なのか、人とは何かという戸惑いに陥らせる。 そして月面に現れた同様のモノリスに対面すると、それでは月はもともと地球だったのか、それとも地球と思っていたものがどこかの星であったのか、それを解こうとあれこれ映画を見ている間に探っていたことが思い出される。 その石板が後ほど宇宙空間に漂い恒星が一直線に並ぶその構図の中に位置される図柄が現れるに及び、またボウマン飛行士の経験する今としては少々ノスタルジックではあるサイケデリックな画像が現れるに及び自分は理を追うことを放棄した。 そして本作の印象は茫洋としたもののまま残り、その後様々な「宇宙もの」に接するけれどそれらは物語として消費される種類のものだったが本作は消費されず抽象化されたままで残っていた。 今回二度目として観るに及んでほぼ50年前に観たものが自分の記憶そのままの「ストーリー」としてあったのに少々驚いた。 というのは50年も経つとストーリーの紆余曲折のプロセスが記憶を変え自分の思い込みが別のストーリーとして独り立ちすることが多いという経験によるからだ。 それだけ本作の構造がある種単純で明確だったということなのだろうか。 

本作では音声・効果音・無音が本作を一級作品とするのに決定的な働きをしている。 我々は耳への直接の音の伝播には空気が必要であると知っている。 20℃であれば1秒に300mほど空気中を音が伝わり稲光がひらめいた時に数を数え始め音が聞こえた時の秒数に300をかけてその源の距離を算出して遊んだのは少年の頃のことだ。 けれど宇宙空間には空気は存在せずたとえ金属にものが衝突しても何も聞こえない。 スターウォーズの戦闘場面では花火が散るように敵の宇宙船が破壊される。 その効果音は幾らリアルに響いてもそれは我々の俗情に沿ったフィクションである。 キューブリックはその俗を排してシュトラウスを配したことが記念碑的創造であることが一つ、無音を効果的に配置したことが一つ、 宇宙飛行士の呼吸音を継続的に流すことで無限の宇宙の中の生物を象徴することからコンピュータの反乱の犠牲者となって死亡した飛行士が宇宙に漂い離れていく際の無音はリアルなものである。 ただ奇妙で不思議な宇宙空間の「音」を現すのに昔から伝統的なチューブを絞り出すような音を加えるのはすでに映画史上伝統となっているものに沿ったものだろうか。 オリヴィエ・メシアンの現代曲に現れる電子音にも似て屡々宇宙空間を表すときに用いられている宇宙の「音」である。

本作の2001年から16年経過しての現在である。 精々北朝鮮が中性子爆弾を搭載した大陸間弾道弾をどうするこうする、中国が月面に中国人を何年かまでに到達させる、いう時期でもあり慢性的な経済停滞期にあたり本作のような大型の宇宙ステーションはある種健全で楽天的なまでのファンタジーである。 もう普通になった地球上を周回する宇宙ステーションからの中継でみる機内のごてごてした狭さと本作の夢のように広くスタイリッシュなインテリアを見ると逆に今が本当に2017年なのかという想いも湧いてきそうになるだろう。 本作で近い将来のこととして1990年代のことが語られる。 1960年代からすれば当然のことではあるのだがこのことからして当時の経済成長下での予測が70年代のオイルショック、80年代の経済不況が無ければこうなるだろうという楽観的な図となっているものと見做しても差しさわりがないだろう。 技術的なことはさて置き無尽蔵に資金が使えただろう当時の夢の宇宙ステーションには60年代のヴィジョンが体現されているようでもある。

ここでの夢は白人の夢である。 有色人種はでてこない。 リング状の宇宙ステーションまで出張する研究者と機内のスチュワーデスは60年代の航空会社パンナムの未来像でありスチュワーデスの容姿は当時のヴォーグやファッション誌のグラビヤを飾る姿であり、また本作での男たちのスマートな背広姿と髪型を今では見慣れた現在の宇宙ステーションから中継される各国の研究者たちの半袖ポロシャツ姿と比べてみると2017年の垢抜けしないアメリカ的技術者たちの実像が浮かび上がる。 キューブリックが「時計仕掛けのオレンジ」でみせた別のスタイリッシュな像が思い起こされて対照的である。

見えない未来を可視化するというのは同時に現在を可視化するということでもある。 我々は1968年制作当時のファンタジーを見ることでそれからの距離と半世紀経っての現実を重ね合わせその間の時間を実感する。 そして技術的なことには測量可能だとしても地球外知的生命の存在、コンピューターの反乱については1968年当時の距離からとは未だ大して距離を隔てていないようにも感じるものだ。 それはこの50年と言うのが時間の経過が早いというのか遅いと言うのかその尺度を考える縁となるものでもある。

アンドレイの葬儀に行ってきた

2017年12月05日 13時35分20秒 | 日常

 

射撃クラブの同僚のアンドレイが亡くなった。 この25年ほど自分のクラブの先輩に当たりクラブの役員もしている信頼のおける仲間だった。 古式銃の技術的なこと、歴史的なことにかけては皆アンドレイのところに行っては様々なアドバイスをして貰っていた。 巨漢で大酒を飲みいつも葉巻を咥えていたのだがそれも7,8年ほど前に脳溢血で半身不随になり酒も葉巻も止めていた。 左半身が不自由だったものの懸命のリハビリで重い銃も撃てるようになり皆で回復を喜んだ。 けれど皆が酒やたばこを楽しんでいる時には我々を忌々しそうに眺めていたのだがそんな我々も段々と酒もたばこも飲めなくなるような者が多くなりクラブのバーでは意気が上がらないようにもなっていた。 アンドレイの連れ合いのマリーも自分の小柄な体に合うような銃器を撃っていたのだが3年ほど前に重くなったと言ってやめてしまった。 けれど毎週金曜には二人そろって我々とバカ話の輪を囲んでいた。 急性膵臓癌だった。 4週間前にクラブの仲間と北の州で古式銃長銃の300m競技会があった時に皆で出かけて元気だったものが急にこのようなことになってしまったのだと別のメンバーから聞かされた。 葬儀では半年ぶりに何人ものメンバーと出会った。 自分の胃癌の手術の後、花束と見舞いの寄せ書きを貰ったのだがその中にアンドレイとマリーのサインもあってまさかこんな風に向うが先に逝くとは思いもしなかった。

墓地は何か月か前に見学で訪れた市営墓地の静かな一角にあり、そこにはこの3年ほどで次々に亡くなったアンドレイの両親の墓も横にあった。 半身不随から回復し親の遺産で買ったハーレー・オートバイも結局2年ほどしか乗っていない。 ハーレー・モーター・クラブのメンバーも10人ほど自慢のバイクで弔いに来ていたが彼らは皆還暦を越えた男たちばかりだった。 享年66歳で自分より一つ若い。


家族で一日デン・ボスを歩いた

2017年12月04日 09時02分29秒 | 日常

 

毎年この時期になると家族で行う行事がある。 どこかの町を選んでそこを歩き夜はその町のレストランで食事をして解散するというものだ。 今までにアムステルダム、ロッテルダム、デン・ハーグ、ドードレヒト、ユトレヒト、ナイメ―ヘン、などを歩き、去年はブレダだった。 そして今年はデン・ボスで一日遊ぶことになった。 ハーレムが候補だったのだが娘がナイメ―ヘンに住んでいるので交通の便からするとちょっと遠いということからデン・ボスになったのだった。

自分はもうだいぶ前に一人でこの町を歩いたことがある。 今その時の日記を繰ってみるともう7年前のことになり、その時のことを下のように記していた。

 デン・ボスという町に行った(上); https://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/60964012.html

デン・ボスという町に行った(下); https://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/61043769.html

7年前の記憶はほとんどなく、ただ町の中心の三角形の広場の印象とヒエロニムス・ボッシュのコピーを集めたアート・センターの様子がおぼろげながら思い出されることだ。 前回は入場料が5ユーロほどだったものが7年経って7ユーロになっていたこと、前回にはヘッドフォーンがついた小箱を渡され、それぞれの絵の前に行くと音声で説明が流れて来たものが今回には英語とオランダ語で書かれた小冊子が渡されてそこに絵の番号がついた説明がかいてある、ということになっていた。 他の家族が済むまで待っている時に受付の年配の女性たちと話した。 前回の話をしてそのとき日本語、中国語の説明を準備しているとのことだったのだがどうなったか尋ねるとどちらもそんな話は聞いていない、音声の装置もなくなり景気がよくないから計画倒れだったのだろう、日本人も中国人もここにはほとんど来ない、ということだった。 ただ最近はロシア人が増えてロシア語の説明書が一部だけある、と言った。 東洋人はパリやロンドン、ニューヨークなどの美術館に行くのが忙しくてコピーを置いてあるここには来ないのではないかとのネガティブなことも言う。 幾らコピーだとはいえよくできたもので、それにボッシュの生まれて住んだ町で全ての作品が揃っており、この教会の塔に上がればボッシュの生まれた通り、住んでいた家の場所などが見渡せるのだから悪くはない。 町を歩いたあと1時間半ほど5時までの閉館までゆったり見物した。 我々が最後で外に出れば相変わらずの小雨が降っていた。

この日の朝は娘とボーイフレンドがナイメ―ヘンからくるのでデン・ボスの駅で10時半に待ち合わせをした。 息子はデン・ハーグからライデンの我が家に来て一緒に朝食を摂り息子の車で1時間ほどかけてデン・ボスに出かけて駅のスターバックスでコーヒーを飲みながら娘たちを待った。 初めてマキアートというものを飲んだが別段どうということのないものだった。 自分はスターバックスを好まない。 日本でもオランダでもいい経験はしていないし味もどうという事はないのに皆がもてはやす気持ちがわからない。 そこに行ったのはほかのカフェーがまだ開いていないからだった。 

細かい霧のような雨のようなものが大気の中を漂っている鉛色の一日だった。 我々のこの催しの統計上8割がたは晴れとは言わないけれど雨の降らない「乾いた」天気なのだがこういうこともあるのだから皆コートを着て歩く。 雨の中を歩くのは嫌いではない。 ネットで拾ったこの町の回遊ルートを辿り、まずこの町から外敵を防ぐのに築かれたシタデル、城壁を歩いた。 15,16世紀にスペインの侵略を防ぐためのものでどこの町にもこのような砦があり第一次世界大戦のころまで実用ではあったけれど今はもう歴史的遺産となり町の公園、観光地となっている。 こういう築城は五稜郭のモデルになっている。

https://www.google.nl/search?q=Nederlandse+citadel%E3%80%81Den+bosch&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwjGuaOHovDXAhXO-6QKHYuqD10QsAQINw&biw=1713&bih=898

こどもたちは町を歩くルートの途中でエスケープ・ルームというところを予約してあった。 そこに行くと我々5人は薄暗い部屋に監禁される。 その部屋を探していくつかの鍵を探し、番号キーであればその番号を解くヒントをヒントから探し一定時間内に外にでなければならない、というゲーム部屋なのだ。 いくつもそういう部屋があって30分、1時間、2時間など種類がある。 自分たちは30分の部屋を二つ試みた。 最後に外に出るドアの番号キーに到達するまで幾つもの関門は直線的につながっているであるから一つそこでつかえると時間がかかってもたもたしていると壁のモニターにヒントがでる。 初めの部屋は2分を余して脱出することができたが二つ目のヒエロニムス・ボッシュの部屋では最後の番号を解くのに探し当てた幾つかの番号を指定された算数に従って計算するのだがそれを誤って時間切れとなった。 この遊びは今流行りなのか何組もの家族、しりあい、友人などのグループがやってきていた。 時間があれば半日がかりの市内探索ゲームもあるようでヒントの入った木箱を二人で運ぶ姿が街中でも見られた。 謎解き、宝探しの要素が含まれているようでどこの町でもこういうものがあるとのことだ。

6時に予約してあったレストランに落ち着いた。 日曜の夜なのに客は我々の他は一組だけだった。 オランダのシンタクラースの夜だから皆どこのうちでも自宅でプレゼントのやりとりをしているので外に出るものはいないというのがその理由のようだ。 子供たちが独立していくらか経った3,4年前から自分はこういうことをしないと決めてあったので何も用意しなかったけれど他の者からはプレゼントをもらった。 料理は思っていた以上に美味くて満足した。 駅で娘とボーイフレンドに別れ車でライデンに戻れば10時を周っていた。 少々疲れを感じたのでそのままベッドに入った。


買い物客が多いと思っていたら

2017年12月02日 20時35分45秒 | 日常

 

月が変わって風向きが真北になり温度が氷点近くにまで下がって冷たくなった。 午前中霧が立ち込めていた。 午後、土曜の青空マーケットにでかけると食料品の店の辺りはいつもながらの混みかただったものが大通りの商店がならぶ辺りになると何だかいつもより沢山人出があるのでなんでだろうと思っていると、そうだ、これは12月5日のオランダのシンタクラースの祭りのためにプレゼントを買いに走る人たちなのだと気付いた。  土曜日は町の中心地は許可車両もシャットアウトで路線バスだけが通り自転車が大手を振って走れる日であるということも賑わいに貢献しているのだろう。 このシンタクラースの喧騒には自分はもうお役御免というところだ。 

毎週のようにまた今週も魚屋でムール貝を揚げてもらいそれを喰いしたあと市立図書館でミントティ―を飲みながら雑誌を読んですごし、知り合いの何人かと立ち話をして帰宅した。 マーケットにでかけたのに買ったのはDVD2枚だけで青空マーケットでは何も買わずただ立ち食いをしながら人を眺めていただけだった。

 

ウィキペディア; シンタクラースの項: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B9