暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

ノートルダムの傴僂(せむし)男

2013年09月13日 00時48分22秒 | 日常



今歩くのに腰を曲げノートルダムの傴僂(せむし)男のような格好で動いている。 ことの発端がわからない。 

日曜の昼に起きたらなぜか右の尻が痛くてベッドから起き上がるとびっくりするほどの痛みがあったのだがしばらく歩いているとそれが消えるけれどそれでも何かの具合に足を動かすとまたく痛み、ソロソロと階段の上がり下がりをしてやりすごそうした。 それでも日曜には甥に生まれたばかりの長男を見に町まで自転車で行ったのだからサドルに坐り自転車を漕ぐのには痛みは感じなかったのだろう。 甥の家に着いてソファーに腰掛けていると少々の痛みが右尻の上部、深いところで筋肉痛のように痛む。 坐っているより立つのがいいので生まれて10日の新生児を腕に赤ん坊を観察したり回りにいるものとも話しをしたり部屋を眺めながらゆっくり歩いたりした。 そのときは坐って軽い鈍痛があっても立って歩いていれば痛みはないのでそうしただけで赤ん坊を腕に10分ほどゆるゆると部屋の中を歩いていたというのはただ単にそのほうが楽だったからだ。

その翌朝痛みでベッドから起きるのに苦労したがよっこらさと痛みを堪えて起き上がり痛みを避けるにサルのように腰を落として立ち上がりそのうち段々と腰を伸ばすと痛みをほとんど感じることなく歩くことも出来て階段を下りるときには手すりを持ちながら下に降り立つことにはサルが人間になっていた。 自転車で仕事場に出かけそのまま2時間ほど立ったままで話をしていてもそのときには支障はなかったのだから不思議だった。 ところが家に戻り食事をしソファーに座りテレビを2時間ほど見て今度立とうとすると立てない。 また痛みが戻ってきてさて歩くとすると腰を曲げてしか歩けない。 痛みの所在は右の尻の深部のようでそろそろと腰をのばすようにして痛みを堪えながら100mほど歩くと消える。 だが坐ると痛みがもどってくるのだ。 坐っているときには痛みはない。 ただ、坐っていても咳をしたりすると痛みが走る。

その夜はベッドに横になってもひどい痛みがあってそれは消えなかった。 寝ているとときどき寝返りをうつ。 そのたびに飛び上がるほどの痛みが走る。 痛みを避けようとしてどのような位置に足を置いて、伸ばせばいいのか曲げればいいのかいろいろと試してみるのだが何処にもそのようなポジションを見つけることも出来なくてかろうじて一番痛みの少ないポーズだったのは右足を胸の辺りでまげるようにするもので、それでなんとかやりすごしたけれどこれは不自然なものでしかなかった。 それでもそれでしか仕方がなくなんとか眠った。 翌朝もベッドから起き上がるのが難しかったけれどその痛みの部位やパターンは前日などとは違っていた。 大抵夜寝て朝起きれば痛みなどは消えているものだがこれはそうはいかない。 それに痛みがあってもその原因が分からないからどうしようもないのだけれどフィジオ・セラピスト(整体士)のところに行けばなんとかなるかもしれず近々行って見ることにしようと決めた。

秋の到来

2013年09月10日 13時57分58秒 | 日常

この二日ほどで温度が10℃ほど下がり日中平均気温の18℃ほどのところに戻ってきた。 これで本格的な秋に入るのだろう。 それに空模様も変りやすくなって雨が降る。 これでカラカラに乾いていた庭の草木に散水しないで済むようになる。 夜間の温度が下がったときのためにボイラーのセントラルヒーティング用のスイッチを入れた。 

日曜の午後に近くに住む甥のところに出かけて彼らの初めての子供の顔を見に行った。 もう何人もの甥や姪にこどもが生まれてその度に見に行ったけれど生まれて10日ほどの赤ん坊を腕に抱いたのはほんとうに久しぶりだ。 自分のこどもたち以来ではなかろうか。 そんなことももう20年以上前になり、不思議なことにそのはっきりとした記憶は殆んどない。 ただ、今自分の腕の中にある生き物の軽さとおぼつかなさに呆然となる。 自分の子供が腕の中にあったときは多分絶えずその次のこと他の事どもが頭の中にあり、また自分の若い時であり始終このような小さいものと生活することでもあって今気楽に何の義務もなく眺めているような余裕もなく今とは立場もまるで違うものだったのだから今の思いをそのときと比べるということもできないだろう。

甥とそのガールフレンドは幼稚園からの同級生だ。 甥が生まれてすぐ心臓に穴が開いていることが分かり当時新生児では手術が無理で3年待って穴をふさいだ。 だから小学校を卒業するころまでは誰よりも小さく細かった。 それからはぐんぐん伸びてその家の家系通り190cmほどまでになり学校を出てから軍隊に2年いた。 その後我々の住む町で消防士となり何年か経った後一昨年休暇を取って彼女と一年間世界旅行をして何かのたびに南米やモンゴルなどあちこちの場所からスカイプで家族に連絡を取っていたのだが去年それを終えてオランダに戻り落ち着いたあとこの新生児の誕生となったのだ。 甥は育児休暇をとって2週間世話をしている。 まだ目もはっきり見えていない新生児も耳だけはいいようで我々の話す声を聞き分けていて、出産に32時間かかってまだ少々疲れがみえる母親の声には特に聞き耳たてている風だ。

そんな暖かい新生児のいるうちから自転車で自宅に戻るときにはもう気温もそらの様子も秋のもので夏の気配は一切消えていた。

宿敵 因縁のハットフィールド&マッコイ  (2012)観た映画、 Sep. '13

2013年09月09日 05時12分22秒 | 見る


邦題; 宿敵 因縁のハットフィールド&マッコイ  (2012)

原題; HATFIELDS & MCCOYS

惹句; ハットフィールド&マッコイ 実在した一族 vs 一族の物語

97分 x 3

監督:  ケヴィン・レイノルズ
製作:  ケヴィン・コスナー、 ダレル・フェッティ
製作総指揮: レスリー・グリーフ
脚本:  テッド・マン
撮影:  アルトゥル・ラインハルト

出演:
ケヴィン・コスナー   “デビル”・アンス・ハットフィールド
ビル・パクストン    ランドール・マッコイ
トム・ベレンジャー   ジム・ヴァンス
パワーズ・ブース    ウォール
アンドリュー・ハワード  “バッド”・フランク・フィリップス
ジェナ・マローン     ナンシー・マッコイ
メア・ウィニンガム    サリー・マッコイ
サラ・パリッシュ     レヴィシー・ハットフィールド
リンゼイ・パルシファー   ロザンナ・マッコイ
ロナン・ヴィバート     ペリー・クライン
ボイド・ホルブルック    ウィリアム・ハットフィールド
マット・バー        ジョーンジー・ハットフィールド
グレッグ・パトモア     グッド・ライアス・ハットフィールド
ダミアン・オヘア     エリソン・ハットフィールド
ノエル・フィッシャー    コットントップ
マイケル・ジブソン    ファーマー・マッコイ
サム・リード       トルバート・マッコイ
トム・マッケイ      ジム・マッコイ
タイラー・ジャクソン    バド・マッコイ
マックス・ディーコン    カルヴィン・マッコイ
ジョー・アブソロム
ジョン・ベル
ニック・ダニング
ジャック・ラスキー

粗筋;
A clash of clans that evoked great passion, vengeance, courage, sacrifice, crimes and accusations, which changed the families and the history of the region forever. The Hatfield-McCoy saga begins with 'Devil' Anse Hatfield and Randall McCoy. Close friends and comrades until near the end of the Civil War, they return to their neighboring homes - Hatfield in West Virginia, McCoy just across the Tug River border in Kentucky - to increasing tensions, misunderstandings and resentments that soon explode into all-out warfare between the families. As hostilities grow, friends, neighbors and outside forces join the fight, bringing the two states to the brink of another Civil War.

映画データベースにはデータがないので上のようにIMDbサイトから粗筋を牽いて念のため米版ウィキペディアをみたら両家の抗争の歴史が出ていて日本語訳まであるのを下のように見た。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E5%AE%B6%E3%81%A8%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%B3%E3%82%A4%E5%AE%B6%E3%81%AE%E4%BA%89%E3%81%84

尚、更に YouTube に 両家の名前を入れると様々な情報、当時の写真に歴史チャンネルの解説などが見られそれで背景、粗筋がわかるようでもある。

本作は男性向けのオランダ民放テレビ局が3夜連続でミニ・シリーズとして放映したものだ。 観ようと思った理由はケヴィン・コスナー、ビル・パクストン、トム・ベレンジャーが出ることと昔に比べてあまり制作されることのない西部劇だったのが大きな理由だ。 このような西部劇のミニ・シリーズでは何年か前に Into The West を観てざっと下のように書いた。 

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/61581286.html

Into The West の広大な話と比べると本作は広がりは小さいものの南北戦争後から20年ほどの間にバージニアとケンタッキー州の境界である小川を隔てた隣同士の二家族間に起こったことの顛末であり、その性格は当時西部では様々にあったであろう抗争の極端な例としてその緊張の凝縮加減が煮詰まった著明な逸話としてその後も長く人々の口に上った史実であるらしい。

南北戦争中ともに生死を共にした両家の当主が負けて戻ったアパラチア山脈の麓で生活を立て直し、写真も蒸気機関も電気も現れるような新時代が到来する中で些細なことから諍いが始まりそれが連鎖反応を招きその中で翻弄される人物たちとその問題の解決の可能性に興味を持つとともにここでも現在でも変らぬ銃による事故、事件の連なりに日頃本作に出てくるような銃を扱うものとして興味をもつとともにその国の近代の歴史を身近に感じたのだった。 それは日本の明治維新からの約20年間に起こった出来事であって日本の歴史と比べると少しは今も残るアメリカ人気質を理解する糸口にもなるとも思うしアメリカ人にとっても我々がサムライが闊歩していた時代のことがはっきり分からなくなっているようにここでの西部劇には我々が良質の時代劇を観るようにして幾ばくかの思いを持って時代の変化を感じるのだろうと思う。 ただ都市化した日本に比べるとアメリカの田舎にはまだ当時を偲ぶ風景はまだかなり残っていることは確かだ。

ケヴィン・コスナーとビル・パクストンについては申し分なかったけれどトム・ベレンジャーの存在感が少々薄かったのには残念な思いがした。 その分ビル・パクストンの妻を演じたメア・ウィニンガムが光った。 

ルガー マークIII 22口径

2013年09月07日 23時23分46秒 | バンバン


ルガーというのは我々子供の時から憧れの拳銃だった。 それはデザインが美しいルガーP08のことで、このほかのドイツ製ではワルサーP38、モーゼルC96などにもなじみがあった。 ワルサーの方は後ほど007ジェームス・ボンドが護身用のイタリア製ベレッタからワルサーPPKに変えられるところを小説で読んで四角いものからモダンな三角形のものになってボンドが急にファッショナブルになったような気がしたものだ。 けれどどういう訳かスマートなPPKにはあまり魅力を感じずむしろ見栄えのぱっとしないベレッタのほうに惹かれていた。

そのうちルガーにはドイツとアメリカのルガーがあると聞きいた。 20年ほど前に射撃を始めたときに第二次大戦中のルガー08の流れとみてもいいようなアメリカン・ルガー・マークIIがクラブの練習用の銃としてありそれを手にとってこれがルガーかと感慨に耽ったものだ。 それまではマークIIの形状からしてアメリカン・ルガーはドイツの製造元が姉妹、小会社を戦後アメリカに作ってそれが広がったのだろうと思っていたがそれは大きな間違いだった。 カタカナで書くとどちらもルガーなのだがドイツのP08は L, アメリカのは R の Luger, Ruger であり、こうなると全く別ものだったのだ。 日本人が喰う Lice と Rice の違いほどだろうか。

20以上年前に黒のマークIIを初めて手にしたときにはその銃身の形状からしてこのマークIIIより一層ルガーP08に似ていると思った記憶も二つが同系企業の製品だと疑うことがなかった理由だったに違いない。 ただ二つの銃は形状が似ていてもメカニズムが決定的に違う。 戦時中日本軍の拳銃だった南部式十四年式拳銃も枢軸国ドイツの写しだと言われたものだが形状は似ていてもメカニズムはマークI,II,IIIと同じもので、こうなるとP08の尺取虫構造は独特なものと写る。 尚いままでいろいろな拳銃を手に持ったけれど木目の美しいP08ほど手にしっくり納まる拳銃はなかった。 戦争映画のなかでもでもアメリカ兵が戦利品としてP08を欲しがるシーンがあるがその理由のひとつもこれなのかもしれない。 

22口径の弾丸がまだ幾つもあったので金曜夜、久しぶりにクラブに行ってマークIIを撃とうと思ったら修理中でマークIIIがあてがわれた。 15mのところに的を置いて老眼鏡で10発撃った。 4発は直径5cmの中に、あとの6発は直径15cmのところに納まっており、握り具合、引き金の圧といいこれが練習用に最適だといわれる理由がこれで分かるだろう。


ウィキペディア: アメリカン・ルガー マークI, II, III の項; 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%BCMkI

ウィキペディア:ルガーP08 の項;
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%BCP08

ウィキペディア: 南部大型自動拳銃 の項
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%BC%8F%E8%87%AA%E5%8B%95%E6%8B%B3%E9%8A%83

涼しくなったり、また夏がぶり返したり、、、、

2013年09月07日 00時20分29秒 | 日常

4日ほど前まで秋らしくなって、、、と書いていた。 それが3日ほど前にまた夏がぶり返したのか30℃を越えたと報じられ、それから今まで夏日が続き夜には屋根裏部屋の自室で窓を開け放していても夜中の3時で27℃なのだからこれでは普通のオランダ人はかなわない。 それにカラカラに乾いているから庭の草木に散水は昨日まで欠かせなかった。 

思い返してみると9月に入ったといっても大抵は必ずまた夏を思わせる日が何日か戻りそのうち徐々に涼しくなって、、、という風で、この月曜にもそんな風に日が短くなり涼しくなった夕方9時前にフィットネスのジムに自転車を漕ぎながら夏も終わりだと想いながら向かったのだがどっこいそうは簡単には秋にはならない、ようでその翌日には真夏が戻っていた。 もし10月に入ってこれならたまげるけれどまだ9月の第一週なのだからこういうこともあるだろう。 

もう20年以上前、娘が生まれた年に大阪から今の自分ほどの年頃の母が、小さい子どもをつれてハーグから越してきた今の家と二人目の孫を見に、それにまた日本の暑い夏の避暑がてら7月、8月とオランダに来たことがあった。 こちらに来て涼しすぎるのかデパートでオーバーを買うようなこともあったりしながらもフランス、ドルドーニュのキャンプ地で2週間ほどのバカンスも経験し9月に入ってから大阪に帰った。 けれど戻ってすぐ大阪の暑さに参って2週間寝込んだこともあったからそれ以後はこちらの涼しさは魅力ではあっても戻ってからの揺り返しがきついからたまらないとそれからはもういくら誘ってもオランダに来なかった。

北海道の北部に住んでいる人ならこれが分かるかもしれない。 自分は暖かい大阪で育ち寒いのが苦手だから大学も暖かい温泉のある松山にしたのにその後まさか樺太ほどの緯度にある北ヨーロッパに33年も住むことになるとは夢にも思わなかった。  それになんの因果か、住んでいるうちに体調もオランダ人並になっているから今の温度に少々バテ気味なのだ。 年末年始時期に帰省するときには大阪の冬は今の自分には寒くない。 こちらで使っているオーバーを念のために持っていくのだがほとんどがもち腐れだ。 そんなことを思っている間にそろそろ帰省のための航空切符を予約する時期に入る。 昨今は早めに予約すると少しは安くなるシステムなのでそのころのスケジュールが決まり次第予約しなければ11月ごろになると料金がかなり上がっていることからこれから2週間ぐらいの間に決められたらいいとしよう。

もどった夏といっても前庭にはこの22年ほどでドングリから13m以上に伸びたドングリの木にもう実が出来る季節になっていて、あと何週間かしたらそれが茶色になり、それが落ちてあたり一面に散らばるようにになるころにはこんな暑さはもうどこにも見られない。

宿敵 因縁のハットフィールド&マッコイ  (2012)観た映画、 Sep. '13

2013年09月06日 00時36分38秒 | 見る
宿敵 因縁のハットフィールド&マッコイ  (2012)

原題; HATFIELDS & MCCOYS

惹句; ハットフィールド&マッコイ 実在した一族 vs 一族の物語

97分 x 3

監督:  ケヴィン・レイノルズ
製作:  ケヴィン・コスナー、 ダレル・フェッティ
製作総指揮: レスリー・グリーフ
脚本:  テッド・マン
撮影:  アルトゥル・ラインハルト

出演:
ケヴィン・コスナー   “デビル”・アンス・ハットフィールド
ビル・パクストン    ランドール・マッコイ
トム・ベレンジャー   ジム・ヴァンス
パワーズ・ブース    ウォール
アンドリュー・ハワード  “バッド”・フランク・フィリップス
ジェナ・マローン     ナンシー・マッコイ
メア・ウィニンガム    サリー・マッコイ
サラ・パリッシュ     レヴィシー・ハットフィールド
リンゼイ・パルシファー   ロザンナ・マッコイ
ロナン・ヴィバート     ペリー・クライン
ボイド・ホルブルック    ウィリアム・ハットフィールド
マット・バー        ジョーンジー・ハットフィールド
グレッグ・パトモア     グッド・ライアス・ハットフィールド
ダミアン・オヘア     エリソン・ハットフィールド
ノエル・フィッシャー    コットントップ
マイケル・ジブソン    ファーマー・マッコイ
サム・リード       トルバート・マッコイ
トム・マッケイ      ジム・マッコイ
タイラー・ジャクソン    バド・マッコイ
マックス・ディーコン    カルヴィン・マッコイ
ジョー・アブソロム
ジョン・ベル
ニック・ダニング
ジャック・ラスキー

粗筋;
A clash of clans that evoked great passion, vengeance, courage, sacrifice, crimes and accusations, which changed the families and the history of the region forever. The Hatfield-McCoy saga begins with 'Devil' Anse Hatfield and Randall McCoy. Close friends and comrades until near the end of the Civil War, they return to their neighboring homes - Hatfield in West Virginia, McCoy just across the Tug River border in Kentucky - to increasing tensions, misunderstandings and resentments that soon explode into all-out warfare between the families. As hostilities grow, friends, neighbors and outside forces join the fight, bringing the two states to the brink of another Civil War.

映画データベースにはデータがないので上のようにIMDbサイトから粗筋を牽いて念のため米版ウィキペディアをみたら両家の抗争の歴史が出ていて日本語訳まであるのを下のように見た。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E5%AE%B6%E3%81%A8%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%B3%E3%82%A4%E5%AE%B6%E3%81%AE%E4%BA%89%E3%81%84

尚、更に YouTube に 両家の名前を入れると様々な情報、当時の写真に歴史チャンネルの解説などが見られそれで背景、粗筋がわかるようでもある。

本作は男性向けのオランダ民放テレビ局が3夜連続でミニ・シリーズとして放映したものだ。 観ようと思った理由はケヴィン・コスナー、ビル・パクストン、トム・ベレンジャーが出ることと昔に比べてあまり制作されることのない西部劇だったのが大きな理由だ。 このような西部劇のミニ・シリーズでは何年か前に Into The West を観てざっと下のように書いた。 

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/61581286.html

Into The West の広大な話と比べると本作は広がりは小さいものの南北戦争後から20年ほどの間にバージニアとケンタッキー州の境界である小川を隔てた隣同士の二家族間に起こったことの顛末であり、その性格は当時西部では様々にあったであろう抗争の極端な例としてその緊張の凝縮加減が煮詰まった著明な逸話としてその後も長く人々の口に上った史実であるらしい。

南北戦争中ともに生死を共にした両家の当主が負けて戻ったアパラチア山脈の麓で生活を立て直し、写真も蒸気機関も電気も現れるような新時代が到来する中で些細なことから諍いが始まりそれが連鎖反応を招きその中で翻弄される人物たちとその問題の解決の可能性に興味を持つとともにここでも現在でも変らぬ銃による事故、事件の連なりに日頃本作に出てくるような銃を扱うものとして興味をもつとともにその国の近代の歴史を身近に感じたのだった。 それは日本の明治維新からの約20年間に起こった出来事であって日本の歴史と比べると少しは今も残るアメリカ人気質を理解する糸口にもなるとも思うしアメリカ人にとっても我々がサムライが闊歩していた時代のことがはっきり分からなくなっているようにここでの西部劇には我々が良質の時代劇を観るようにして幾ばくかの思いを持って時代の変化を感じるのだろうと思う。 ただ都市化した日本に比べるとアメリカの田舎にはまだ当時を偲ぶ風景はまだかなり残っていることは確かだ。

ケヴィン・コスナーとビル・パクストンについては申し分なかったけれどトム・ベレンジャーの存在感が少々薄かったのには残念な思いがした。 その分ビル・パクストンの妻を演じたメア・ウィニンガムが光った。 







怖い声

2013年09月05日 13時43分52秒 | 日常
マーストリヒトに行って色々大きな公園を歩いているとき、広葉樹の大木がその枝葉の重みに耐えられないのか長髪の男が髪をそのまま無造作に伸ばして顔も見えないという風な枝垂れになっているところを通り抜けた。 

そんな木が三本ほどあり、それはまるで遊園地のお化け屋敷かファンタジー映画の怖い森の中の風情だった。 人がいなかったから自分の癖が出た。 トンネルに入ると奇声を上げて子供じみたことして咎められることがあるけれど今日はそんな者もそばにいないのでオオカミ、幽霊などいくつか声を試して自分でもその雰囲気にゾクゾクしはじめていた。 一本目を抜けて二本目のもっと大きくて暗いところにくると三歳ぐらいの男の子と30前ぐらいの父親がこちらに歩いてきてその子供が父親の手を握って、なんか声がしたね、といっているのが聴こえたからその親子とすれ違い通り過ぎて2,3m行った所で低い声を出してゆっくりウォーーーというとその子供は、怖くない、怖くないよね、と言って父親の顔をみている、父親の方はこちらを見て二コリとして、うん怖くない、といいながらこどもの手を曳いてその木を通り抜け彼らにはここほど薄暗くない木の方にゆっくり歩いて行った。

マーストリヒトで 酸っぱい肉(Zuurvlees) を喰った

2013年09月04日 05時34分01秒 | 日常



マーストリヒトに何日かいると必ず喰う地元の名物がある。 それはわざわざこのためにマーストリヒトに出向いて喰いに行くというようなものではなく地元の伝統料理ではあるけれどB級グルメというようなものでもある。 これについては二年ほどまえに自宅で作ってみて下のように書いた。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/62154051.html

土、日と二日居たこの町で土曜の昼には散歩していた市役所前の広場でいくつも軒をならべた魚屋の屋台からsurimiをカニの鋏の下に丸く塗付けてパン粉で揚げたものを昼飯代わりにしてその味の悪さが予想以上のものであったから何故普段地元の土曜マーケットで喰う白身魚の揚げ物にしなかったのか後悔しつつただ腹だけが膨れたのをいまいましく思ったのだが、翌日曜の昼飯には聖母教会の近くにあるカフェーでジュー・フレースを喰いそれに大いに満足したのだった。

当然今では元になる馬肉など使う店はなく、牛肉であるのは同然であり、それにはフレンチフライが添えられているのも普通のことだ。 このジュー・フレースを集めたさまざまな写真をみるとそれがわかるけれど時にはパンが揚げた芋の代わりにでてくることがあり、そうなると趣が少し変ってくる。 家人が作品を展示していた聖母教会の前の広場は日曜礼拝の人が行き交い、オランダの教会にはあまりないその薄暗く雰囲気のある教会での礼拝後に正装した人たちが観光客たちや地元の人々に混じって懇談したりして休憩するカフェーがいくつもある。 その中で昼にはひっそりとしていながら落ち着いた趣のあるカフェーが de bobel だ。(http://debobbel.com/) 日曜のまだ教会でミサが行われている朝11時に開店と同時に入ってジンとコーヒーを頼みちびちびとそれらを啜りながら本を読んでいるときにメニュー・カードをみているとこの名前があったので昼飯はここに戻ってこようと思ったのはまだだれもいない開店直後の店に漂っていた煮込み肉の匂いを思い出して昨日の昼飯の後味を消すのにこれは悪くはないと考えたからでもある。

二時前に戻ってくると店の前に一つだけ出してあるテーブルにアメリカ人観光客らしいでっぷりした中年男が坐って陶器の片手鍋に入った茶色のどろどろのものをパンで喰っていた。 横目でそれを見ながら中に入りジュー・フレースとビールを注文しテーブルについたらそのうち先ほど男が喰っていたものが目の前にきた。 若い頃の空腹さはなくとりわけ昼食で満腹にするということもしないからフレンチフライに未練はなくとも小さなパンには不安があったがそれは手にとってみるとまだ熱くカリカリに焼いたものでこれがジュー・フレースに合って予想外の美味さだった。 腹が減っているときにはがさつなフレンチフライがいいのだが味わうには熱く焼いたパンだと思った。 特にカリカリのピストレットの熱い皮がいい。 それでポットの肉を掬い取って口に入れていると先ほどのアメリカ人が清算しつつ如何にこれが美味かったかを大声で給仕に言っているのが聞こえて来た。

同日の夕方、車で250kmほど離れた自分の町に戻るまえに夕食としてマース川の対岸、大きな古い橋の袂にある普通の店でジュー・フレースを喰った。 10年ほど前に初めて喰ったのだがこの店で相変わらず同じような冴えない店構えだが味は昔のままでベルギー風フレンチ・フライで喰った。 昼も夜もジュー・フレースだったがどちらも美味かった。

週末マーストリヒトに行ってきた

2013年09月03日 18時14分04秒 | 日常


例年のように今の時期、マーストリヒトでは各地から芸術家を招待して作品を路上で展示する催しがある。 それに家人はこの5年ほど参加していてそれに付き添いとしてその度についていく。 することはマーストリヒトまでの250kmほどの運転手、雑用、家人が場所を離れたときに「店番」をすることぐらいで他の用事は殆んどなく、大抵あちこちぶらぶら歩き回る。 だからマース川の西側の古い町はもう地図がなくとも大体見当がつく。 自分の住む町は他の古いオランダの町と同様の仕組み、格好なのだがマーストリヒトはここにくると一挙にエキゾチックな雰囲気に包まれる。 オランダであってももうオランダではない。 南の雰囲気が充溢しているのだ。 すぐ近くにドイツ、ベルギーがあり町の佇まいが古く何かベルギーやフランスに来たような気がして浮き浮きする。 この催しについては3年前にこのように書いた。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/61069687.html

毎年二泊するのだがそのときはサイクリング友の会という組織の会員のところに民宿する。 もう80歳を大分越したマリア婆さんのところを定宿としているのだが今年は婆さん、誕生日の祝いを兼ねてオーストリアの知人のところに泊りに行っておりそこは駄目なので別の人のところに宿をとった。 町の中心にある聖母教会の広場がいつもの展示会場で、その民宿まではそこから2kmほど離れた町のはずれにあり、土曜には朝、展示広場で物を車から下して用意したあとは空の車を閑静な場所にある民宿の前に駐車させ、そこからまた歩いて町までもどった。 その日は歩いて二往復し、約10km歩いたことになる。 家を出るときポンチョとウオーキングシューズを車に放り込むのを忘れサンダルで歩いたので足裏に豆ができて少々痛んだ。 その時歩いていて思ったのはマーストリヒトは町全体がゆったりとしていてオランダのほかの町に比べると公園も広く大きな木が沢山あるということだ。 マリア婆さんのうちはマース川を挟んで対岸、中央駅のある方向ではあるけれど今回の宿泊先は川の西側であり旧市街の外れになる。 目算で近道をするのに公園と横切って歩く。 大きな芝生の中を目的の方向に向かって角を斜めに進むのだが途中には巨木の下を抜けていくことが多く同じルートを二往復しても苦にはならずむしろ気持ちがよかった。 町の様子と見るには車より自転車、自転車より徒歩がいい。

町の中の大きな広場をいくつか回ったり土曜のマーケットでものを買い食いしたりしたけれどもう新しさはほとんどなく、以前の経験を反復するだけでそうなるともう幾分か自分の町といった風情にもなり、徐々に通りと場所、方向の感覚がジグソーパズルを完成したときのようにはっきりしてきて、ここを行けばどこに行き、あれはどちらの方向か、というようなこともわかるようになっている。 この滞在中にも二度ほど道を観光客から尋ねられてその人の地図を見ながら現在地、目的の場所を指しその間の目ぼしい建物の様子を示すことができたのだからまんざらではない。 今回は同じ町に住む年配の同僚造形作家と一緒に出かけたのだがその人にマーストリヒトの素晴らしさを前もって言ってあり、帰りの車の中でそれが納得できたと言われたのだった。 つまり普通のオランダの町ではないのだ。 それはただ単に町の佇まいがエキゾチックだというだけではない。 文化、人の様子もオランダ的ではない。 日曜礼拝に聖マリア教会に家族で来る人々の服装をみていればこれはもう他のオランダの町から消えた文化のようにも思えてくるのだ。 つまり戦前から戦後暫くまであった「日曜の正装」の伝統がみられることだ。 

この会をもう何年も中心になって運営してきた女性が今年でやめることになった、と聞いた。 財政難ゆえか一頃に比べるとサイズがだいぶ小さくなったけれど国や市に頼らず独自に組織するのは楽ではないようで若い人に来年から運営を任すといっていた。 家人も同行した女性作家も従来どうりであれば来年も来たいとの希望をもっているようだ。