暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

私の音楽遍歴(2)

2005年02月13日 21時23分06秒 | ジャズ

私の音楽遍歴(2)

私が小学校の高学年に上がる頃は50年代から60年代に入り、私の村では山側から海の方に抜ける乗合バスが通る道は舗装になっていた。 友だちの兄さんは高校生で髪の毛をポマードでかためて、当時はやりの若きプレスリーの格好にしていたが、私にはあのようなプレスリーのどこががいいのかさっぱりわからなかった。 それより、ラジオから流れてくるへレンシャピロの、鼻音をふくむ低い声がとても切なく聞こえ、胸がしめつけられるようだった。  いまでも、その想いは変らないのがふしぎだ。 

その当時のデルシャノン「悲しき街角」にしてもシャピロの唄にしても、アメリカの流行り歌、特にイタリア移民の子孫の唄には抜けるような明るさが満ちていたが同時に奇妙な哀愁が幾分か含まれていたようなきがする。ここにはまだ黒人のブルースの影響はない。もちろん黒人グループのプラターズなどのヒットソングはあったものの、まだR&Bといえるほどの粘りは表面には出てきていない。 

これからあとの牧歌的なアメリカンポップスの時期を抜ければあとはビートルズとストーンズ、ジミヘンの怒涛の電気楽器で力が炸裂するロックの時代が到来するのだ。 けれど、この境目にまだ、言っておかねばならぬ、特にものの考え方にいささか影響を与える音楽もあったのだ。  

それは、次の機会に。

季節の移り

2005年02月13日 12時43分27秒 | 日常
今朝、自転車で出勤するとき角を曲がったらそのうちの一軒からベッドの底にあたる金属の網状のスプリングを運び出しているのを見た。

もう1ヶ月ほど前に亡くなった老人の床に敷いてあったものだ。

その老人は雨が降っていなければ、ほぼ毎日前庭の植木を手入れしていて、道行く近所の人に軽く手を振って笑顔で挨拶する品のいい隣人であった。 何年か前、近所のガーデンパーティーの折りに定年までの話を静かに語るのをビールのグラスを手に聞いたのが最後だった。 冗談を言うのにも慎みをもってはにかむような人だったように思う。

わたし達がこの通りに越してきたのが13年前、息子が3つ、娘が生まれて半年で、この通りには、子供の遊び相手になるような子供がいないことに気づいたのは引越しが片付いて、さて、と近所づきあいをはじめた時からだった。 こどもがみられるのは通りに住むおじいちゃん、おばあちゃんに会いに来る孫たちの、そんな日曜日ぐらいのものだった。

我々はこの通りで始まった世代交代のパイオニアだったのだ。 そもそも、この家の前の持ち主はつれあいが亡くなって10年のあいだ男やもめをジンと葉巻で暮して、いよいよ不自由になり養老院にはいることになった時には、子供たちも独立しており、売った家の代金を養老院に入る資金、残りを相続の財産として、このあたりの大抵の老人が踏む順序に従った。

それから、数年、夏の夕方食事が済んだらほぼ毎日1時間ほど子供達と前の芝生の広場でわたしと4つになる息子のサッカーまがいのボールゲームから始まって、小学校の上級になるとキャッチボールも加わり、娘も数に入れながら三角ベースのソフトボールで遊ぶまでになった。

その折には、いつも前庭に面した大きな窓ガラスには老人たちの我々を眺める姿があった。 何かの時には、子供が大きくなるに連れ背丈と動きが格段に伸びた事を立ち話で老人達が私に身振りをまじえて語ったものだった。 同時にわたしの子供達がかれらの目には自分の孫たちを見る鏡になっていることも確かだった。

この老人たちと立ち話をするのは大抵彼らが犬を散歩させるために表に出たときだ。ここでは犬がいれば見知らぬ人とも会話が始められ誠に便利だが、我々にはたとえ犬がいなくてもそのかわりに小さい子供がいるため、これで充分だった。

その子供たちも8つになるかならないかぐらいから地元のスポーツクラブに入ってそれぞれ練習もあり、中学校に入ると、親ではもう物足りなくなったのか、せいぜい付き合い程度の三角ベースのソフトボールに出てくるしかなくなった時には通りから老人の姿が消えており、わたし達が連れて越してきたような子供達をもつ家族で占められ通りの世代交代が終わった。 

この変化はこの3、4年で目に見えてはっきりしている。うちの子供達はもう、前の芝生では遊ばないし、代わりにわたしが今、4つ5つの近所の子供達が遊ぶのを窓越しに眺めるようになっている。 あと15年ぐらいすれば私もあの老人になる。

ジャズのスタンダードに、夏のミカンの花、というのがある。
冬枯れの景色の中で思い起こすのは光と緑の夏の日
その中でひときわ懐かしいのは可憐な色と甘い香りの夏の日のミカンの花、というものだ。 Kurt Elling という脂の乗り切った当代第一の歌い手がこれをしみじみと歌っている。

まず、訳がわからないけどやってみよう

2005年02月13日 09時37分07秒 | 日常
ネットをうろうろしていて、つい、面白そうだからやってみようとこんなものを作った。

自分の日記みたいなものだけど、やはり公開するのだから、肩に力がはいるし、別に書くこともないので、前にどっかに書いたことをメモ代わりに書いてみようか。

では、こういうの、、、



私の音楽履歴暑(1)

さて、夜中に部屋に誰もいず、Yahooのジャズの音を流しながら書いています。まず、ことの起こりは何だったのか。

多分、小学校の時の鼓笛隊でしょう。小太鼓を叩いた時のリズム、手に跳ね返る太鼓の皮の反応。かたかたバチを硬い木の机や磨いた大理石の表面に叩きつけてリズムを刻んだこと。

テレビで見たグレンミラーオーケストラのアメリカの音、市民会館でビートルズの完全コピーをした地元の連中を見たことに加え、その「エレキ」の装置と大音響に文字通り”しびれ”た事、ビートルズの見事なギターソロがジョージハリソンではなく、クラプトンだったと分かった時の驚き。

しかし、その時点では別に音楽がなければ生きていけないとは考えてはいなかったようです。ヘヤ-リキッドやどうすれば女の子の関心を惹くかの方が数段大切だったことは今の子供達とは別段変りはないでしょう。けれど、小学校、中学校の音楽の時間にひな壇や仏壇のような重々しい箱から聞かされたクラシックの音にも興味があったことは、トスカニーニやフルトベングラ-のLPがポールモーリアやトムジョーンズに混じってみられることからわかります。こんなコレクションを見られるのは自分の日記を覗かれるようで気恥ずかしい。

しかし、これでは、まだジャズに凝るまでにはいたっていない。