暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

季節の移り

2005年02月13日 12時43分27秒 | 日常
今朝、自転車で出勤するとき角を曲がったらそのうちの一軒からベッドの底にあたる金属の網状のスプリングを運び出しているのを見た。

もう1ヶ月ほど前に亡くなった老人の床に敷いてあったものだ。

その老人は雨が降っていなければ、ほぼ毎日前庭の植木を手入れしていて、道行く近所の人に軽く手を振って笑顔で挨拶する品のいい隣人であった。 何年か前、近所のガーデンパーティーの折りに定年までの話を静かに語るのをビールのグラスを手に聞いたのが最後だった。 冗談を言うのにも慎みをもってはにかむような人だったように思う。

わたし達がこの通りに越してきたのが13年前、息子が3つ、娘が生まれて半年で、この通りには、子供の遊び相手になるような子供がいないことに気づいたのは引越しが片付いて、さて、と近所づきあいをはじめた時からだった。 こどもがみられるのは通りに住むおじいちゃん、おばあちゃんに会いに来る孫たちの、そんな日曜日ぐらいのものだった。

我々はこの通りで始まった世代交代のパイオニアだったのだ。 そもそも、この家の前の持ち主はつれあいが亡くなって10年のあいだ男やもめをジンと葉巻で暮して、いよいよ不自由になり養老院にはいることになった時には、子供たちも独立しており、売った家の代金を養老院に入る資金、残りを相続の財産として、このあたりの大抵の老人が踏む順序に従った。

それから、数年、夏の夕方食事が済んだらほぼ毎日1時間ほど子供達と前の芝生の広場でわたしと4つになる息子のサッカーまがいのボールゲームから始まって、小学校の上級になるとキャッチボールも加わり、娘も数に入れながら三角ベースのソフトボールで遊ぶまでになった。

その折には、いつも前庭に面した大きな窓ガラスには老人たちの我々を眺める姿があった。 何かの時には、子供が大きくなるに連れ背丈と動きが格段に伸びた事を立ち話で老人達が私に身振りをまじえて語ったものだった。 同時にわたしの子供達がかれらの目には自分の孫たちを見る鏡になっていることも確かだった。

この老人たちと立ち話をするのは大抵彼らが犬を散歩させるために表に出たときだ。ここでは犬がいれば見知らぬ人とも会話が始められ誠に便利だが、我々にはたとえ犬がいなくてもそのかわりに小さい子供がいるため、これで充分だった。

その子供たちも8つになるかならないかぐらいから地元のスポーツクラブに入ってそれぞれ練習もあり、中学校に入ると、親ではもう物足りなくなったのか、せいぜい付き合い程度の三角ベースのソフトボールに出てくるしかなくなった時には通りから老人の姿が消えており、わたし達が連れて越してきたような子供達をもつ家族で占められ通りの世代交代が終わった。 

この変化はこの3、4年で目に見えてはっきりしている。うちの子供達はもう、前の芝生では遊ばないし、代わりにわたしが今、4つ5つの近所の子供達が遊ぶのを窓越しに眺めるようになっている。 あと15年ぐらいすれば私もあの老人になる。

ジャズのスタンダードに、夏のミカンの花、というのがある。
冬枯れの景色の中で思い起こすのは光と緑の夏の日
その中でひときわ懐かしいのは可憐な色と甘い香りの夏の日のミカンの花、というものだ。 Kurt Elling という脂の乗り切った当代第一の歌い手がこれをしみじみと歌っている。

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