きょうもランチは矢尾定の定食。
毎年祇園祭の時期には通りに鉾が立ち、賑わいをみせた矢尾定だったのだけど、今年はひっそりしていた。でも、床の間に大船鉾の掛け軸がかけられ、粽が三宝に載せられてお供えされてあった。
そういう年もあったことを記録するという意味もこめて、私は7月に矢尾定を中心とした今年の祇園祭、四条界隈の連作をつくって「塔」の月詠草に出した。掲載は三か月後だから、10月号になる。
そんなことをこのあいだなにげなく話したら、いっしょにランチを食べている(隣の席の)Y氏が、「矢尾定短歌、見せてくださいよ」と言ってくれた。
歌集だしたことあるなら見せてとか、職場のひとに言われたことが何度かあるけれど、とても興味深そうに短歌について言ってくれたのはY氏が初めてだった。「俺が見ている風景がどんなふうに短歌に書かれているかみたい」という。
それで、矢尾定短歌を先週末にプリントして手渡した。手紙みたいに。Y氏はスケジュール帳にそれをはさんで「あとで読ませてもらいます」と言った。
こっちからは感想などをきくことはしないでおこうと思っていた。読みたいという人がいて(短歌をしていない人で)、その人に私の歌が届いたというだけでいいかなと思った。
そしたら、きょう、矢尾定で定食を注文して待っているときに、「矢尾定短歌、読みましたよ。いやぁ、おもしろかった。こんなふうに見てはるんやなって。最後の雨の歌に、そのころに降っていた雨を思い出した」という感想を言ってくれて驚いた。
会社に戻ってからも、「俺もつくってみよかな」とか言うので、「作ってください! 写真撮るみたいに。そのときのこと、あとではっきりと思い出せますよ」と薦める。
短歌をやると、いまはやりの「丁寧な暮らし」ができますよ、というと笑っていた。
短歌を始めるきっかけって、なにげないことからってこともある。 じっと見るようになるし、覚えておきたいことを記録しておける。2倍生きてる感じがするよ、って、仕事中に熱弁をふるっていた。でもほんとうに短歌があってよかったなと思うことはたくさんあった。
いっしょにやりましょう。