うたのすけの日常

日々の単なる日記等

:結核療養所 1

2015-07-30 04:10:46 | 結核療養所物語

うたのすけの日常 結核療養所物語 1

2007-02-23 06:04:41 | 結核療養所物語
                  健康診断に引っかかる

 食堂組合では年に一度保健所の指導もあって、秋口に健康診断が行われていた。その年、もちろん赤ん坊が産まれた年も行われたのだが、それにあたしは引っかかってしまったのである。胸のレントゲンでである。通知を受けてあたしよりも母の顔に憂慮の影が走った。早速指定の病院での再検査に赴いたが、結果は黒。今度は精密検査ということで、水道橋にある結核予防会で断層写真をとることとなった。母の顔が一段と曇るのがわかる。母の指示で姉に付き添われての診断行きとなった。結核予防会は中学高校と、毎年学校で行われたツベルクリン検査の結果が陽性で、レントゲン写真を撮りに行っているので知っていた。

 断層写真を撮る大きな器械に恐怖をおぼえる、早い話が胸を輪切りにして撮る器械なのだろう。撮影が終わってしみじみと器械を見ると、四角な金色のプレートが貼ってある。米国プロ野球チーム、サンフランシスコ=シールズよりの寄贈と書かれている。オドール監督指揮のチームが1949年、戦後初めて来日して各地を転戦している。なるほどと感心しているばあいではなかった。いくらも待たないうちに部屋に呼ばれ、姉と入室して聞かされた話は最悪であった。
 
 右の肺上部にピンポン玉より、やや小さめの空洞があるということであった。見させられた写真には素人目にも、どんより曇に霞んだお月様のようなものが診てとれた。診断は肺結核である。あたしより姉のが先に大きく息を吐いた。即刻結核療養所への入所の指示である。指示というよりこの場合命令といったほうが適切であろう。結核は当時は国民病であり、勿論法定伝染病に指定され、結核予防法が布かれていて、治療は保健所の厳格な指導の下にあったのである。その場で入所先をいろいろ提示され選ばされた。姉もあたしも家から一番近い療養所を選ぶしかない、療養所の良し悪しの知識なんかないのであるから。
 行き先は○○と決めた。何日先か記憶にないが即刻の二字であったことはまちがいない。なにしろことは敏速に運ばれていった。その場で入所手続きがとられ、いろいろ入所の心得やらなにやらの書類を持って予防会を後にしたのである。
 
 家へ帰ってからがまたまた大変である。前の検査で菌は出ていないのは分かっているのだが、まるであたしはばい菌扱いの身となった。長女を結核で死なれていた母としては、悪夢の再来に直面しおののいている。言葉は悪いが即刻あたしの身柄を療養所に放り込んでしまいたいと、気は焦り転倒しているわけである。孫に病気が感染する事態に恐怖しているのだ。姉もそれに同調して、かみさんをせかして入所の準備にかからしていた。無理もない、あたしとしても娘や家族に病気を移すわけにはいかない。一家全滅の事例の悲劇を姉に見ているのである。

 翌日か翌々日か、昭和34年秋、あたしは姉に付き添われ常磐線に乗った。
 このお話、前回の「思い出すままに」と同様に再掲載です。


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