正午の重大放送
そのことは前日から私たちは新聞やラヂオの報道で知らされていて、それまでになんとか防空壕を完成させようと、朝から真夏の太陽のもと汗を流していた。寄宿している家の家族も総出、そして下宿人である私たち中学生五人が加わって数日前から始まった作業である。私たちはまさか、疎開先で防空壕作りをするとは夢にも思わなかったったので、半ば自嘲半ばやけくそ気分で鍬やシャベルを振るった。重大放送は戦局の緊迫を訴え、戦意を昂揚させるものだろうと皆で推測していて、あまり興味はなかった。昼も近づき空腹と疲労で目がかすみ、止めなくながれる汗に、土を削る鍬もまともに土に食い込まず流れて空を切る。
一年前の昭和十九年夏、私たちは東京の下町の国民学校から、学童疎開として東北のこの地に次代を担う少国民として、B29の爆撃から身を守るため疎開してきていた。三年生から六年生までの男女総勢約二百名、先生や寮母さんに引率され上野駅を出征軍人さながらに、街の人たちや父兄たちの歓呼の声に送られてきたのだ。戦局は日増しに悪化していたが、翌年三月卒業期を迎えた私たち六年生は東京に引き上げることになった。しかしそれぞれの家庭の事情もあって直接東京に帰るもの、家族が縁故を頼って疎開しているものはその地へ、私たち五人はそのままとどまり地元の中学に進学することになった。同級生と別れ、下級生とも別れて私たちは地元の有力者の家で下宿生活を始めた。戦闘帽を被り背嚢を背負い、細い脚に脚絆を巻き、小さな胸を張ってひと駅さきの中学への汽車通学の始まりだった。
六年生が東京に帰ってまもなく悲報が舞い込んできた。三月十日の下町大空襲の惨禍を免れたわが街は、四月十三日の空襲で校舎とともに焦土と化した。地元に戻った学友たちは離散し、わが家も例外ではなかった。詳報は伝えられず、私たちはただひたすら空腹の小躯に鞭打って、勉学には程遠い中学生活を送っていた。学校は夏休みに入っていたが、全員食糧増産の掛け声のもと、戦時農園の開墾作業に動員されていた。
既に沖縄は敵の手に陥ちていて、日本本土は孤立し海も空も敵の制圧下にあり、連日本土は敵機に蹂躙され戦意昂揚の新聞記事は、ただ空しさを募らせるだけであった。しかしここ東北本線から支線に入る沿線の町Hには、まだまだ日ごと出征兵士の見送りで小旗が振られるものの、見かけだけは空襲とは縁遠い長閑な日々があった。
その日私は前夜からの下痢がなおらず、作業を休み下宿の二階の部屋で一人横たわっていた。「そろそろ昼食の時間だな」と腹をさすりながら廊下に立った。眼前に町の象徴であるK山の温和な姿がある。そのとき山の中腹に銀色の固まりが目に入った、何だろうと目を凝らすと、山腹を背にその固まりはみるみる大きくなり唸りを上げた。敵機だ、瞬間両翼が光った。真下の菜園を機銃弾が削り土埃が走る、同時に腹にずしーんとひびく轟音がして家がはげしく揺れ、私は階段を転げるようにかけ降りた。階下は爆風で壁土が舞い視界が踊っている。「この子をつれて山へ逃げて」奥さんのしっかりした声で私は気を取りなおした。「あたしはおばあちゃんを見なくちゃならんから頼みます。駅の裏山がいい、裏道から線路わたって行きなさい」押し入れの中に潜む奥さんの手から私は夢中で五つになる末子のTの手をとり、奥さんの手渡す布団を抱えて裏口をとび出していた。裏道を懸命にTの手をひき走った。駅前の方角に黒煙が上がり、人の走る音、かん高く喚く声が耳を裂く。その騒音に追われるように引き込み線を渡り、駅裏の山裾にとび込み雑木林を縫う山道をかけ昇った。その時いきなり大気を引き裂くような金属音が唸りをあげる。「艦載機だ、双発の戦闘爆撃機」私は夢中でTを抱きあげ、雑木林に転がり込み布団を被りうずくまった。やがて静寂がもどり、立ち上がった私とTは音の消えた木立の中をひたすら走った。小高い丘を二つ越えて、次ぎの丘の上にたどり着くと、はいつくばってしばらくのあいだ息をひそめていた。どのくらいの時間そうしていたろうか、Tは私の手を握りっぱなしで放さないでいた。私はようやく立ち上がって頂から廻りを見回した。山々を縫う沿線の町が燃えている。右も左も山あいから幾筋もの黒煙が立ちのぼっているのが見えた。沿線の町々を敵機は襲っていったのだ。私は無性に腹立たしかった。なんの軍事施設も産業もない長閑な町に、素朴に日を暮らす無辜の人々の頭上に爆弾や焼夷弾を見舞い、機銃を掃射するとは人間のなせる業か。私はTを抱えるようにして、重い足取りで太陽は落ちたがまだ明るさの残る町に戻った。
「ありがとさんよ、Tをよく守って下さった」奥さんは涙声で言うなり私とTをふところに抱きこんだ。私は母の温もりを感じ思わず涙ぐんでしまった。級友たちは突如の空襲で開墾は中止、町に戻るようにとの命令で帰宅したという。口々に、消火作業の手伝いに参加したことを鼻高々に話し合っている。私は気恥ずかしかった、町が敵機の空爆で叫喚しているさ中、Tを奥さんから託されたとはいえ丘をいくつも越えて逃げまどったことが。卑怯者、臆病者のそしりを免れない行動ではなかったのではないだろうか。私は話の輪に加わらず、山で敵機を見たことは口を閉ざして話さなかった。
その夜風呂を浴び、食事のあと灯火管制された昏い部屋で、私たちはあらためて昼間の空襲の話に沈鬱な気持ちになっていた。駅前の二軒が焼失したのみで人家の被害は軽微であったが、死者が一人出ていたのだ。畑で収穫していた年寄りが機銃掃射を太ももに受け、切断手術のあげく「足を返せ、足を返せ」と喚きながら息を引き取ったという。無残だ。敵機のことに話が移ったが、町の人も、級友たちも勿論、実際に敵機を目撃した人はごく少数で、私は敵機のことはここでも語らなかった。そんなことはどうでもいいのだ、夏の日、突然殺戮者が風のように平穏にたたずむ町を襲い、一瞬にして家を焼き人を殺し、冷ややかに去っていったのだ。
その日を境に町中で一斉に防空壕作りが始まった。そしてその日八月十五日、昼近くに私たちの防空壕もやっと完成した。汗を井戸端で拭い、昼食まえ大勢してラヂオの前に座り、玉音というラジオの言葉に身を正した。戦争は敗戦という形で終息したことを辛うじて知ったが、敗戦にはなんの感慨もわかなかった。ただ無念で悔しかった、敗戦にではない。昨日からこの放送は予告されていたのだ、なぜに昨日のうちに、なぜもっと前に終戦の詔勅を出せなかったのだ。昨夜も東北の各都市は敵の無差別爆撃に蹂躙され、多大な被害をこうむり多数の死者を出している。町の年寄りも、足をもがれ死ぬことはなかったのだ、もっと前に戦いをやめていれば。
しかし子供だった私の思考はそこで途絶えた。最初から無残で無益な戦争さえ起こさなければという考えには至らず、夜に灯火管制の覆いを外し、まばゆい電灯の明かりに歓声をあげ、じょじょに嬉しさがこみ上げていた。少国民の気概など泡のごとく消え、私の気持ちはすでに東京にとんでいた。親兄弟に再会できるという嬉しさは息苦しくなるほどだった。九月十七日、その日付の入った上野行の切符を手にしたとき、私の戦争は終わった。だが一年ぶりに乗った電車の窓から見る生まれ育った下町は、真の闇だった。
戦争を知らない子供です
余り戦争のことは書かない主義です
だって日本も悪い事沢山してるよ
パールハーバーでも満州でも
敗戦ってなんだろう??
負けること、勝つこと??
同じ人間じゃないのかな??
みんな自分が可愛いのかな~
もりちんはバカだけど人間は動物以下と思っています
動物は自殺もしないし、、、
人間は神ではないと思います
神の一番の失敗は人間を作ったことと思います
人が人を殺して勝った負けたなんて??
帰ります
正直過ぎるのがもりちんの悪いとこです
うたのすけさんは戦争を知っている人だから
聴きます
戦争って何???
帰ります
ワニワニ
戦争を体験してるにしても、戦争って何と問われても正直返答に窮します。しかし人間そんな捨てたもんではないと思いますよ。いけない、「ろ」論議からは逃げる。これがあたしの主義でした。(苦笑)
誰かに伝えたい、何か書き残しておきたい。そんな毎日のこのごろです。