うたのすけの日常 父が迎えにきました
それは戦争が終わって一月後でした
八月十五日に終戦の大詔が下って、それから一月の余の疎開地での記憶がすこぶる曖昧なのです。学校へは通っています。何を勉強していたのか、友だちとの付合いはどうだったのか、思い出せないでいます。下宿で食卓に何が並び、何を食べていたのか、空腹に悩まされていた筈なのに、その間のことが空白なのです。ただいくつかのことは覚えています。点々とした記憶ですが辿ってみます。
勉強ですが、英語の発音練習で苦しんでいます。口の開け方、舌の使い方、息の吸い方、吐き方。ですからこの時点で、あたしの英語能力は限界に達しています。それに算術が、代数幾何にとって代わり悪魔の形相であたしを襲いました。もう一つ化学が、化学記号に集約されてあたしを翻弄しました。しかし軍事教練や、開墾がなくなった嬉しさは忘れません。そうでした、あたしの手元に分厚い辞書がありました。
おそらく家が空襲で焼けるとき持ち出したものを、中学に入学したとき、親が寸暇を割いて送ってくれたものと思います。今の広辞苑ぐらいの厚さがあり、確か「新字鑑」とありました。 この辞書は店のお得意さんの「ぶんせいかく」、どういう漢字を当てたかはわかりませんが、印刷会社がありまして、そこで姉たちが頂いたものです。既に紙不足だったのでしょう、色々な種類の紙質が混じって製本されていました。その辞書を引いたり、時には枕代わりに空きっ腹の体を横にしたりしていました。空きっ腹といえば何を食べていたのでしょう。食糧事情は確かに戦中より終戦直後のが悪化したのは事実と思います。
下宿の小さな男の子が、泣き叫んでいたのを鮮明に覚えています。おばあさんが白いお粥を食べていました。それを欲しがって子供が足をばたばたさせていたのです。おばさんはあたしたちに気兼ねもあったのでしょう、声を殺してばっちゃんは病気なんだと必死に口説いていました。大袈裟に言えばこの世の飢餓地獄を覗く思いをしたといえます。
学校は一駅先の汽車通学です。列車は復員する兵隊さんで一杯で、ある日上級生の一人が彼らに、聞こえよがしに敗残兵なる言葉を発したことがあります。幸い言い合いだけで終わりましたが、学校には次々と予科練や各種の少年兵に志願した先輩たちが戻ってきました。一時彼らの軍服で校舎が兵舎と見まがうほどでした。学校は生徒の軍隊志願を強烈に指導していたのでしょう。後に校長は公職追放になったと聞いています。
そんな頃父が迎えに来てくれました。一日千秋の想いとはまさにこのことです。父は平和な時によく着ていた背広姿でしたが、頭には軍帽そしてゲートルを巻いていました。
翌日前夜に深夜まで並んで買った切符の日付は、20年9月17日です。それだけは克明に覚えています。そして嬉々として父に伴われ一年半振りの東京に向かったのです。乗換駅の郡山では窓から満員列車に乗り込みましたが、記憶はそこまでで車中のことは何一つ覚えていません。しかし夜に東京近郊に列車が入る頃、窓の外の延々と続く焼け野原には恐怖さえ感じたものでした。
後日父は語っていました、溜め息混じりにことあるごとに。それはあたしを迎えに来た時の、郡山駅のホームでのことです。汽車を待つ間ホームのベンチに、農家の子とみえる男の子の兄弟が座っていて、やおら風呂敷包みをほどき、握り飯を取り出したそうです。その男の子の頭ほどもある純白の飯のお握りだったというのです。
父は生唾を飲み、金はいくらでもやるから売ってくれと、子供に危うく頼もうとしたと言うのです。
既にその頃は白米の二字は一般国民にとって手に入りがたい高嶺の花となっていたのです。
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