夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

2冊の絵本

2007-09-26 08:30:04 | 私の本棚
 カミさんと本当に久しぶりに、町なかのウォーキングを楽しみました。午前中は弘前城公園内の植物園、その後は紀伊国屋弘前店。久しぶりの本屋さんは見たいものが山ほどあり、たっぷり1時間半かけて歩き、そして2冊の絵本を買い求めました。
 写真の「木を植えた男」ジャン・ジオノ 原作 フレデリック・バック 絵
(あすなろ書房)と「森の絵本」 長田 弘・作  荒井良二・絵です。

 「木を植えた男」は
 「人々のことを広く思いやる、すぐれた人格者の行いは、長い年月をかけて見定めて、はじめてそれと知られるもの。名誉も報酬ももとめない、まことに奥ゆかしいその行いは、いつか必ず、見るもたしかなあかしを、地上にしるし、のちの世の人びとにあまねく恵みをほどこすもの。」の出だしで始まります。
 宮沢賢治の「虔十公園林」をふと思い出すようなストーリーでした。ほめられ、たたえられるために行なうのではなく、30年以上もの長い間ひたすら荒地に植物の種を植えつづけ、やがて幸いの地をよみがえらせた男の話。最後は養老院で静かに息を引き取るのだが、自身の人生を自分だけが納得して終えることができる幸せを、共感の中で読み終えた。

 もう一冊は「森の絵本」で、詩人の長田 弘さんの文章です.ほんとうに大事なもの、ほんとうに大切なものは何か?を問いつづけるお話。絵の荒井良二さんの色使いの鮮やかさが、物語の中に心を誘う。ほんとうに大切なものが森の中にあると語りかける。
 何度も読み返したくなる、素敵な絵本でした。

毛豆の収穫

2007-09-25 21:54:51 | 岩木山麓 しらとり農場日記
 今朝は毛豆の収穫を行なうつもりで久しぶりのしらとり農場を訪問した。オーナーに挨拶に行くと、きょうは午前中農作業は行なえない日だという。それでオーナーはニューフェースの女性と屋久島で漁師をしていたというヤッシ―の二人と穀物貯蔵庫の床のコンクリートを打つ作業をしていた。
 私はあうんの畑で収穫作業を行なうことにした。しばらくするとメンバーが畑に到着して、一緒に毛豆を収穫する作業を行なった。あっという間に2トントラックが山盛りになり、止む無く3分の1を残して、枝から豆を外す作業に切り替えた。11:30頃急に強い雨が降り出したので作業を中止し、あうんに引き返すが山のほうだけが雨だったようだ。昼食後またトラックにつけた毛豆の枝から豆を外す作業を行なった。たっぷり2時間かかって終了。あうんメンバーとゆいまあるのメンバーにお裾分けの毛豆を持ち帰ってもらった。りんご箱で3つくらい収穫があった。27日に行なう予定の収穫祭でも十分堪能できる量である。
 空を見上げても雲が厚くて、とてもお月見どころではない予感がした。
 自宅で夜の9時過ぎ、写真のような十五夜のお月さんがようやく雲間から姿をあらわしてくれました。お月様に今年の農作物ほかたくさんの収穫を感謝しました。

秋の味覚堪能

2007-09-25 07:07:20 | つれづれなるままに
 晴天の朝、いつも季節の山菜をおすそ分けしてくださる友人Tさんが、我が家に「オシロイシメジ」を届けてくれた。
 「青森県のキノコ」によれば、オシロイシメジは9月上旬から下旬にかけて、針葉樹林(カラマツ)、ミズナラ、コナラの広葉樹林地内に群生するキシメジ科シメジ属の良質のキノコだ。バター炒めか油いためや、味噌汁の具、煮付で食べるという。
 カミさんとその後公園を散策し、お昼にお蕎麦屋さんに立ち寄りざるそばを食べた。ざるそばは食べるお気に入りの店が決まっていて、このI店もその一つ。しかし、久しぶりのこの店に何か異変でもあるのだろうか。そばに腰がない。私だけでなくカミサンも気づいた様子。こういう味もいつまでも続くというわけではないのだろうが、直ぐそばに国立病院があり、私は年に二度胃カメラを飲む必要のある時期があった。それをうまくクリアした絶食の昼には、この店で大ざるを食べるのが楽しみだった。そのときのこの店の麺は香りも、そばも輝いていて、歯ごたえもそば特有の腰があって、そばつゆもちょうど良く、山葵もネギも新鮮でお気に入りの店だったのだが・・・。
 気落ちして店を出てカミさんと車に乗り、夕食の話になった。遅い昼食だったこともあって、「今晩なんにしようか?」と言われても、おなかがいっぱいで何にも浮かばなかった。「明日は十五夜だから栗ご飯なんかどう?」と言うと、あっさりとそれに決まった。スーパーに行くと十五夜用の商品が店頭に並べられており、ススキまで売っているではないか。ここはいつから都会になったのだろうか?とふと思っていた。店内にはその他9月にならないと出てこない「毛豆」やもうそろそろ終わりの時期を迎えそうな、とうもろこしなどが販売されている。魚の旬はなんといっても「秋刀魚」である。くちばしが黄色い秋刀魚は脂が乗って美味そうだった。家内がフライにしようかといってこれも買い物篭に入った。
 そんなわけで夕食はオシロイシメジのバター炒めと秋刀魚のフライ、それに栗ご飯だった。秋刀魚は焼き魚だけでなく、青ジソを巻き込んで片栗粉にまぶして揚げたフライに酢橘をかければとても美味しい。それに栗ご飯となれば、食卓から秋を感じさせられる、そんな幸せなひとときだった。翌日の十五夜に備えてしらとり農場に足を向けようと考えていた。
 

弘前城「植物園」

2007-09-24 22:23:48 | 一歩二歩、散歩~横道
 弘前城植物園は弘前市弘前公園内(弘前城)三の丸にあり、昭和63年5月31日 開園しました。面積は76,500平方メートルあり、散策所要時間は約40分~1時間
 
 快晴の朝、弘前市民会館に車を停め、カミサンと一緒に小一時間弘前城植物園を歩きました。きょうは秋晴れでカラッとしているのですが、結構日差しは強く暑く感じました。
 入園料は300円で、白神山地の植物と同じ植生の林からの散策です。今は初秋なので、春から夏にかけての花々はほとんど姿を消していて、今盛りなのは萩の花、それに写真のスモークツリーです。不思議な花です。全体がぼんやりとしていて、これが花?という感じでしょうか。それと彼岸花(曼珠沙華(まんじゅしゃげ)。死人花(しびとばな)。捨て子花。石蒜(せきさん)。天蓋花(てんがいばな)。天涯花。幽霊花。かみそりばな。)が今を盛りに咲いていました。季節ごとの花々や、万葉の花々(ムラサキシキブ)など珍しい花、あらためてあーこれがそうかと気づくような花々があり、楽しむことができました。いちいの木には赤い実がついていて、つまんで食べましたが甘くて懐かしい感じでした。ちなみに実は食べることは可能ですが、種は毒なのだそうです。弘前城植物園はもとは弘前大学の附属中学校や職業安定所などがあったのですが、今は移転してその跡形もありません。これから10月になればいよいよ菊と紅葉祭が始まるので、場内にはその準備作業が進んでいました。日頃運動不足の夫婦にはとても気持ちのよい時間を過ごすことができました。
 

津軽の標準語」赤だんぶり

2007-09-24 08:24:36 | 私の本棚
 2007年8月15日初版の「津軽の標準語」という622ページの本が目の前にある。著者は農家の方だそうで、久米田いさおさん。いわゆる私家本というものなのかもしれない。新聞に掲載されたものを家内が見て、購入したのだそうである。
「赤だんぶり」とは秋空を群がって飛ぶ「赤とんぼ」のことである。青色の布地の表紙に赤いトンボが二匹銀色の岩木山に向かって飛んでいる。
 トンボや美しい環境、そして津軽弁もみな無形文化財である。つまり今はあって当たり前のものがいつか亡くなっていくものである。なくなって欲しくないものがある。しかし時代や文明は流行り廃れを繰り返してきた。今は亡きものもたくさんあるのだ。つい先日の新聞に出ていたが、弘前の繁華街を流れる土淵川に幻の羽黒トンボが写真撮影された。一度は絶滅したかと騒がれたものがまた復活したりもあるが、二度と見えない、聞こえない、味わえないものもあるのだ。
 私が老人ホームでお年よりに夏食べたいものを聞いたところ、「マグァ」と答えた人がいた。わたしは若い寮母さんに聞いたが誰もわからなかった。年配の人(50代)に聞くと、「あーっ!それはマクワ瓜のことだね」と教えてくれた。私の子どもの頃は筋のついてフットボールのような形をした売瓜が美味しかったし、当時は皆それであった。今は品種改良が進んで、お宅的な人でないと作らない果物である。
 私が青森に来てからの試練はまさに言葉「津軽弁」であったし、それは長く住んでいればクリアできるものでもないことがよくわかった。もう津軽人として認めて欲しいくらいの30年の生活で、未だによそ者を意識させられるのはまさに津軽弁は聞けても、「しゃべらえね」(話せない)のだ。それくらいに津軽弁は難しい。
 ずいぶん前の話だが、近所で亡くなった方があり、おばあさんが我が家に来て「ダミするはんで、○○日の○○時に集会所サ集まってケロって、口ズシコで頼みス」と言われた。それがわかるまで、長い時間がかかった。「「ダミ(葬式)するはんで(しますので)、○○日の○○時に集会所サ集まってケロ(ください)って、口ズシコ(口伝え)で頼みス(お願いします)」だった。通常回覧版など紙に書いて伝えるのだが、急ぐ場合には口伝えでの連絡方法があるというのだった。
 津軽弁は「訛り(なまり)」と「方言」の二種類がある。訛りとは標準となる言葉があって、それが変形したものだ。「アベ」とは「歩け」とか「来い」という意味だ。方言は「どんず」のように「尻」を言う。「かちゃくちゃね」は「いらいらする」など気持ちを表わす言葉だ。「あずましい」は「ここちよい」「とぺかぺ」は軽率でおっちょこちょいなこと。ゴミは「投げる」が「捨てる」ということ。自動車は「ふっぱる」が「運転する」などだ。
 津軽弁には濁りがある。そして名詞にはお尻に「コ」がつく。「ネコッコノコッコ」とは「猫の子」のことである。そして中にはとてつもなく短縮する会話もある。有名なものには「ドサ?ユサ」がある。「これからどちらに行くのですか?」「お風呂に入りに行くのです」が「どさ?湯さ」なのだ。奥行きが深い津軽弁であり、繊細なこころを絶妙に表現することができるのも津軽弁なのだ。
 文化や言葉は、後世に伝えていく人がなければ消えていくものである。どのように残していくのかは、日常の価値観を人々がどこに置くのかにかかっているような気がする。人と人の関わり方が濃厚でさえあれば、それは守って行くことができる気がしている。
 

「一人の子どもの涙は、人類全ての悲しみよりも重い」

2007-09-23 14:49:29 | こころに残る言葉
 「一人の子どもの涙は、人類全ての悲しみよりも重い」

 (ドストエフスキー)

 柳田 邦男「雪のパイナップル」より

 ★「チェルノブイリのアンドレイ」
 1986年4月、ウクライナ北部にあるチェルノブイリ原子力発電所で大規模な事故が起きたとき、大気中に噴出したヒロシマ原爆の500倍といわれる大量の放射性物質が南風に乗って、北隣のベラルーシに広範囲にわたってまき散らされた。人口の5分の1にあたる約200万人が被爆し、全国土の22%が人体に有害な影響を与える危険性のある放射能汚染地域に指定された。子ども達の白血病と甲状腺がんが急増した。
 日本の医師・鎌田實さんを初めとする医療専門家グループが、ベラルーシの癌になった子ども達を救う活動をはじめたのは、1991年からであった。
 再三の救援要請にモスクワのソ連科学アカデミーを訪ねると、応対に出たクズネソフ教授がドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中にある言葉を引いて、こう言ったという。
「一人の子どもの涙は、人類全ての悲しみより重いと、ドストエフスキーが言っているが、チェルノブイリの子ども達は今、泣いています。しかし悲しいことに、私たちロシアの大人たちは、この子たちを救えません。日本の人に期待しています。助けてください」
 それから長野県に本部を置く日本チェルノブイリ連帯基金(JCF)という国際ボランティア団体が立ち上げられた。
 医療スタッフの水準は高いのに財政難で、白血病のための治療設備も薬もなく、日本でなら救える子も救うことができないという悲しい現実がそこにあった。
 それから「雪とパイナップル」が書かれるまでの14年間に、JCFは、会員を募っての会費や一般からの寄付を資金にして、白血病に必要な抗がん剤や各種の薬、輸血バッグ、無菌装置など約6億円分を、ゴメリ州立病院などに送り続けるとともに、医療チームを70回以上も派遣して来たという。これによって、白血病の子ども達の生存率は、飛躍的に向上したのだった。
 しかし悲劇の主人公アンドレイは、病状はいったん良くなったのだが、やがて悪化し抵抗力がなくなって2000年7月になくなった。
 彼の死後に明らかになったのは、母親のエレーナからの感動的なアンドレイの最期のお話である。
 骨髄移植をアンドレイは受けた後、熱と口内炎のために、まったく食事がとれなくなった。日本から移植療法の看護を指導するために来ていた若い看護師ヤヨイさんが、少しでも食べさせようと食事に工夫したが、それでもアンドレイは食べられなかった。
「何なら食べられる?」
 ヤヨイさんが何度も聞くと、アンドレイは小さい声で答えた。
「パイナップル」
 寒い雪の国で一度だけ家族で楽しくパイナップルを食べたのが忘れられない記憶になっていたのだろうか。ヤヨイさんはなんとかアンドレイにパイナップルを食べさせてあげたいと思い、オーバーコートを着て、氷点下二十度の雪と氷の町へ出かけた。極寒の二月だった。しかし見つけることができなかったが、その話を聞いた市民の中で缶詰を持っている人がいて、三日目の朝病院に届けられた。
 アンドレイはパイナップルを食べられたことがきっかけとなって、食事を取れるようになり、日増しに元気を取り戻していった。一時的なこととはいえ不思議なことだった。
 鎌田さんと再会したエレーナさんは、その時のことを回想して次のように語った。
 あるはずのない、パイナップルを探して雪の町を歩き回ってくれた彼女のことを考えると、私は人間てあったかいなあと思いました」「私はアンドレイが病気になってから、なぜ、私たちだけが苦しむのかって、人生をうらみました。生きている意味が見えなくなりました。でも、ヤヨイさんのおかげで、わたしの中に、忘れていたものがよみがえってきました。それは感謝する心でした。私たち家族の中に、新しい希望がよみがえってきました」
 このお母さんの言葉を聞いた鎌田さんは、この叙事詩に美しい言葉を添えた。

 (人間の命を支えているものが何か、少し見えた。
 少なくとも、最先端の技術だけで人間の命は支えられていないのだと思った。
 人間ってすごい。
 あふれる悲しみのなかで、人間は感謝することができる。
 人間は国境を越えて、民族が違っていても、宗教が違っていても、文化が違っていても、歴史が違っていても、、理解しあえる。)
 (「雪の国のパイナップル」鎌田 實)

 国家が国家に対しての支援するのと違って、こうした意識あるボランティア団体が自由に動いて、国家を超えていのちを救うという行為を組織することのできることは素晴らしいことである。とかく我々は自分の子どものことだけの幸せや自分が暮らしている地域については懸命になるが、こうした温かな国境を越えた支援は、決して目立たなくても多くの信頼と感謝、そして伝説となって長い間語り継がれていくことだろう。

POEM/かぼちゃん

2007-09-23 10:27:07 | 創作(etude)
 かぼちゃん
 ぼくは君が好きだ
 見てくれは決してよくはないけど
 自分らしさを主張している
 名前も少しどうかと思うけれども
 カンボジアから伝わったというから仕方ない
 もとはといえばその生まれは
 アメリカ大陸はメキシコの洞窟で
 紀元前7000~5500年の地層から
 種が発見されたんだってね

 かぼちゃん
 ぼくは日本人の生活にこんなに
 親しみを持たれてなじんでいる君はすごいと思う
 江戸の昔から冬至の日にきみを食べると
 かぜや中風にかからないとか、
 福が来るなどといわれてきたんだよね
 太陽の恵みをたっぷり受けて完熟し
 緑黄色野菜の少ない冬場に役立った
 粘膜や皮膚の抵抗力も強くする
 カロテンもたっぷりの君はすごい

 君の生命力は逞しく
 そして自由奔放な生き方は憧れ
 無農薬で無肥料でも
 君は畑の中を縦横無尽に
 蔓をたくさん伸ばして
 黄色くて大きく美しい花を咲かせる
 畑の中のソフィアローレンかもしれない
 太陽を一身に受けて
 カンツォーネかオペラでも
 高らかにうたっているようさえ見える

 かぼちゃんの呼び方も
 日本ではなんばんうり、ぼうぶら、なんきん、とうなす、
 欧米ではパンプキン、スクワッシュ、マロー、カショーだってさ
 さまざまな形と色が君の人柄を表しているかもしれない
 世界各地で多くの人々に親しまれている
 君はなかなかの世界的な人気者なんだよね
 外国ではシンデレラの馬車に使われたり
 ハロインなどではなくてはならない存在だし
 大きなオレンジ色ランタンに
 ろうそくをともして飾られてるんだよね
 
 豊臣秀吉が九州に行った時に
 甘味のある君を見出して
 以来ファンになったとか
 料理も主婦の味の煮付けから
 かぼちゃサラダ、プリン、スープなど
 君のクリ―ミーな美味しさは
 一躍若い人たちの憧れだってさ
 いよいよこれから冬にかけて
 君を味わえる季節だね
 かぼちゃん万歳!
 
 


 
 
 

バリアフリーとユニバーサルデザイン

2007-09-23 08:02:41 | 福祉について
バリアフリー(Barrier free)とは?
高齢者等の社会生活弱者、障害者が社会生活に参加する上で生活の支障となる物理的な障害や精神的な障壁を取り除くための施策、障壁を取り除いた状態をいう。一般的には障害者が利用する上での障壁が取り除かれた状態として広く使われている。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


ユニバーサルデザイン
ユニバーサルデザイン(Universal Design、UDと略記することもある)とは、文化・言語の違い、老若男女といった差異、障害・能力の如何を問わずに利用することができる施設・製品・情報の設計(デザイン)をいう。

具体的には、以下のようなデザイン例がある。
「安全」に配慮された自動ドア、エレベータ、ホームドアなど
外国人などのために、文字の代わりに絵文字(ピクトグラム)を使っての各種表示を行う
パソコンの操作を、キーボードやマウスだけでなく、他の入力手段に対応させる
パソコンの画面表示を見やすく工夫する
音声での出力に配慮した画面表示、構成にする
頭を洗っているときは目が見えないので、シャンプーのボトルに印をつけ、リンスその他のボトルと区別する

ユニバーサルデザインの7原則
The Center for Universal Design, NC State Universityによる原文 だれでも公平に使えること(Equitable use)
使う上で自由度が高いこと(Flexibility in use)
使い方が簡単で、すぐに分かること(Simple and intuitive)
必要な情報がすぐに分かること(Perceptible information)
うっかりミスが危険につながらないこと(Tolerance for error)
身体への負担が少ないこと(Low physical effort)
接近や利用するための十分な大きさと空間を確保すること
(Size and space for approach and use)
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 ユニバーサルデザインは物だけではなく、言葉やこころ(価値観)でも必要な考え方ではないかと思う。
 宮沢賢治が世界共通の言葉として、エスペラント語なるものを提案していたことを思い出す。日本は島国だということや、民族的にも少ない民族国家ということが、今日の英語などの国際語を話す必要性がないために、義務教育として根付かないことは、自分自身が最近特に感じる障壁でもある。お互いに関心を持ちながらも、なかなか心開いて理解しあえないところは歯がゆさを感じる。

 《エスペラント語で、希望する人の意》ポーランドの眼科医ザメンホフが考案し、1887年に発表した人工の国際語。ラテン系の語彙(ごい)を根幹とし、母音5、子音23を使用する。基礎単語数は1900ほどで、造語法もあり、文法的構造はきわめて簡単である。日本では、明治39年(1906)日本エスペラント協会を設立。エス語。



ノーム( Gnomes)

2007-09-22 13:05:09 | 私の本棚
 「ノーム」という本と「秘密のノーム」という写真の本が2冊私の元にあります。1冊の本「ノーム」は初版が1979年11月で、もう1冊「秘密のノーム」は1992年11月です。どちらも遠藤周作さん、山崎陽子さん、寺地 伍一さんが共訳しています。たて30.5センチ、横21.5センチ、幅2センチで結構大型の絵本です。絵はリーン・ポールトフリート、文はヴィル・ヒュイゲンとなっています。
 ノルウエーにあるノームの木像にノーム実物大と刻まれているようで、それの大きさは高さが15センチだそうです。これは西暦1200年のころの話だそうです。X線調査の結果この台座は、2000年前の彫刻だそうです。ノームたちの祖先はスカンナビア人だと書かれています。
 ノームは男女の別があり、女はほとんど家から出ないので見かけるのは、男の方だけだそうです。男たちは赤いとんがり帽子をかぶっています。上着はブルーのスモック、白いひげ、ズボンはチャ緑色のつりズボンで、カバの木の皮で作った靴を履いています。成人男性の体重は300グラムしかありません。年齢は最高齢は500歳で、一般的には400歳くらいまで生きるといわれているようです。
 自然とともにあるノームの生活は、遠くはるかな昔を連想させて、さらにその豊かな愛情や文化は一度体験してみたくなるような素敵な生活です。
 疲れたときに開くと、何だかお酒も美味しく感じます。

作品展反省会

2007-09-22 08:18:37 | つれづれなるままに
 30℃を超えた一日、湿気も手伝って汗ばんで気持ちが悪い。
 夕方から先日行なわれた作品展の反省会も兼ねて、夕食を食べながらヤマチャン(大学の社会福祉専攻の教授)のニュージーランドのエーブルアートをスライドで紹介してもらった。制約(しょうがい)が重たくても、エーブルアートを職業といえるのは素敵だと思う。オーストラリアのニュージーランドはマオリ族などの原住民とイギリスや欧米からの移民の島だという。その歴史の中で培われた共生の思想は福祉教育の世界では「ノーマライゼーション」をより具体化した「インクルージョン思想」へ進化させた国でもある。
 ヤマチャンはオーストラリアに若い頃から留学し、何度も気軽に訪問しており知見は高い。ヤマチャンの簡単な説明によれば、ノーマライゼーションがバリアフリーだとすれば、インクルージョンはユニバーサルデザインだと解説した。バリアフリーとは階段の脇にスロープをつけるという考え方に対して、ユニバーサルデザインは最初から階段をつけずに誰でもすべての人が住みやすいがコンセプトになる。代表的なのは海岸で、車椅子であれ市民が行ける所は誰でも行けるように配慮されている。なるほどと思った。それにしても、オーストラリアの特殊教育は日本よりもかなり先を進んでいるし、環境などの意識も高く、一番は原子力燃料を持たないということだろう。火力発電所があるということだった。喫煙に対する姿勢も国全体が煙草を売らない等死を意識した販売は消極的に見え、意識が高く感じられた。
 特殊支援学校と普通学校が同じ敷地にあり、どちらの学校に行くかは保護者の考え方の違いだという。選択出来る点が素晴らしいと思う。グループホームなども一般市民の住宅の隣にさりげなく建てられている。
 位置的には日本のまったく反対側に位置するので、気候も日本が夏だと向こうは冬になる。日本人がとても訪問しやすい島のようで、新婚旅行や留学先としても人気が高い。ニューギニアの原住民アボリジニなどを初め、動物ではコアラやカンガルー、キウイという羽根の退化した鳥など貴重な動物もなじみが多い。
 こういうスライドを観た後で、今年の作品展の評価と反省、そして来年はどうするのかを話し合った。当事者の見える作品展という点については、当事者の青年達が主役でおいでになった方々と触れ合えること。また施設にお客様を招いての○○祭り式ではなく、制約のある青年たち自身が社会参加という形での、街中の社会資源を使った活動紹介をしようということを確認し合った。音楽活動や、作品制作の実演、パンなどのメンバーは日頃自分が創りたいと思っている創作パンなどの紹介。そして試食や購入もできるコーナーの設置。年間を通じて積み上げる油絵のようなものの作成などはどうかという講師のTさんの提案もあった。考えれば、色々なプランが生まれてくる。
 ヤマチャンのニュージーランドの福祉の話しで、一番印象深かったのは、かつて千人もの障害者が居住していたコロニーが閉鎖となり、人々はグループホームなどに移った。そしてもともと原住民のものであったこの土地を、原住民に返すのだという。それでもまだ返還までの訴訟問題もあって、その保証金を原住民のマオリ族などに支払っているのだという。障害者差別禁止法がオーストラリアにはあるのだというこの一点をとっても、日本の人権意識は遅れているなあと思った。