👆群馬県渋川市近くの子持山を望む吾妻川。
1700年代ごろ、
この辺りは、平坦な河原に葦が無数に生えていた。
吾妻川に沿う砂利道を血相を変えて
渡良瀬、花輪から10里、
渋川の宿に泊まり、明け方、
中之条宗本寺に昼飯どきの前には着くと、
息子を急かせた万之助。
1744年1月13日宗本寺の諸堂が焼けた。
1742年、7月27日の午後から降った雨は、
東海から近畿、関東、北陸を襲い、
29日の夕刻には、辺り一面湖の状態になり、
家や田畑は消失して、農民たちは途方に暮れていた。
(寛保の洪水記録)
からっ風に義理人情、計画性はないが、
生真面目で正直者、飽きっぽいが、柔軟な頭脳、
くよくよしない上州人を絵にかいたような万之助。
1700年代ごろ、
この辺りは、平坦な河原に葦が無数に生えていた。
吾妻川に沿う砂利道を血相を変えて
渡良瀬、花輪から10里、
渋川の宿に泊まり、明け方、
中之条宗本寺に昼飯どきの前には着くと、
息子を急かせた万之助。
1744年1月13日宗本寺の諸堂が焼けた。
1742年、7月27日の午後から降った雨は、
東海から近畿、関東、北陸を襲い、
29日の夕刻には、辺り一面湖の状態になり、
家や田畑は消失して、農民たちは途方に暮れていた。
(寛保の洪水記録)
からっ風に義理人情、計画性はないが、
生真面目で正直者、飽きっぽいが、柔軟な頭脳、
くよくよしない上州人を絵にかいたような万之助。
焼け跡を片付け、洪水の後の生活に困窮しながらも
再建をしようとする、檀家たちを見た、
7月下旬。建立本堂欄間の彫刻を彫ることに決めた。
高瀬万之助、生粋の上州人。
大工棟梁は、箕郷和田山の松本吉右衛門。
再建をしようとする、檀家たちを見た、
7月下旬。建立本堂欄間の彫刻を彫ることに決めた。
高瀬万之助、生粋の上州人。
大工棟梁は、箕郷和田山の松本吉右衛門。
撮影禁止の条件で本堂の欄間を見せて頂いたものの、
本尊の上に龍、両面に飛天の緻密な彫り方に、
本尊の上に龍、両面に飛天の緻密な彫り方に、
度肝を抜かされた。
瞬間、撮影禁止がちらつき、
案内の坊さんが須弥壇の掃除をしながら、
チラリ、チラ、こちらを見ている・・。
案内の坊さんが須弥壇の掃除をしながら、
チラリ、チラ、こちらを見ている・・。
外陣の欄間に、子安地藏、赤鬼、牡丹と雉、鳳凰と青獅子、
白獅子に蛇に似た4つ足の架空の蛟、馬・・・
白獅子に蛇に似た4つ足の架空の蛟、馬・・・
彩色は剥がれいるけど、滑らかな鑿使いが、いい!
1750年完成した彫刻の欄間に墨書があり、
良く読み取れないけど、一枚一枚に施主の名前がある。
彫ったのは高瀬万之助、忠七親子。
親子はこの30年後、近くの応永寺の山門の彫刻を施し、
さらに20年後、忠七は宗本寺の欄間に3面を加えたのが、
私が見た宗本寺の欄間。
投稿者の現地報告をさらに、詰めることを期待するものです。
👇本堂玄関の彫刻は、たぶん万之助の作ではと・・。
1750年完成した彫刻の欄間に墨書があり、
良く読み取れないけど、一枚一枚に施主の名前がある。
彫ったのは高瀬万之助、忠七親子。
親子はこの30年後、近くの応永寺の山門の彫刻を施し、
さらに20年後、忠七は宗本寺の欄間に3面を加えたのが、
私が見た宗本寺の欄間。
投稿者の現地報告をさらに、詰めることを期待するものです。
👇本堂玄関の彫刻は、たぶん万之助の作ではと・・。
高瀬万之助親子が、吾妻地方に熱を入れたか・・
分らない。
こちらも現地調査の報告を期待したい!
分らない。
こちらも現地調査の報告を期待したい!
バク?の顔かしら
牙があるのが面白い💦
ドングリの写真がコロコロ可愛いく気に入りました(*^^*)
バク、悪い夢を食ってしまうバク。
洪水の悪夢を食ベてくれるバク。
可愛かった
コロコロ転がりそうで、
気づいたら撮っていた!