1979年黒保根、下田沢にささら舞いが伝わり、
小さい太鼓から山間の医光寺の境内響いていたころ、
その年10月、南の島桜島が大噴火し、島民の大半が焼け死んでいる。
関口文治郎がその話を聞いたのは、
1980年11月、桐生下田沢から10里離れた、箕郷村で、
不動寺の境内の仮小屋で空っ風、寒さをしのぎながら、
欄間に3つの24史彫っていた時。
関東、文治郎の噂は、左甚五郎の生まれ変わりと、
一際高い評判。
箕郷柏木沢の農民は、4丁離れた
「不動寺」の境内でひと目、
文治郎見たさに境内を埋めるときもあった。
文治郎49歳、弟子の千次、松治は、文治郎の子供。
弟子の才能は、文治郎22歳で、医光寺の24史を彫り上げた技には、
とてもかなわない、
が、男前ではあったろう。
11月14日、不動寺の24史を彫った後、
藤岡の「秋葉神社」で一仕事を終えた、
よく年、1781年、箕郷村の「赤城若御子神社」の、
本殿に彫刻の依頼を受ける。
それからさらに1年半後、1783年7月7日、
浅間山が大爆発するなど、知る由もなく・・。
その「赤城若御子神社」
磨けば、立派な神社であります。
写真 2018.6.24 高崎市