3388 野球ブログ

日米を問わず名選手を紹介。

2013年 野球殿堂入り(20)

2013-02-17 17:36:37 | Weblog
通算317勝で実績にケチの付けようがないと思われる鈴木啓示投手も、殿堂入りの候補になってから130、188、211と投票数を伸ばし、最終的には228票で2002年に殿堂入りしています。この間に選手としての実績以外を評価されたとしか思えない古葉竹識、近藤貞雄、根本陸夫等が殿堂入りしています。三冠王3回他抜群の実績を誇る落合博満も規約改定により、現役監督ながら殿堂の候補になった2008年度は194票しか入らず、実績的にはかなり劣ると思われる堀内恒夫、田淵幸一、若松勉の後塵を排しています。その後1票不足で2年連続で殿堂入り出来ず、候補になってから4年目でようやく殿堂入りしています。彼の場合記者との軋轢と、殿堂入りとは全く関係のない点が投票の伸びない主たる原因なのでしょうが、やはり古くからの候補から片付けてしまうという風潮がある様に思えてなりません。候補になってから何年目であろうとも、その選手が殿堂入りに相応しいかどうかのみで、選出委員には投票して欲しく思います。殿堂入りに値すると思われる選手には何人でも連記出来る様にして、その代わり候補になるのは1回のみという選出方法の方がはっきりしており、他の選手との兼ね合いがなくいいかと思ってしまいます。

鈴木孝政、竹田和史VS五十嵐亮太、石井弘寿

2013-02-16 11:00:24 | Weblog
2002年に球の速さからロケットボーイズと名付けられ、リリーフとして大活躍したヤクルトスワローズの右腕五十嵐亮太と左腕石井弘寿の両投手の登板を見る度に、1970年代中頃、中日ドラゴンズで同じくリリーフとして大活躍した右腕鈴木孝政と左腕竹田和史両投手の投球を思い出したものです。この2組のコンビ、共通点が多いものです。右腕と左腕のコンビ以外の最大の共通点は4投手共、その時代に於いて、球界でも指折りの球の速さを誇っている点です。又左腕投手竹田和史と石井弘寿の最盛期が短かった事も、残念ながら共通している点ではあります。左右の速球投手のリリーフコンビ、この2組の球の速さは群を抜いていたと思います。しかし4人それぞれに個性がありました。肘の撓りを利して浮き上がる様な球を投じる鈴木孝政対担ぐ様なショートアームから重い球を投じる五十嵐亮太、制球に難があるものの切れ味鋭い竹田和史対同じく制球に難があるものの凄み、重みを感じさせる石井弘寿の球、皆タイプは違っていました。左右の速球投手のリリーフコンビ、この2組が最初に思い浮かぶものです。

2013年 野球殿堂入り(19)

2013-02-15 16:51:29 | Weblog
競技者表彰で殿堂入りした人達の年度別投票数を見ていくと、徐々に投票数が増えていき、何年か後に殿堂入りするというケースが多い様です。これは古くから殿堂入りの候補になっている人達から、殿堂入りしていく傾向が強いという言い方も出来るかと思います。選出委員が7人以内の候補者を連記という方法なので、年度毎に他の候補者との争いという事になろうかと思いますが、会社の年功序列の人事ではないのにも関わらず、どうしても古くからの候補者を先ず片付けてからという感が拭えません。少し例を挙げて見ます。実績抜群の門田博光選手は候補になってから138、175、205、と投票数を伸ばし4年目の2006年に238票を得て殿堂入りしています。引退が1992年、監督やコーチの在任期間のない彼が、何故殿堂入りに14年、実質的には8年もかかったのか不思議でなりません。その間、上田利治、関根潤三、仰木彬、森祇晶等、監督やコーチとしての実績を買われたかと思われる人達が選ばれております。彼らが殿堂入りに値するかどうかは別としても、昔からの候補者を優先的に投票している様に思えてしまいます。次回、もう少し例を挙げて見ます。

鵜沢達雄

2013-02-14 21:21:26 | Weblog
1970年ドラフト4位で大洋ホエールズに入団、その後西武ライオンズを経て1980年に引退しています。実働は1972年から1979年の内、登板なしの1978年を除き7年間になります。公称175cm、73kgと決して大きくない体ながらも、オーバースローに近い位置から投じてくる球はかなり速く、威力はあったかと思います。又カーブもややドロンとした感じで落差が大きく、打者のタイミングは狂わせていたかと思います。球の速い投手の話題になると、必ず鵜沢達雄投手の名前を出してくる人達もおり、単に速さだけならあるレベルには到達していたかも知れません。しかし、彼より少し前の時代の鈍重なイメージを抱かせる大洋ホエールズの二線級の投手達程ではないものの、彼にも腰の捻りや肘のしなりも含め、どうしても切れの良さを感じられなかったものです。入団は1年遅れながらも、1軍デビューが同じ1972年の竹内広明投手の切れ味抜群の投球と比較すると、どうしてもかなりの資質の差を感じざるを得ないものでした。1試合平均7個を超す与四球率が、伸び悩みの原因と言われていた様ですが、もし制球が良くても、あの球の切れだと大成するのは困難な投手かと思います。



通算成績     84試合      7勝14敗     防御率  4.65     119奪三振

毒島章一(3)

2013-02-13 13:00:12 | Weblog
三塁打を放つには、脚力と思いっきりの良さが必要とされ、三塁との距離が大きい右中間に鋭い打球が飛ぶ可能性が高い左打者の方が、三塁打の出る可能性が高いと一般的に言われています。毒島章一の脚力ですが、一応俊足の部類に入るかと思うものの、通算三塁打部門トップの福本豊や右打者ながら5位の広瀬叔功、6位の中暁生程の速さはなかったかと思います。残念ながら、リアルタイムで彼の三塁打を殆ど見ていないのですが、本人が三塁コーチは見ずに行けると思ったら果敢に狙ったと語っている様な思いっきりの良さが、その多さの主たる要因かと思います。少し当時の環境を思い出して見ます。彼の現役時代、球場の広さは、一時期存在していた東京スタジアムを筆頭に現在よりかなり狭いもので、この狭さは三塁打を放つには不利な条件とは思うものの、当時の外野手の肩の強さは、総じて現在の外野手よりかなり弱いのと、現在程ライトに強肩の外野手を配備する事は少なかった様に思います。勝手に色々推測しましたが、毒島章一の残した通算三塁打2位の記録と、これも同じく通算2位の記録、900打席連続無併殺打も含め、手を抜かずに全力でプレーしていたであろう事が、容易に推察出来ます。地味な選手でありながらも、意外な記録の持ち主、毒島章一という選手がいた事は、そのユニークな苗字と共に忘れられるものではありません。

斎藤浩行(2)

2013-02-12 13:38:08 | Weblog
矢野清選手の打席で球を捉えるタイミング、スイングのパターン等が、斎藤浩行選手を見る度に思い出していました。イメージとしたら矢野清よりパワーでは勝ると思われるものの、打席での柔軟性ではより欠けている感じで、スイングのパターンに乏しく、且つドアースイングの傾向もあった様に思います。従って短絡的ではあるものの、斎藤浩行はこのまま台頭出来ずに終わるか、あるいはもし台頭出来たとしても、一時的なもので終わってしまうかも知れない選手という印象を受けました。結果的には移籍先の中日ドラゴンズで一時的な活躍はあるものの、一軍では大成出来なかった選手と言えるのでしょう。しかし斎藤浩行の広島カープ時代の背番号が39番から7番、10番と変わっていった推移や、移籍後のチームも含め、161本塁打を記録出来るまでの期間、ファームに在籍する事が出来た等、万が一化けたらという期待を抱かせる選手だったと言えるかと思います。かって中日ドラゴンズでパワーを期待されながらも大成出来なかった菱川章選手と重なる面もある様に思います。



通算成績    228試合    89安打     0.196      16本塁打       41打点

ある選手の記録

2013-02-11 13:43:24 | Weblog
通算盗塁数220、失敗80、キャリアハイ34盗塁、通算三塁打数、歴代4位の99個、キャリアハイ12個、三塁打リーグトップの年2回、1試合3個の三塁打の記録保持者、実働18年間、通算打率0.313、通算本塁打数181本という数字でどんな選手であり、果たして誰であるか即分かる人は少ないかと思います。数字にもの凄く明るい人でしたら、通算打率が一番のヒントになろうかと思います。この数字からはある程度脚力があり、積極的な走塁も試み、又三塁打の多さから左打者であり、かなりの打率を残せるも、本塁打王を狙うにはパンチ力に不足のある好打者を思い浮かべる人は多いかと思います。しかしこの数字、打撃の神様と言われ、打率、打点、本塁打それぞれ複数回のタイトル獲得歴のある川上哲治の残した数字です。川上哲治をリアルタイムで見たのは晩年の2、3年しかないので、彼に就いて語る資格はないのですが、晩年或は引退後、彼の守走に就いてよく聞かれる言葉は、守備は下手で少しでも送球が逸れたら取れない或は取ろうとしないとか、もの凄い鈍足で打撃以外には興味を持っていなかった等のかなり厳しい言葉が多く、打撃以外の評価はかなり酷いものでした。守備は兎も角としても、上記の数字を見る限り鈍足の選手で可能なのかどうか、甚だ疑問であります。走塁面に関しては、残した数字と評価が大きく異なる選手、実際はどうだったのか妙に気になるものです。

斎藤浩行(1)

2013-02-10 13:43:49 | Weblog
1982年ドラフト2位で広島カープに入団、その後中日ドラゴンズ、日本ハムファイターズに移籍し、11年間の実働を経て1992年に引退した右投右打の外野手です。外野手と書きましたが主に一塁を守った時期もある様です。斎藤浩行選手の打席は代打での打席が主ながらも、ある程度の数は見ているのですが、先ず思い出すのは、彼が打席に立つと、アナウンサー或は解説者が必ずファームでの成績を紹介し、上手く育てば将来かなりの強打者になり得る素材と話す事でした。確かに公称186cm、97kgというがっしりとした体格は化ければ未来の長距離砲になり得る可能性は感じさせてくれました。この選手の打席を見る度に思い出す選手がいました。阪急ブレーブス所属の選手で、2軍での強打は素晴らしいものの、守備、走塁に問題がある選手でした。昭和43年突如と言っていいかも知れないほど、急に頭角を現し規定打席以下ながらも、0.301、27本塁打をマークした矢野清選手です。重要な場面では必ずと言っていい程の活躍をし、阪急ブレーブスの優勝に大きく貢献をしたものの、翌年は成績を急降下させ、その翌年のシーズンを最後に引退しています。ファームでの生活が長く、そこでの成績が素晴らしいという共通点で、斎藤浩行選手の打席を見ると、反射的に矢野清選手を常に思い浮かべてしまっていました。

2013年 野球殿堂入り(18)

2013-02-09 11:13:51 | Weblog
大矢明彦、吉井理人、飯田哲也、片岡篤史、西村徳文、川相昌弘、斉藤明夫、この顔ぶれの共通点が即分かる方は非常に少ないかと思います。比較的最近、プレーヤー表彰の殿堂入りの候補に挙げられた元選手達です。選出方法としては、毎年、前年までの候補者を含み30人の候補を選ぶとなっていますが、30人以内という事で30人に満たない年もある様です。多分30人に近い人数という事で、無理やり候補に選んだ選手もある様に思います。この内、大矢明彦、飯田哲也、片岡篤史、斎藤明男の名前は既に候補者としてはありません。上記の6名の選手、それぞれに優れた選手とは思い、ケチを付けている訳では決してないのですが、どう考えても野球殿堂という権威ある表彰に値するとは思えないものです。10年以上の現役を経て引退すれば、殿堂入りの候補者となり得るメジャーリーグの規定の方がはっきりとしており、分かりやすいかと思います。もし年数だけでは問題があるのなら、基準となる最低限の数字を設けてもいいかと思います。そうすれば、水増し、上げ底的に候補として選出された選手自身も、余計な期待をしないで済む様な気がしてなりません。


2013年 野球殿堂入り(17)

2013-02-08 14:17:48 | Weblog
日本の野球殿堂は、日本の野球の発展に大きく貢献した方々の功績を永久に讃え、顕彰するために創設されたとなっています。メジャーに移籍した選手のメジャーでの実績、活躍をどの様に評価するかに就いては勿論書かれておりません。というよりも、創設の時点でその様な意識は全くなかったかと思います。スター選手のメジャーへの移籍を日本球界にとって、人気の面でマイナスと捉える考え方もあるでしょうし、海外での活躍を日本人選手の実力を示せたという事でプラスと考える人、それぞれあるかと思います。海外での活躍=日本の野球の発展に貢献とは必ずしも言えないかもしれません。海外での実績を殿堂入りの際、どの程度加味するのか否か、殿堂入りの投票権を持つ人達の考え方次第でしょうが、日本の野球殿堂なので、少なくとも日本時代での活躍に大きく比重をかけて考えていただきたいと考えます。メジャーでは満足な成績を挙げられず、出戻り組の松井稼頭央や福留孝介辺りも、将来殿堂候補にはなると思いますが、日本での実績主体に考えて欲しく思います。前回触れた引退後5年経過ですが、メジャーを最後に引退表明の選手に関しても日本の殿堂なので、矢張り日本での引退時期と捉えたいと思っています。