算数の授業を見ると、教科書を見せずに考えさせていることが多い。私は意図があってそうする場合もあってよいと思う。しかし、そうでない「見てしまうと答えが分かってしまう。」という理由のみで見せない場合が多いように思う。
教科書の巻末の執筆者を見ると、たかだか小学生の教科書に、名だたる教授や算数の得意なそうそうたるメンバーの校長の名前が掲載されている。きっとその影には、編集委員や協力員のもっと多くの優秀な教科専門の先生の協力があったことだろう。
その優秀な先生方が、どうしたら子どもが理解しやすいか、もっといい絵はないか、もっといい図はないかと工夫に工夫を重ね、何度も授業で試して作り上げたのが教科書である。
私は、使わないのはもったいないと思う。
だって、国語だって教材をよく読み取って、主題なりに迫っていく。本文は隠さない。見えているけれど見えていない、情景や、時間の経過や、主語と述語の関係、修飾と被修飾の関係、文同士のつながり、段落のつながりを「見えるようにしていく」作業を授業で行っていく。
社会だって、本文の大事な言葉や、資料の意図するところを、いかに見付け、それを関連づけさせていくかを学んでいく。決して本文や資料を隠すことはない。
なぜ、算数だけ隠すのか。
それでは、ただのクイズになりはしないか?
クイズとまではいかないかもしれない。でも、せっかく効率的な解き方があるのに知らずに通ったり、本当は練習問題までいける内容になっているのに、むだな(クイズの)時間を使うために練習できずに終わるとか言うことはないのだろうか?
ただし、ただ、「教科書を見ていいです。」といったところで、確かにあまり意味はない。
教科書が見えているようで見えていないからだ。
この見えていない教材の意図するところを、見えるようにしてあげるのが教科書を使って学ぶと言うことではないのかと思う。
例えば、冒頭にあげた問題にはこのような資料がある、
確かに、これをそのまま見せても、5とびで数えて答えを出すのが関の山である。(ただし、3年生の場合は、5とびで理解できる問題しか意図的に出されていない。5とびで解決できればよいのである)
それでは、他の場合に応用がきかない。
そこで、これらの資料の使い方を教えてあげるのだ。はさみだって、コンパスだって、便利な道具だけれど、使い方を知らなければただのゴミに過ぎない。
私なら、まずこの時計の12の上に、赤鉛筆で「・」を打たせる。「・」が一つあるだけで、漠然と見ていた時計が、意味のある時計に変わる。点で緑の線が2分されたのだ。「・」から前は、9時台、「・」から後は10時台という意味に気付かせるとよい。
次に、このように9時台に赤色、10時台に青色を付けさせる。
そして、時計の横に付けた、「・」と赤線・青線を、線分図にも書き込ませる。
すると、「赤+青=緑」という図式が見えてくる。
「赤+青=緑」
を数字に置き換える。
「20+25=45」
ここで
「今回はこの中の何色を使ったらいいの?」
とすかさず聞く。今日の問題は、ここを考えさせる問題なのだ。
「青」
と答える。
この「緑-赤=青」の部分が、算数の学習なのだと思う。これが公式として身につけば他の場合にも応用がきく。
次の日には、「赤+青=緑」を応用する問題が出される。
そうしたら、
「昨日のやり方で、教科書に「・」と赤線と青線を入れなさいと指示する。
それだけの指示で、このあたりまで来るだろう。
ここで式を作らせる。
「赤+青=ピンク」
「30+15=45」
この中の今日は、何色の部分を使ったらいいの?
ここを考えさせる。今日の問題は、ここを考えさせる問題なのだ。
青は、2時台。赤は1時台。2時から30分遡るのだから、答えは1時30分
次の日には、また似た問題が出る。3日目なので、全て指示したとおりに教科書とノートを作って解きなさい。と言えば、何をしたらよいかは分かるだろう。
「赤+青=緑」
「10+25=35」
今日はこの中の、緑を使えばいいんだね!!
答え 35分間
やはり教師が教科書を漫然とながめているだけでは、このような指導法は思い浮かばない。
センスや洞察力も大切だが、教材を縦横に見る。切ってみる。繋げてみる。他のものに置き換えてみるなど、「解決のための道具」のようなものを知っていることが重要なように思う。