とりがら時事放談『コラム新喜劇』

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ユナイテッド93

2006年08月14日 18時07分33秒 | 映画評論
偏見かと思われても仕方がない。
あの日の翌日、会社から帰宅する途中のことだった。
地下鉄御堂筋線の車内で、読書をしている一人の若い外国人の男が私の目にとまった。
真面目そうな大学生の風のその男は白人でもインド系でもアジア系でもない外国人だった。

「もしかしてアラブ人?」

つり革をもって立っている私の斜め前にその外国人は腰を掛けていた。

「何を読んでいるのだろう?」

彼の読んでいる革表紙の新書サイズの書籍が気になった。
行儀が悪いと思いながら、ちらっとのぞき込むと、そこには漢字やアルファベットでも、タイ文字やミャンマー文字やタミル文字でもない私の知らない文字がぎっしりと書き込まれていた。
そして若い男はくちびるを細かく震わせ黙読している。

「もしかしてコーラン?」

その瞬間、背中に寒いものが走ったことを今も私は忘れない。

「まさか、テロリストじゃあるまいな」

なんでもないことは分っていても私の視線は男が膝の上に載せている黒い手提げ鞄に向けられていた。

先週土曜日、映画「ユナイテッド93」が公開された。
製作発表の段階から映画化するのは時期尚早じゃないか、と物議をかもしていた作品だ。
昨日、満員の劇場で「ユナイテッド93」を観賞してきた。
人々の関心の高さがうかがえる。
予告編に続き、上映が始まった冒頭のシーン。
テロリストがホテルの一室でコーランを唱えながら身を清めている。
その瞬間ふとあの日の地下鉄で見かけた外国人から感じた一瞬の恐怖を思い出していた。

結末が予め知らされている映画を見るのは辛いものだ。
しかも本作のように悲痛な結末が分っている映画はとりわけ辛い。
だから観ようか観まいか随分悩んでいたのだった。

まず間違いなく観賞後の気分は良くないはずだ。
作品の出来が良ければ良いほど観賞後の気分は優れずに、やり場のない悔しさや憤りだけが暫くの間、心の中に留まっているのではないか、と思われた。

3ヶ月ほど前にディスカバリーチャンネルで放送されたユナイテッド航空93便のドキュメンタリーは、ほぼ今回の映画と同じ内容だった。
ただディスカバリーで放送された作品は、再現フィルムに加えて遺族へのインタビュー映像や目撃者の証言、実際の交信テープの音声などが扱われており、本作品とは大きく異なっていた。
テレビ番組では墜落後、被害者の遺族がどのように悲しみを乗り越えてきたのかというポイントにも大きく時間を割いていたのだ。

映画という表現手段が、あの事件をどのように捉えているのか。
観たいという欲求が、辛い結末を観ることになる、というマイナスの気持ちに打ち勝った。

映画「ユナイテッド93」はテレビ番組とは異なり乗客乗員個々の背景に触れられることなく、ただ事件の流れを追いかける内容だった。
しかし、ただ単に追いかけているのではなく、そこには死という究極の状態に直面した「普通の人間」が、その死をもたらそうとしている「悪」に対してどう挑むべきであるのか、という命題に対し一つの解答を提示していた。

映画の終盤、乗客乗員が力を合わせ、コックピットを乗っ取ったテロリストに挑みかかっていく。
操縦桿を握った優秀そうな容貌を持つ狂気に満ちた男はコーランを唱え「神よ力を貸し給え!」と叫ぶ。
しかし扉を突き破り突入してきた勇気ある乗客の前にテロ計画は阻止されるのだ。
もし神というものが存在しているのであれば、その神はコーランを唱えるテロリストではなく、彼らと闘う乗客乗員に力を貸したのだと言えるだろう。
但し、彼らの命までは救わなかった。

観賞後、思った通りの言い知れぬやりきれなさが残った。
ただ観賞前と違う気持ちがあったのは、この映画が今この時期に作られたことは間違いではなかったと確信したことだった。

あの日以来、世界の事情は大きく変ってしまった。
ユナイテッド航空93便の乗客乗員のとった行動を映画を通じて学ぶことにより、もし万一、自分があのような立場におかれた時、いったいどのような行動をすればよいのか。
その一つを学ぶことができるのだから。

~「ユナイテッド93」2006年作 ユニバーサル映画 UIP配給~