22日(月)。娘がうさぎを飼いたいのでショップに見に行きたいというので、付き合いました 最初にJR西荻窪駅から徒歩約20分の所にある兔専門ショップに行きました。南口で降りて線路沿いに吉祥寺方面に歩いたのですが、線路に平行して構える高架下の飲み屋街が昼間から盛況で、地元の人らしき人たちが真昼間から生ビールやお酒を飲んでいる風景に出合い、「まるで上野じゃん」と思いました
中央線沿線はこういう文化があるのでしょうか
娘のスマホを頼りにお店にたどり着き、娘はさっそくお気に入りの兔を抱っこさせてもらいました オスの外来種が気に入ったようですが、私が複数のショップで比べた方がいいのではないか、と提案したことから、中野にあるショップに行くことになりました。娘のスマホを頼りに歩いたのですが、いつまで経ってもたどり着きません。おかしいと思ったら90度違う方向に歩いていたことが判明、結局2キロ歩けばいいところを4キロも歩き、あげくに目指す外来兔は売切れでした
スマホは便利ですが、使い方を誤れば何の役にも立ちません。こんなことなら西荻窪のショップで決めておけば良かったと思いました。アフター・フェスティバル(後の祭り)です
結局この日は買わずに帰りましたが、疲れたあげくに誰がお金を出すのでしょうか
閑話休題
昨日の朝日朝刊第1面の「記事下広告」に音楽の友社の発行する月刊誌10月号の広告が載りました その一番上の「音楽の友」の広告を見て、わが目を疑いました
そこには「系譜でたどる旬のピアノスト/海外夏の音楽祭2014」と書かれていました。「ピアノスト」って何ですか
ピアノがストをやるんですか?音楽之友社は新しい業界用語を作ったのですか? 音楽専門出版社が出す広告にこのような単純ミスがあり、天下の朝日新聞が校正で気が付かないとは、どういうことでしょうか
要するに朝日には音楽の基礎が判る校正要員がいないということでしょうか? 「広告の責任は広告主にある」というのは新聞・出版界では常識ですが、それを承知の上で言えば、朝日は編集面だけでなく広告面でも”誤報”を世間にさらして平気なのでしょうか
とても信じられません
も一度、閑話休題
同じく昨日の朝日別刷り「GLOBE」の「海外の眼」欄にニューヨークタイムズ・マガジンから「レコードを愛しすぎた男」の記事が転載されていました。記事を超訳すると
「ブラジル・サンパウロに2300平方メートルの倉庫を所有する男、ゼロ・フレイタス(62歳)は、子どもの時から、つかれたようにレコードを買い続けてきた 5歳の時、父親が高級ステレオセットを購入した際、200枚のアルバムが付いてきた。自分で初めて買ったのは、後にブラジルの国民的歌手になったロべルト・カルロスの『子供たちに歌う』だった
高校を卒業する頃にはコレクションが3000枚に。大学で作曲を学んだ後、家業を継いでバス会社の社長に就き、30歳の時には3万枚に達した。現在の所有数は数百万枚
最近、学生アルバイトを十数人雇って膨大な在庫の整理を始めた。レコードを1枚ずつ、ジャケットの写真を撮ってタイトルやアーティスト名を記録する。1日に500枚を処理するが、賽の河原の石積みのようなもの。なぜなら、フレイタスがレコードを買い続けるからだ
ある音楽関係者が彼に『公開もせず、ただ所有していて何の意味があるのかね?』と尋ねた。この問いはフレイタスを悩ませた。物理的にも観念的にも、集めたレコードの『重み』が一線を超える時がきた
フレイタスが近年入れ込む精神世界の教えも『求め、所有し、手放さない』という彼の収集家人生とはあまり調和しない。彼は、自分の膨大な収集品を誰もが活用できるアーカイブにし、コピーも貸し出す図書館のような施設を作りたいとしている
」
この記事を読んで思うのは、とてもこの人にはついていけないな、ということです フレイタスの膨大な収集レコード数に比べたら、CDを含めて5500枚という私の収集枚数など雀の涙にもなりません
もう一つ思ったのは、彼は手に入れたレコードのほとんどは聴いていないだろう、ということです
「集めること」自体が目的だからです。私も一時、そうした「レコード収集家」の立場に陥ったことがありますが、途中で『レコード・CD主義から生演奏主義へ』と方針転換を図ったので、今では「まずレコード・CDありき」ではなく「まず音楽ありき」の立場で音楽を楽しんでいます