明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(561)じわじわと命を蝕む低線量・内部被曝の恐怖(肥田舜太郎さん談)下

2012年10月15日 21時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121015 21:00)

肥田さんの講演速記の3回目です。今回で最後です。今回は放射線被曝の実態を隠すアメリカに日本政府が協力してきたことへの怒りとともに、その中で私たちが自分の命を大事にすることに目覚めていないという肥田さんの鋭い指摘が続いています。

僕はここは非常に重要な点だと思います。私たちの国は、生産的労働に携わっている者が、病気やケガをしたときに、できるだけ早く現場に戻していく急性期医療はとても発達しています。
それ自身はとてもありがたいことですが、もっと身体を労わり、無理を溜め込まず、自分を大事にしていく精神はとても薄い。

これは僕などにも言えることですが、社会運動を担っている人の中でも、エコノミックアニマルさながらに、がんがん活動し、夜通しメールを書き、それで身体を悪くしてしまう例がたくさんあります。そうであってはいけないと肥田さんは説かれています。

自分の命を大切にしなくてはいけない。そのために命を長らえる生き方をしなくてはいけない。命を縮める生活をしてはいけないと肥田さんはさまざまにおっしゃっている。僕は自分を振り返って、まったくその通りだと思うのです。

自分の命を大切にできなければ、人の命を大切にできない。すべての命が差別されてはいけないように、自分の命も差別してはいけないし、軽く扱ってはいけないのです。にもかかわらずそこをなかなか守れないのが私たちの実情ではないでしょうか。

本当に今、この点を越えなければいけないと思います。そして自らが自分の命を大事にし、病にならない生活を実践する中で、より深刻な被曝をしてしまった方々に、勇気ある道をさししめせるようになる必要があります。

だから食べ物に気をつけることも大事だし、早寝早起きの励行も大事だし、温かい人間関係を保つように努力することもとても大事です。これに反するハラスメントやバッシングはストレスの大元であり、人間の心身を冷やしてしまう。

そうした暴力を許さない世の中を作ってこそ、私たちは命の尊厳を守れます。それでこそ現代における暴力の源とも言える、原発と核兵器を封じ込めていけると僕は思うのです。

僕は今後も、肥田さんの言葉を指針に歩んでいきたいと思います。素晴らしい話を送ってくださった肥田さんに心のそこからの感謝を捧げます。

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じわじわと命を蝕む低線量・内部被曝の恐怖(下)
2012年10月8日  肥田舜太郎

その後、アメリカに行って、向こうの「ぶらぶら病」の患者を何人もみました。広島と同じです。原因は軍隊のときに、核実験に動員されて、爆発があるときは壕に隠れていて、爆発してから何分たったらこの部隊、次はこの部隊と射撃などを行った。
その後、除隊してしばらくしたら同じ病気が出てきた。気の利いたお医者さんが、みんなが核実験に動員されたことを知って、それに何か関連があると考えだした。でもアメリカ政府はあまりそれを研究するなと言ったのです。

日本の場合は、9月20日に兵隊を連れてマッカーサーが来た。今日から自分が日本の国民に指示を出す。すべて自分の命令でおまえたちは生きろ。それに違反したら厳罰に処するという。

そういう中で、最後にこういうことを言った。原爆を受けて広島、長崎ではたくさんの市民が死んで、今も体が悪いという人がいるだろう。しかしその内容はすべてアメリカの軍隊の機密である。絶対にそれを話してはいけない。被害を受けた人間は、どういう症状があるか、親にも言ってはいけない。それに反したら厳罰に処する。
進駐軍は怖いので、実際に誰も何も言わなくなった。

日本の医者、医学者、大学教授に、広島、長崎で原爆を受けた人間が、診察を受ける。そのときに診てはいいが、カルテに詳しく書いてはいけない。分からないことを論文に書いて、研究をしてはいけない。

だから医者はみんな、患者がきても、広島で被爆したと言いかけると、「それは言わんでください」という。「それを聞いたことがわかると、私は進駐軍にやられるので言わんでください」と言った。
その状態が7年間も続いた。このことを日本人は知らない。これがアメリカの占領の実態なのです。そういうことをしゃべるのはみんなやられた。

日本がアメリカに占領されて、非常に酷い目にあった7年間があることをみなさんはまったく知らずに過ごしている。7年たってアメリカが帰った後に、日本政府は国民に相談もなく安保条約を結んだ。それで米軍が沖縄などを使っている。その費用は全部日本人が払っているのです。宿舎にはみな風呂が4つも5つもある。

戦争に負けて、67年もそんなサービスをしなければいけない国がどこにありますか。
そういう政府があって、安保条約のために日本政府はアメリカに国土を提供し、税金で贅沢な暮らしをさせている。アメリカには何兆円というお金をポンと出す。1兆円あれば日本中の足りない保育園や幼稚園が全部建つのに。年寄りも行くところがない。

1兆というお金はどれほどでしょうか。1日100万円使ったら何年かかるか。源頼朝が鎌倉時代を作ってからこれまでよりももっとかかる。そんなものをアメリカに出すのが安保だ。それが岸首相のときに作られた。国民はそれをやめろと闘って負けてしまった。あのときに勝てばこんなことはなかった。

みなさんはいま生きていて、昔の年寄りから比べればいいと思っているかもしれない。しかしたくさんの若者は勤めるところがない。沖縄の若者は絶望の中にいる。そこにあのオスプレイという恐ろしい飛行機が来る。

止めろといても、人々は勝手に子どもを作る。人間の代わりは幾らでもある。だから日本の政治家は、「アメリカのことを聞いておけば俺の大臣の椅子は大丈夫だ」と思っている。
日本の政府には、日本人を生きている人間として尊重する気がない。日本の政府はだいだいそういう頭です。相手側の人間を殺すだけではない、兵隊もたくさん殺した。

私は戦地から戻ってきた兵隊をたくさん治した。そうすると治ってから自分が送りこまれた隊に帰っていく。戦争末期はそこに部隊がいるかわからないのに、それでも兵士は元の部隊に帰れと送られる。自分の戦場まで帰る。そんなことをしても平気なんだ、政府の連中は。そういう国だった。
その国に育ったみなさんは、自分の命に目覚めた人権を持った人になったでしょうか。

残念ながらそうではない。みなさんの多くは命を大事にしていない。病気になって初めて病院に行く。そこに命がけで勉強して、命を救ってくれる医者はいるのか。そんなものはいない。命に責任を持つ気持ちなんかない。それが学校で教える医療なのです。
目の前にいる人を助けるために懸命にやれという医療を習ってない。教科書に書いてあることをやるだけだ。私はその医療界で働いてきてよく知っている。

でも実際にそうした医療をやったら、みな30代、40代で死ぬ。だから特殊な人に当たらない限り、そういう医療しか受けられない。その一番の原因は、生まれたときからたったひとつしかない命の主人公は自分であり、その命のことは自分が守るしかないないのにそれを軽んじてきたことです。
なぜ病気になったのかを考えれば、生活の中に必ず原因があったはずだけれども、それを考えないできたのです。

福島の事故があって、みなさんはもうたくさんの放射能を体にいれています。みんなカタカナで書く「ヒバクシャ」なのです。一人もそれを逃れた人はいない。放射能は入った以上、量は少なくても、体に有害なのです。

政府とアメリカは無害だとさかんに宣伝しをしている。チェルノブイリのときもこれをやった。福島では、これから起こることが世界にも人々にもわからないように、外国の連中がたくさん入っている。「心配ない、おかしいことがあっても生活習慣のせいだ」とそういうことをやっている。

福島のことは、世界の人々にとってこれからの大きな課題なのです。真実が知られることを恐れている。逆にみなさんは、向こうが隠すのだから、それを必死に勉強する必要がある。それが分かると原発も核兵器ももう持てなくなる。その争いの中で、福島の人はこれからどうやって生きるかで悩んでいる。

講演に呼ばれた専門家の中で、どう生きるかを言える人は私以外にいない。多くの先生が言うのは「遠くに行け、汚れたものを食うな」ということだけだ。ではできない人はどうするのか、それには答えない。それを言えるのは僕だけだ。

その答えは放射線の害は、出るものを止めなければいけないということです。元を断つ。それからアメリカが持ってきている核兵器は全部持って帰ってもらう。丸腰の何ももたない国であればいい。アメリカに帰ってもらうことと、放射線の出る元を止めることを同時にやる。

あとは自分の命を自分で守る。「身体に悪いから、こういうことをしてはいけないよ」ということをしないで、どんなに辛くても健康生活を守る。放射線を使って人間を殺そうとする嫌な世の中で、自分の命は自分で守る。
医者を頼らない。薬を頼らない。薬なんて効くものなんかない。なんとかの薬を飲むよりも、病気にならないように工夫をして、長生きをしてきた年寄りの真似をするのです。

まず大事なのは早寝早起き。太陽が出て起きて、太陽が沈んで寝る。それで免疫が作られるようになった。私たちは太陽の恩恵で生きている。だから朝早く起きて、暗くなったら寝るのが大事なのです。

そういう意味で僕は、自分で自分の健康を守る話をしています。そうすると何をしていいか分からなかったかお母さんたちがどうしたらいいかが見えてきて自信が出ます。最近は若いきれいなお母さんが僕の手を触って、「先生の元気をもらいます」といって帰る。

その人は、ここにくるまでは心が真っ暗だった。でも明るい顔になって帰っていく。そうやって励ますことしかできないけれど、それができたのは、被爆者の団体に入って、「放射線に負けないで長生きしろ、落としたやつがびっくりするほど、みんなで長生きしようじゃないか」とみんなで必死になってきたからです。

そのために、長生きした人にどうしたらいいかを聞いた。それで出てきたのは早寝早起き、そして食いすぎないということです。僕は小さいときからご馳走が好きではありませんでした。素食が口にあった。ばあさんの作ってくれた野菜の煮つけなどを食べていた。それが良かったようです。

こういう話をすると、必ず聞かれるのは何を食べたらよいかということですが、人間がたべてきたものは何をたべてもよろしい。悪いのは食べ方です。食事は人間にとっての休息の時間です。みんなが働いときに勝手に休めない。みんなで食べるのが休息の時間だ。
だから休むのが健康のために一番いい食べ方だ。そのとき、普段あわない家族が顔をあわせるものだから、けんかをはじめる。これが一番、健康に悪い。食べるときはニコニコ笑って、一緒に飯を食うのがいいのです。

そろそろ時間が来ました。まとめは一つしかありません。今の状況を見ていると、これから50年は放射能が無くならないと思う。でもこれからみなさんの家に、みなさんのひ孫、やしゃごが、きれいな空気や水があると思って生まれてくる。この子たちに、少しでもきれいにして、この世の中を渡すのがあなたがたの任務だ。

原爆をあびた経験をもちながらなぜ日本は53基もの原発を作ったのか。日本人はみんな愚かだと世界では言っている。みなさんもその愚か者の一人です。だから今日、僕の話を聞いてしまったのだから、この国をきれいにするために働くことを約束してください。そのことをよく考えてください。
今日、私の話を聞いてしまったのは災難だと思って、明日から余生をそのために使ってください。

終わり

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明日に向けて(560)じわじわと命を蝕む低線量・内部被曝の恐怖(肥田舜太郎さん談)中

2012年10月14日 22時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121014 22:00)

昨日に続いて、肥田さんの講演の続きをアップします。今回は広島被爆後に、肥田さんが初めて逃げてきた被爆者に遭遇し、やがて救護所となった小学校でたくさんの被爆者を診られた経験がメインです。

これを読むと、あらためて原爆の酷さ、放射線兵器の非人道性が浮かび上がってきます。僕はいつかはアメリカ政府にこれを謝罪させなければいけないと思います。サンフランシスコ講和条約において、日本国家は責任追及の権利を放棄してしまっていますが、それを越えて、あやまりはあやまりとして正さなくてはいけない。

それはアメリカ人のためでもあると思うのです。「他者の権利を踏みにじるものは、自分の権利を踏みにじられても声をあげることができない」・・・。だからアメリカの国民・住民の尊厳のためにも、アメリカ政府のこの戦争犯罪への謝罪は必要なのです。

以下、肥田さんのお話をお読みください。

**************
 
じわじわと命を蝕む低線量・内部被曝の恐怖(中)
2012年10月8日  肥田舜太郎

被爆はしたけれど、ピカで焼き殺されず、家は潰れかかったけれども、ぺシャンコにならなかったので助かりました。
そこで子どもを立たせました。6歳の男の子でした。泥をはらって心臓の音を聞こうとする。聴診器がないので自分の耳を胸につけて音を聞いたら聞こえない。耳にも泥が詰まっていました。それをとったら音が聞こえた。

おじいさんが一人で留守番をしていました。すぐに病院に帰らねばと思いましたが、これをおじいさんに伝えなくてはいけない。
おじいさんに大きな声で「子どもはここにいるよ、元気で心配ないよ、俺は病院に帰るよ」と叫びました。聞こえたかどうか分からないから、赤ん坊の顔をピシャっとたたいて、ワーと泣かせて、それで病院に向かいました。

村は800戸ぐらいの家だった。村の人は全部、家を出てきていましたが、何が起こった分からない。いきなり村にゴーっ戸いう風が吹いて、そうなってしまった。その中を自転車に乗って、走って広島に帰りました。

そのさなかに初めて被爆者に会いました。とっても怖かったのを覚えています。当時は自動車がないのです。自転車を飛ばしていて気をつけなければならないのは荷車なのです。自動車のように向こうがよけてくれない。こっちがよけないと真っ直ぐにくる。
それが曲がり角からでてこないか気をつけていたら、向こうから上から下まで真っ黒な人が歩いてくる。着ているものがボロなのです。足が見えないボロを着ている。それが向こうから来る。

だんだん近くにくると、目がお饅頭のようになっている。鼻がない。全部口になっている。唇が焼けて腫れていたのです。怖いのです。それが手を前に出して歩いてくる。こっちは自転車ですから近づくと、ウッウッと言いながらこちらにくる。どうみても人間なのです。

そばに近づいて「助けて」としがみつかれたら怖い。なので自転車を降りて後ずさりしました。そうしたら自転車にぶつかって倒れた。「ああ、ごめんなさい」と助けようとしたら、身体が全部焼けていて触るところがない。体中にガラスも刺さっている。触れるところがない。

死にかかった人だから、どこかに触って励ましてやりたいのだけれど、触るところがない。それで「もう少ししたら村がある。そこまでいって助けてもらいなさい」と言いました。そうしたらそこで痙攣を起こして死んでしまいました。これが僕がみた最初の焼け死んだ方でした。

亡くなった人は仕方がない。自分は病院に行こうと手をあわせて自転車に乗ったら、向こうから同じような人が道いっぱいにやってくる。みんな焼けただれている。その中を「すいません、私は広島に行きますから」なんて言えるはずがない。
それで道の下に流れている大田川に飛び込みました。腰ぐらいまででした。それで川の中を広島に向かって歩いていった。

大田川が7本に分かれて、そこに橋がかかっていて、広島にいく。どの川を通っても広島の市内に入れる。一番左の川に入って、すぐ右の土手を登れば病院があると知っていました。
ところが進んでいくと真っ黒な煙が立っている。それが川の上を這ってくる。火事が起こっているのです。火事の場合はたくさん燃えると暴風のような風が吹く。川の水がすくい上げられる。

それでも「いかなきゃ」と思いました。軍人ですから。それで左の川に入って、初めての橋を越えて、上がって、病院があると思った。ところが燃えている家がある。そこから人が川に飛び込んでくるのです。
男も女も飛び込んでくる。私の頭の上から落ちてくる。川は浅いので先に落ちた人がそこで死んでいる。その上に人が落ちて、跳ねて、私の周りにドボンと落ちる。それで川を向こう岸に逃げていく。

私は川を上がろうとしたけれど、上からどんどん落ちてくるので上がれない。ただ飛び込んで死んでいるのを見ている。そのとき、私は医者でありながら何もできない。聴診器もない。でもここで人を助けなけりゃいけないと思った。
しかし自分には何もできない。そのとき「お前はここで何ができるのか、何もできないではないか。お前は村に帰って人を助けろ」という理屈がひらめきました。

でもその場で人がどんどん死ぬので、「さようなら」という勇気が出ない。それで長い間そこにいました。でもそこいても何もできない。最後に「さようなら」とおがんで川を反対にさかのぼって村に戻りました。

帰ってとても驚きました。村に入る道はそういう人がいっぱいいる。村の入り口が狭いから何人もそこで死んでいる。それを乗り越えて人が入っていく。みんな裸です。私は軍の靴を履いている。なかなか人を踏めない。やっとのことで村に入りました。
ちょっといくと小学校があった。その広い校庭に全部人が寝転がっている。何人かが座っている。生きている人は動いている。動かない人は死んでいました。

村の人がいないかと見たら誰もいなかったのですが、よく見ると校舎のそばに数人いて、私を見て走ってきました。「なんとかしてつかあさい」という。私一人では何にもできない。これから何万人が来る。みんながこれを面倒みるしかない。

村の中で働ける人間は、朝5時に広島に招集されて、アメリカ軍との市街戦にそなえて、建物を壊すことに行っているとのことでした。残っているのは、じいさまとばあさま、小学生だけだった。動ける人間はおらん。
でも「あんたらがみるしかない。生きている人間には米を食わせろ。俺がハンコをつくから軍隊のものを出せ」と言って、おむすびをたくさん作った。

でも僕らの大失敗で、おむすびを食べられる人は誰もいない。それでまたおむすびを集めて、お粥にした。小学生の男の子がそれを持ち、女の子がシャモジを持って、寝ている顔に上から入れた。でも女の子が怖がってしまった。顔が見れないのです。「ぼやぼやしないで入れろ」と叫んで食べさせました。

6日に6000人、7日に12000人、8日が22000人、9日が27000人が村にやってきた。正確ではないですが村の人がつけていた。とにかくどんどん流れ込んでくる。中には元気がよくて、さらに奥の村まで逃げる人もいる。
そこには列車が走っていたので、それに乗って、山陰地方まで逃げた人、京都や九州に逃げた人がいた。でも後から後から来るので村は超満員だった。

そんな中で僕たちは最初の3日間は死んだ人間を確認しました。死んだという確認だけを仕事にした。死んだら焼いて骨にする。名前が分かれば家族に渡す。「先生が何で死んだか言ってくれ」という。そんなことまったくわからない。
人間が大火傷したときに、全身の3分の1以上が焼けていたら助けられないと習っていた。どれをみても半分以上焼けている。大変なことでした。

ちょうど4日目の朝、はじめて火傷以外で死ぬ被爆者をみはじめた。はじめは5、6人の医者が診ていた。4日目に九州から応援の医師や衛生兵がきた。医者も20数名いて総勢100名を越えていた。みんな白い服をきて一人ひとり見てくれた。その中で40度の発熱をする人間をいっぱいみた。

内科で40度の熱はまず診たことがない。マラリアでたまにある。でも焼けている被爆者で40度はなんでか分からない。常識では一番高い熱を出すのは扁桃腺で39度8分ぐらいはでる。みんな扁桃腺が腫れたのではと確かめようとした。

みんな横を向いて寝ている。上を向くと心臓が苦しい。僕はひざまづいているから上からみると横顔しかみえない。自分が横になって顔を近づけて口の中を見るしかない。一人二人みて扁桃腺が腫れていればみんなそうだと思った。
でも口の中がとても臭い。息が止まりそうになります。腐っている臭いなのです。本人は生きているのに口の中が腐っている。

鼻と口から血が出ました。すごく残虐ですね。火傷していたのに血がでる。目からもタラタラ血が出る。こんなことはみたことがない。40度の熱が出て、血が出て、口が腐っている。それで我慢してやっとのことで一人の口の中をみたら、全部が真っ黒けになっている。

それがすごい臭いを発していてみていられない。この人がなぜ生きているのに腐り始めたのか分からない。何が起こっているのか考える。そうするとその人が苦しがって、ムシロの上で身をよじる。
それでなぜかみな、必ず頭を触る。そうすると髪の毛がすっと抜けてしまう。手で触った所がスルっと抜ける。とれたあとは真っ白になっている。毛根細胞まで一緒にとれて青くならない。こんな毛の抜け方はみたことがなかった。

男は髪の毛が抜けても不思議に思う力もない。女性がこれをやると、死にかかっている人が、手をあげて「私の髪が」と大きな声で泣き出す。初めて見ました。ものなんか言えるはずもないのに泣く。それが原爆にやられたあとの特殊症状です。

放射線の影響の急性症状では、まず高い熱が出る、まぶたから出血する、頭の毛が抜ける。患者から教わったのですが、周りに寝ているものが、自分の肘のう裏っかわを指す。動作で教える。
そこで見ると、焼けてない白い側に紫色の斑点が20も30も出ている。鉛筆の頭ではんこをつけたようなものがついている。

学校にいるときに、内科の年をとった先生が、「ここにいるものは、これからたくさん医師になるだろうが、これを診ることがあるのは諸君の中の半分ぐらいだろう」と言ったことを思い出しました。それは血液の病気で入院した患者が悪くなり、危篤になり、あと2、3日というときに、この斑点が出てくるのです。

先生が言ったのがそれだなと思ったけれど、なぜそれが起こるか分からない。これらが放射能の急性症状なのです。これがみんな出て死ぬのが当時の経験でした。大学で生徒に教える教科書にそれらが今でも書いてあります。でもこれを現実にみた教授は一人もいません。
そういうことで、私は、日本中の医者、世界中の医者の中で、急性症状で死んだ人をいっぱい診たのでそのことが分かった。

その次に不思議なことは、一緒に寝ているなかで「軍医殿、わしはピカにはあっとりません」というのがいた。「なんでここにいるんだ」と腹が立っていいました。

福山という町があります。新幹線が広島に入ってはじめに止まるところです。その町にいた兵隊だった。だから原爆にあってない。お昼に隊長さんが命令を受けて、広島市に救援に行った。トラックに乗せて、ずっと手前でとまって、兵隊は駆け足でスコップなどを持って、倒れている者や、家に挟まっている者を助けた。

それで当日と翌日、丸二日働いた。カンパンを食べ、水は市内の水道を飲んだ。それで被曝してしまって、9日の朝、気を失って倒れた。疲労と脱水の症状だった。仲間の医者がびっくりして抱き起こした。
それでかついて村まできて、被爆者の塊の中に置いていってしまった。そこに置いておけばいつか医者がくるだろう、そのときに本人が言えばいいとなった。

それで私がそこに行ったら足をひっぱった。私は「何でこんなところにいるんだ」と違う所に行ってしまった。3日後にまたそこに行った。それで「あの兵隊はどうした」と聞いたら「死にました」という。
「なんであれが死ぬんだ、被爆もしてないのに」。なんで死んだのか僕にも分からない。そうしたらここで死んでいく被爆した人間と同じ症状だったという。目から血がでて、口が腐って、頭の毛が抜けて、斑点が出て死んだ。

「なぜだ」。本能的に思ったのは、この病気は伝染るということでした。常識的にはそうしか思えない。でもそういったら大騒ぎになる。それで他の医師に聞くと、みんな同じものをみたという。それでこれは伝染る病気かもしれないといった。それまでも診てきたので、一番、伝染病が怖かった。

その日、院長が帰ってきたので話をした。もしそうなら、村の人を含めて、ここに来た人間がみんな伝染ってしまっている。調べろという。遺体の一つを解剖して腸の中を調べた。伝染病なら必ず所見があるはずだ。怖くてね。

兵隊の元気の良かったものの死骸を村の中に運んだ。電気をつけられない。兵隊に洋服をもたして、ろうそくをもたして、お腹をきって水で洗う。いっぱいバケツで水をもたして、腸をひっぱりだして、ろうそくの中でみる。そうしたら伝染病ではないことが分かった。それで伝染病ではないということで対応しようとなった。

ところがどんどん被爆をしてないというのが後から逃げてきた。死ぬまでいくのは少ないのだけれど、死ぬ直前の症状が出る。広島にやっと入って、自分の家がどこかわからないなかでやっと探しあてて、家族がどうなったかというと骨もない。どこに行って死んだのか。

子どもはそれぞれの学校にいた。だからそこに歩いていって探した。そこらへんにいた家族から、「その子どもならうちの子の同級生と一緒だったから良く知っているよ。西の方に逃げて、そこでそのクラスの子はみんな死んだ」とか聞く。彼は、何日も家族を訪ねて町の中を歩いた。それで数日後にかったるいという症状が出て動けなくなる。

症状を聞くとかったるいというだけだ。町で家族を探したら、今日はもう起き上がって歩けない。初めて「ぶらぶら病」の症状を聞いたときに聞いたのは「かったるい」でした。間接的に後から入って被曝した症状はかったるい、働けないでした。勤めている人も、ある日急に職場に行けなくなった。「ぶらぶら病」の症状は一人ひとり、みな違うのです。

続く

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明日に向けて(559)じわじわと命を蝕む低線量・内部被曝の恐怖(肥田舜太郎さん談)上

2012年10月13日 22時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121013 22:00)

10月7日に、被爆医師、肥田舜太郎さんが、大津市で行われた滋賀県保険医協会主催の講演会でお話されました。僕も参加して、一番前の席に座ってノートパソコンを広げ、必死でノートテークしました。

肥田さんは、いつものことですが、立ったまま、2時間にわたって熱弁。話が進むに連れて聴衆を引き込み、時間が経つことも感じさせませんでした。まるで映画を見ているように、肥田さんの前に原爆投下後の広島があらわれ、被爆者の方たちが現れ、その中で奮戦する肥田さんの姿が現れました。

すべての言葉が印象的でしが、今、振り返って僕に胸に一番残っているのは、今回の事故のことで「講演に呼ばれた専門家の中で、とう生きるかを言える人は私以外にいない。言うのは遠くにいけ、汚れたものを食うなということだけだ。
ではできない人はどうするのか。それには答えない。それを言えるのは僕だけだ」と語り、放射線の害と立ち向かって生きる術を述べられたことでした。

実際に肥田さんは、繰り返しすでに被曝した人がどのように生きれば良いかを説かれます。どう放射線の害と闘うかです。その内容は本文に譲りますが、僕もこの肥田さんの言葉を自分の講演で必ず伝えるようにしています。

確かに放射線はまず防護すべき対象です。しかし、福島事故ではすでにものすごい被曝が起こってしまいました。だからその影響と立ち向かわなくてはいけない。個人的にも社会的にもです。だからこそ肥田さんは被曝医療の充実を訴えられています。

肥田さんが何千何万の被爆者とともに、一つの生き様として築きあげてきた「内部被曝と闘う知恵」を私たちはみんなでシェアし、伝え、磨き上げていくことが必要だと思います。

そのような思いから、この日の講演をノートテークしてきました。録音不許可だったため、僕の現場でのタイピング力の及ぶ範囲での再現になります。細部で間違いなどあるやもしれません。お気づきの方はご指摘ください。

講演は2時間。タイピングの量も多いので、3回にわけます。どうかお読みください。


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じわじわと命を蝕む低線量・内部被曝の恐怖(上)
2012年10月8日  肥田舜太郎

ご紹介いただいた肥田舜太郎という内科の医者です。
広島の原爆のときに、現地にいて自分も被曝しながら、生き残って被爆者の方の医療を行った方はたくさんおられたのですが、みんな私より年が上で、全部亡くなりました。広島についていえば私がたった一人の被曝医師です。

そのために福島の事故が起こってから、日本中のマスコミの方が、広島を経験した医者でなければだめだということで私のところに来ました。100社以上がでした。その度に同じことを2時間ずつ話させられる。大変な苦痛でした。

同じぐらいの回数で、全国のお母さん方が、初めて放射線被害に不安を抱いて、どうやって生きていったら言いか知りたいということで、講演に行きました。取材と講演は合計で300回を越えます。1週間のうちに四日ぐらい取材に応じたり講演で話したりする生活を送ってきました。年を取って、こんな目にあうとは思いませんでしたが、確かに私でなければこれは話せない。また亡くなった被爆者の方の思いを伝えるためにとも思ってお話してきました。

私が広島で勤めていたのは日本で一番大きな陸軍病院でした。当時、日本から中国へ行く部隊も、南方に行く部隊も、全部、広島の宇品の港からでました。そのため、広島の婦人たちは、毎日船が出ますから、その度に、日の丸をもって見送りに行っていました。

その後、日本中の大都会が空襲を受けました。何百機に襲われ、焼夷弾で大都市はみな焼け野原になりました。私が広島に赴任したのは原爆が落とされた1年前の8月1日でした。
それからちょうど1年たった8月6日に原爆を受けました。それまでの間は、広島もよその町と同じように、朝から遅くまでB29がきました。1機でくることもあれば3機のときもある。何10機のときもありました。そのたびに避難することを繰り返しました。

しかし不思議なことに実弾が一発も落ちなかった。通るだけなのですね。戦争が終わってアメリカにいって、はじめて、むこうの記録を見ますと、広島に原爆を落とすこと前からが決められていました。
そのために空襲に来るたびに、弾を落とさないけれど、写真を撮り、広島市民が一番、屋根の外にいる時間を調べていた。自分の落とす爆弾が、直接、一番たくさんの人に影響を及ぼす時間を調べて、それで8時15分に落としたのです。

はじめて作った原爆を広島の人を使って実験する。日本人の身体を使って原子爆弾の威力を試す。それを記録に残して、原爆を使う戦争の資料にするつもりだった。あとからそれがわかりました。

あの原爆は熱が出ますから、直下で焼け死んだ人がたくさんいます。爆風も強い。大きな巨人がいて手のひらを広げてぐしゃっと下を潰したようなもので、家が潰れました。中にいた人は逃げる間もない。即死した人はまだ幸せですが、死ななかった人はつぶされやがて火が出て焼き殺された。これが目に見えた死に方です。

しかし放射線の被害は目に見えません。死に方も見えません。みなさんも今度の事故で放射線の話をなんども聞いたと思いますが、誰も見たことはない。お医者さんも放射線を治療に使いますが、機械を見たことはあっても何が出たかは見えません。
みなさんが裸になって「大きな粋を吸って、息をとめて」と言ったときに、カシャット音がする。そのときにみなさんの身体の中を放射線が通るのです。それで硬いところが陰になって映る。フィルムに骨が見える。身体の中のおできなども小さく写る。それで先生は体の中に起こったことを判断します。

昔は放射線がそんなに恐ろしいものだとは知らなかったから、患者さんに当たるだけでなくて、まわりにもれて、それを毎日受けている技師の方に影響が出てくる。皮膚がんになったり、白血病になったりする。それでわかってきました。
それで妊娠4ヶ月前のお母さんにはレントゲンをかけてはならないと決まりましたが、それは戦後、だいぶたってからでした。原爆が落とされた後もその恐ろしさが分からず、4ヶ月以下のお母さんにレントゲンをかけていたのです。広島でたくさんの人が死にながらそれが続いていた。

その理由は何か。僕たち医者は被爆者をみました。10日ごろに呉の海軍があの爆弾は原子爆弾だったといった。しかしなんだかわからない。しかし不思議な死に方をたくさんみました。
経験的にわかっていった。目で見てはじめて、自分にわからない人間の死に方があることがわかり、これが原爆の威力だなとみて勉強しました。それを知っている人は日本には誰もいなかった。

放射線は目に見えなさい。福島のことでも、人々がどんな被害を受けてどうなっていくのか誰もわからない。その放射線の影響が目に見えるような被害となったのは広島と長崎が最初です。福島では本当の被害が見えるようになるのはこれからです。今から本当に恐ろしいことがおこります。

これに備えた医療体制が必要ですが、今の政府の体制では間に合わない。患者が出てきてからでは遅いのです。それなのに、みんな無責任で何も起こらない、大丈夫だと言っている。
広島長崎で60年以上、人が放射線で殺されてきたのに、そのことから何も学ばないで、アメリカの言い分を信じ込んで、今でものんびりしている。

でも現実に今回の事故で放射線を浴びた人はいるので、ただ放射線の被害は恐ろしいとだけいっても、受けた人はどうしたらいいかわからない。放射線の被害に対しては治す医療はない。薬もない。
医師は見ているしかないのです。それを僕たちは繰り返しました。助けてあげたいけれど、助けられない。見ているしかない。それで死亡をしたことの確認をとる。法律上、医師がそれをしないといけないのでやらされました。

患者さんは、医師が身体を見てくれると、助けてくれると思う。死への不安で心持も乱れに乱れている。目の前の人が医師だと思えば助けてくれると思う。その人に何も出来ない。辛いですよ医者は。

病院でみているときは、死因がわかっていて、あと何日ぐらいだろうということで、家族に知らせる。本人も分かる。そのときは静かに死んでいく。しかしあのとき死んだ人はさっきまで元気だった。
いつものようにしていたら、ヒカッと光って、どこかに飛ばされて、しばらく気を失った。そのうちに気がついて、あたりを見ると、薄くもりで曇っている。

それが晴れてくると自分は町の中にいたのに、町がない、道がない。原っぱになっている。不思議に思って、どこにいるんだろうと思って立ち上がる。そうすると裸でズルズルに焼けている。ユラユラ揺れながら、血だらけで歩いてくる。
なんでこんなことになったのか。飛行機が来たことも知らない人が多い。爆弾を落とされたという認識もない。

おばあさんが、何時ものように洗濯をしていたら、ピカっと光った。同時に熱い。わっと思ったら10メートルぐらいふっとばされる。気を失ってなにも分からない。おばあさんが目が覚めたら、周りが何もない。というがあのとき被曝を受けた人の実感です。
何がおこったかもわからないうちに、体をたたきつけられて、聞いたこともない放射線で体が壊されて死んでいく。

診る方の私から言うと、病院にいたら死んでいた。病院は3秒と建っていなかった。ぺしゃんこになった。597人という人が猛烈な熱で焼き殺された。たった3人だけが息があって、崩れた建物から這って出て病院の表門から逃げた。這って歩くような格好で逃げましたが、後から出た火事で焼き殺された。

たった一人、生きのびた人が現在87歳で生きています。四国の小島という家で、家業の会社をやっていて奥さんとふたりで生きてきました。子どもはいない。そのまま長く生きて、奥さんが病院に入りましたが、今日もまだ元気に生きています。
今度の福島の問題でとても心配して、何十年もの間、病気が出たりひっこんだり、苦しみが続いていく、そのことを自分のことよりも心配しています。

そういうわけで、あのとき死んだほうが楽だったと思いながら、病気を繰り返して生きてきたのが被爆者です。一番若い人が67歳か68歳です。被爆者がどんなふうになったのかという話では、即死した人のことは何の役にも立たない。
原発事故でこれからも放射線の被害は出ます。日本の国ではこのままいけば、どこかで放射線の影響で死に絶えてしまいます。全部やめれば別です。

私が経験した、放射線の影響で苦しんで死んだ、死に方を教えます。ひとつは直下に近いところ、爆心地があって、そこから1キロ2キロまでは、直接の放射線の影響が強かったので、死ぬ人が多かった。

その人たちの死に方を私は原爆投下の後にたくさん見ました。そのとき私はたまたま往診にいった6キロ先の村にいたので、そこで被曝しました。それでもピカっという光と、熱は十分に感じました。びっくりするほど熱かった。
夏ですから反そでのシャツを着て、夜中に患者を見たら、スヤスヤしていました。私は朝早く病院に帰るつもりだったけれど、寝坊して8時に起きた。

その家にいてピカっと光って、焚き火にあたっていて、後ろからつきとばされて炎に入ったような熱さでした。すごく熱かった。後で見たらやけどはしていませんでした。熱さだけは今でも覚えている。だからどこか近くに爆弾が落ちたと思って、つぎに”ドカン”がくると思って、伏せていました。
でもドカンがこないので見た。そうしたら何が空に上がっていくのかを見ました。これを見た人はもう私しかいません。

ちょうど広島の上空に、青空の中に真っ赤な火の輪ができました。不思議で見つめていました。その上に真っ白な雲があがって、どんどん膨れていく。初めの火の輪はそのままです。雲が大きくなって内側から火の輪にくっついた。そうした大きな火の玉ができました。直系が7キロと本には書いてあります。
僕の印象では夕日がときどき大きくみえるときがあります。それが目の前にぼっとできた印象でした。初めて見るので怖いのです。縁側で座りなおして、何が起きてもすぐに逃げられるような覚悟で見ました。

そうしたら火の玉が上に雲になって、きりもなくどんどん上にあがっていく。下のほうは山があって広島の町は見えない。きのこ雲は写真でみると、下も雲になっていますが、あれは後からのものです。僕が見たときは下が火柱だった。上がきのこ雲になる。
不謹慎ですが、その火柱が五色に輝いてとってもきれいでした。あとで被爆者の前で、とってもきれいだったと言って、あの下で何人死んだのかと言われ、謝ったことがあります。

その火柱のついている一番下から、真っ黒な雲が出てきました。それが火柱がついている山の向こうにいっぱいに広がり、山を越えて、こちらに向かってくる。こちらは大田川の麓にいて、そこには森やらなんやらがある。
そこを渦巻きができて、それがこちらに迫ってくる。幅広い日本の山々の間を渦を巻きながら押し寄せてうる。僕のところに迫ってくる。

それが村のそばまできました。下の方に小学校があるのですが、その瓦が紙くずのように舞い上がりました。それが僕の見た最後で、つむじ風がまともに僕がいた家にきました。足元をすくわれて、家の中を飛んでいきました。
舞い上がって目の前に天井がある。その天井が風で吹きぬけた。その上の茅葺きが壊れて空が見えた。その次に壁にぶつかりました。そうしたら屋根が落ちてきた。泥も塗ってあってそれも落ちてきた。丈夫な農家だったので、家は潰れず、その中で子どもを捜して表にでました。

続く

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明日に向けて(557)モニタリングポストの測定から見えてくるもの(上)

2012年10月12日 13時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121012 13:00)

10月5日に市民と科学者の内部被曝問題研究会、汚染・環境実態調査・検討部会、モニタリングポスト測定チームによる記者会見が行われました。僕もチームの一員として参加し、司会を担当しました。

会見場の自由報道協会には、たくさんのジャーナリスト、記者の方々が参加されました。この間の、自由報道協会の会見ではひさびさの満員状態だったとのこと。さっそく翌日、朝日新聞と、東京新聞が記事を掲載してくれましたが、その後にもマスコミの問い合わせがあり、雑誌などで追加記事がでる可能性があります。

この会見の様子は以下から見ることができます。
*USTREAM録画「市民と科学者の内部被曝者問題研究会(汚染・環境実態調査検討部会モニタリングポスト検証チーム)記者会見」
http://www.ustream.tv/recorded/25928641

今回の記者会見で中心的に発表したことは、福島県内のモニタリングポストの網羅的測定の結果、表示されている数値が、実測値した数値よりも傾向的に低く、住民の放射能環境を正しくモニターしているとはいえない点です。測定を行ったのは、福島県内の相馬市・南相馬市51箇所、郡山市48箇所、飯舘村18箇所です。

この発表の機軸的な点は、おって測定チームが報告してくださるそうです。それも転載したいと思いますが、ここでは会見の最後に矢ケ崎さんが語った内容を文字起こししてお伝えしておこうと思います。ここに今回の測定を通じて訴えようとした観点が鮮明に示されているからです。なお発言は、記者さんの質問に答えて行われたものです。

今回こうした行動に参加できたことはとても光栄です。放射線防護を推し進めるために、さらに福島県をはじめ、さまざまな地域での測定作業に参加を続けたいと思います。

記者会見における一問一答から
(文字起こしでは、会話体を文語体に直しています。必要に応じて語句も補っており、必ずしも発言そのままではありません。そのため文責は守田にあります)

記者による質問
配られた会見レジメの、「測定結果の特徴」のところに、チェルノブイリでの移住権利のことに触れられていますが、日本ではチェルノブイリのような明確な基準はできていません。今後、チェルノブイリのようなきちんとした避難の基準を提示していきたいというお考えはあるのでしょうか。

矢ケ崎さんの回答
これまで政府は、公衆に対する被曝基準を年間1ミリシーベルトとしてきました。事故後に政府はこれを20ミリシーベルトにつりあげました。けれども、わたしどもはこれは、命を守るという点では、たいへんな、民を捨てる行為だと思っています。

放射線に対する抵抗力が、事故が起こったら20倍になる特別な市民が日本にいるなどということはまったくありません。人間の放射線に対する抵抗力は、事故があってもなくても同じなのです。ですから1ミリシーベルトを20ミリシーベルトに切り上げるということは、生活の条件をきり縮められたということ、まさに命を削られたことに匹敵します。

福島であろうと、沖縄であろうと、すべての日本の市民が怒りを発しなければいけない、そういう法的な措置がとられてしまったのです。

今、日本は年間20ミリシーベルトで一応避難ということになっていますが、チェルノブイリ周辺3カ国では、「1ミリシーベルト以上で危ないから、移住したい人は自分の意志で申し出てください。5ミリシーベルト以上はそこにいてはなりません」という区分を行っています。

この点でも原理に即して言えば、命の放射線に対する抵抗力が、チェルノブイリ周辺の国よりも日本の方が20倍も優れているなどということはまったくありません。こういう点で、日本の市民はもっと基本的な視点で、命を守ることを掲げなければいけませんし、もちろん報道される方も、その視点で、市民の命ということを基準に、報道していただければ幸いだと思っています。

わたしどもは、市民の共同の力で、こういうことはすぐに是正しなければいけないと考えております。どうぞその点をきちんとご理解いただいて、闘うという言葉を使えば、少し言葉が不適切かもしれませんが、市民の権利を守るために報道機関がきちっと役割を果たしていただけたらありがたいと思っております。

命を守るということから言えば、事故が起こったら20ミリシーベルトでいいというような原理は、命ではなくて、原子力発電所の都合にあわせるもの、政府の賠償の都合にあわせるものです。賠償を1ミリシーベルト以上だったらたくさんの人にしなければいけないけれど、20ミリシーベルト以上だったら少しだけですむ、こういうことに法的な意味をもたせるということで、20ミリという基準が使われていますが、これはICRPという組織が勧告ということで言っていることです。このICRPは原子力発電所の防護はいたしますが、人の命の防護はいたしておりません。

その点で報道機関の方も、人の命を守る立場にあるのか、原子力発電所を擁護する立場にあるのか、きちんとこの点を見極めて、やはり主権在民の国の市民のための報道をする立場を貫いていただければと思います。

以上

 

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明日に向けて(556)原発災害に対する心得(上)

2012年10月09日 23時30分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121009 23:30)

10月5日に東京での記者会見に参加しました。記者会見の内容はたくさんのマスコミ紙面に反映されたようです。会見の様子は以下から見ることができますのでご覧ください。おって詳細な報告を出したいと思います。

*USTREAM録画「市民と科学者の内部被曝者問題研究会(汚染・環境実態調査検討部会モニタリングポスト検証チーム)記者会見」
 http://www.ustream.tv/recorded/25928641

さて7日に同志社大学のある寮に赴き、防災訓練に参加しました。僕の役どころは、避難訓練に続いて、原発災害に対する心得をお話することでしたが、学生さんたちがとても熱心に聞いてくださいました。「初めて自分の問題として考えた」という方もいたそうで、良かったです。
これにむけてレジュメを作りましたので、ここに貼り付けます。まずはこれをご覧ください。

***

原発災害に対する心得

知っておきたい心の防災袋(防災心理学の知恵)
1、災害時に避難を遅らせるもの
○正常性バイアス⇒避難すべき事実を認めず、事態は正常と考える。
○同調性バイアス⇒とっさのときに周りの行動に自分を合わせる。
○パニック過大評価バイアス⇒パニックを恐れて危険を伝えない。
○これらのバイアスの解除に最も効果的なのは避難訓練

2、知っておくべき人間の本能
○人は都合の悪い情報をカットしてしまう。
○人は「自分だけは地震(災害)で死なない」と思う。
○実は人は逃げない。
○パニックは簡単には起こらない。
○都市生活は危機本能を低下させる。
○携帯電話なしの現代人は弱い。
○日本人は自分を守る意識が低い。

3、災害時!とるべき行動
○周りが逃げなくても、逃げる!
○専門家が大丈夫と言っても、危機を感じたら逃げる。
○悪いことはまず知らせる!
○地震は予知できると過信しない。
○「以前はこうだった」ととらわれない。
○「もしかして」「念のため」を大事にする。
○災害時には空気を読まない。
○正しい情報・知識を手に入れる。


原発災害にどう対処するか
1、原発災害への備え
○災害対策で一番大切なのは避難訓練。原発災害に対しても避難訓練が有効。
何をするのかというと、災害がおこったときをシミュレーションしておく。
○家族・恋人などと落ち合う場所、逃げる場所を決めておく。
○持ち出すものを決めておき、すぐに持ち出せる用意をしておく。

2、情報の見方
○出てくる情報は、事故を過小評価したもの。過去の例から必ずそうなる。
○「直ちに健康に害はない」=「直ちにでなければ健康に害がある」。
○周囲数キロに避難勧告がでたときは、100キロでも危険と判断。

3、、避難の準備から実行へ
○災害を起した原発と自分の位置関係を把握。基本的には西に逃げる。
○マスク、傘、雨合羽必携。幾つか代えを持つ。
○お金で買えない一番大事なものを持ち出す。その場に戻ってこられないと想定することが大事。どうでもいいものは持っていかない。
○可能な限り、遠くに逃げる。逃げた先の行政を頼る。
○雨にあたることを極力避ける。降り始めの雨が一番危ない。
○二次災害を避けるべく、落ち着いて行動する。


放射線被曝についての心得
1、福島原発事故での放射能の流れと情報隠し
○福島原発事故では風の道=人の道に沿って放射能が流れた。
○被曝範囲は東北・関東の広範囲の地域。京都にも微量ながら降っている。
○SPEEDIの情報隠しなど、東電と政府の事故隠しが被曝を拡大した。

2、知っておくべき放射線の知恵
○放射能から出てくるのはα線、β線、γ線。体への危険度もこの順番。
○空気中でα線は45ミリ、β線は1mしかとばず、γ線は遠くまで飛ぶ。
○このため外部被曝はγ線のみ。内部被曝ですべてのものを浴びる。
○より怖いのは内部被曝。外部被曝の約600倍の威力がある。(ECRR)
○外部被曝を避けるには必要なのは、放射線源から離れること、線量の少ないところにいくこと。
○内部被曝を避けるために必要なのは、汚染されたチリの吸い込みを避けること、汚染されたものを飲食しないこと。

3、放射能との共存時代をいかに生きるのか
○元を断つ。
○被曝の影響と向き合う。被爆者差別とたたかう。
○あらゆる危険物質を避け、免疫力を高める。前向きに生きる。

***

さて、ここでこのレジュメをみなさんに公開するのは、ぜひこの「原発災害に対する心得」を今後のそれぞれの防災対策に役立てていただきたいと思うからです。

とくに今回共著したいのは「知っておきたい心の防災袋(防災心理学の知恵)」と「原発災害にどう対処するか」についてです。このうち前半は災害一般に対する防災心理学の提言ですから、あらゆる災害に通用することです。後半はこの防災心理学の知恵を、原発災害に適用したものです。

ですから「知っておきたい心の防災袋」は、あらゆる災害に通用しますから、ぜひいつでも見れるところにおいておき、繰り返し読んで、心に留めておいていただきたいものです。災害時に必ず役に立ちます。これを知っているかどうかで生きるか死ぬかの分かれ目にすらなりえます。

この知恵をとても分かりやすく解説している本を先に紹介しておきます。『人は皆「自分だけは死なない」と思っている 防災オンチの日本人』という本です。防災システム研究所所長山村武彦さんの著作で、宝島社から2005年に出版されています。


さてこれまでも何度も取り上げてきているのですが、私たちが災害対策として一番に心に留めておきべきことは、命の危機に遭遇することの少ない現代社会の生活を送っている私たちは、日常生活の中で危機に対処する訓練をしてこないので、いざとなったときに、心がロックして、危機への適切な対応ができなことです。

同書ではこれを「正常性バイアス」「同調性バイアス」「パニック過大評価バイアス」とまとめていますが、この中で最も大きな位置を持っているのが「正常性バイアス」です。バイアスとは偏見のことですから、危機に瀕しても、事態は正常なのだ、ないしは正常に戻るのだという「バイアス」を現実にかけてしまい、あくまで危機の認識を回避してしまうことです。

なぜこのようなメカニズムが働くのか。私たちの心にはいわば許容量があり、それを上回るものを受け入れようとすると、心が壊れてしまいます。そのために心理状態の安定を守るための措置として、現実に対する認識を歪め、心の平成を保とうとするのであり、いわばこれは私たちの一つの生活の知恵とも言えます。

災害のときにはこれが私たちに危機をもたらすのです。例えば今突然、異常を告げるベルが鳴ったとする。「大変だ!」と感じたら、私たちはすぐに必死の行動に移らなければならない。しかし「誤報じゃないの?」と考えたら、とりあえずは心穏やかにしていられるわけです。しかしそのことで避難のチャンスを失ってしまうかもしれません。

この「正常性バイアス」に輪をかけて、危険性を拡大するものが、「同調性バイアス」と「パニック過大評価バイアス」です。前者は何かの突発事態があったときに、周りの顔色をうかがい、それに従ってしまうことです。この場合、周囲が正常性バイアスに陥っていると、それに同調してしまうことになります。そうではなくて、自分の危機意識に基づいて行動することが大事です。

さらに危険なのが「パニック過大評価バイアス」で、そもそも現代人はなかなかパニックになりにくいのに、さらにパニック回避を理由に、伝えるべき事実を隠してしまったり、非常に軽く、穏当に伝えることで、正常性バイアスを強める結果を生んでしまうことです。とくにこれは行政など、災害情報を伝える側が、けして陥ってはならないバイアスです。

大事なのは、こうした「正常性バイアス」「同調性バイアス」「パニック過大評価バイアス」のロックをはずすことで、災害心理学が進めているのは、一にも二にも、実際の災害を想定した避難訓練を行うことです。

避難訓練を繰り返していると、危機に瀕した時の心のよりどころが生まれます。よりどころとは危機への対処法、あるいは自分がとりあえずばすべきことを知っていることです。そのことで、危機の認識を避けなくても、心の平成を保てるので、現実を歪めることなく正しい認識が行えるのです。もちろん平成といっても、危機を受け入れているわけで、心穏やかではありませんが、けして心が壊れるようなことはありません。

あらゆる避難訓練はそのためにも行われていることを知っておくことが大事です。そのため、避難訓練には積極的に参加し、そこで学んだんことを日常でも時々、反芻すると良いです。ここまでが災害一般においておさえておくべき内容です。私たちの国は自然災害大国ですから、これは私たちが豊かな人生を送るための必須の知恵です。

続く

 

 

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明日に向けて(555)モニタリングポストをめぐる記者会見に参加します!(10月5日)

2012年10月04日 08時30分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121004 08:30)

10月5日に、市民と科学者の内部被曝問題研究会、汚染・環境実態調査・検討部会、モニタリングポスト検証チームによる記者会見が行われます。僕も同チームの一員として記者会見に参加します。
以下内容をお知らせします。

*****

放射能モニタリングポストの実態調査―人為的指示値低減化操作の判明―内部被曝問題研、汚染・環境実態調査・検討部会、モニタリングポスト検証チーム

かねてから「モニタリングポスト」や「リアルタイム線量測定システム」設置に関して、業者との契約解除を行ったことが報じられました(朝日新聞:2011年11月19日朝刊)。その背後には文科省により「放射能測定計器の指示値を低減させるように」業者に対して指示し、圧力を掛けていたことなどがうわさされました。もし文部省により、計器の指示値に対する人為的な操作がなされるとすれば、それは国家的な犯罪を意味します。

内部被曝問題研、汚染・環境実態調査・検討部会、モニタリングポスト検証チーム(略称:モニタリングポスト検証チーム)はモニタリングポストの実態を解明すべく、系統的な測定をしてまいりました。その中途結果を皆様にお伝えし、チームとしての緊急記者会見を開き、まずデータ(の一部)を公表したいと思います。

現在、浜通り相馬・南相馬51か所、郡山48か所、飯舘18か所等のモニタリングポストの測定を行いました。測定中途で明確になった問題点は、いずれの地域でも極めて系統的に、①モニタリングポスト測定計器の指示値が10%から30%程度、低くなるように設定されていること、②モニタリングポスト周辺が除染されていて住民の受ける放射能環境より30%から50%ほど、低い測定値を出すように「環境整備」されていること、等です。以上のような、重大な測定結果を得ましたので、緊急に記者会見を行います。

日時:10月5日 15:00~場所:自由報道協会


(計器および測定方法)用いた放射線測定器: 校正済みのシンチレーションカウンター:HITACHI-ALOKA TCS172B、およびThermo社B20-ER
測定方法:モニタリングポスト計測器に最も近づけて測定、(密着して、いくら離れても最大10cm程度):この測定でモニタリングポスト計器の指示値と正しいメーターの指示値が比較できます。除染されている範囲内のモニタリングポストから2mと5mの地点での測定。モニタリングポストに近接した除染されていない地点での数か所測定の平均値:住民の曝されている実際の放射能環境がわかります。測定は、空間線量だけでなく、地表の測定、cps(ベクレル)測定等も行っています。

記者会見参加者
矢ヶ克馬 琉球大学名誉教授 市民と科学者の内部被曝問題研究会副理事長 同会 汚染・環境実態調査検討部会長
守田敏也  市民と科学者の内部被曝問題研究会常任理事 広報委員長 汚染・環境実態調査検討部会
吉田邦博  市民と科学者の内部被曝問題研究会 汚染・環境実態調査検討部会 安心安全プロジェクト
小柴信子  市民と科学者の内部被曝問題研究会 汚染・環境実態調査検討部会
小澤洋一  市民と科学者の内部被曝問題研究会 汚染・環境実態調査検討部会 ひまわりプロジェクト南相馬
中野目憲一 市民と科学者の内部被曝問題研究会 汚染・環境実態調査検討部会 ひまわりプロジェクト南相馬
横山龍二  市民と科学者の内部被曝問題研究会 汚染・環境実態調査検討部会 安心安全プロジェクト

 

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明日に向けて(554)呉秀妹阿媽のこと・・・福島原発事故と戦争の負の遺産(中)の5

2012年10月03日 16時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121003 16:00)

9月27日に台湾から帰国し、そのまま関空から兵庫県篠山市に向かいました。夜に篠山市で講演、その日は温泉のある「ささやま荘」に泊めさせていただき、翌朝、丹波市に移って午前10時から講演。その後、舞鶴市に移動。夕方から講演を行い、震災遺物(がれき)問題でのミーティングに23時半まで同席しました。翌日29日は宮津のイベントに参加。意義多い3日間を過ごしてきました。その詳細についてはすでに前回の記事でお知らせしています。

さて、ここでもう一度、台湾に戻って、今回の旅の一番の目的だった呉秀妹アマアのことを書きたいと思います。彼女は現在96歳。客家(ハッカ)の方で、台湾語と客家語を話されます。日本語は少しだけ話せるのですが、それがなんとも愛らしい。

幼いとき、貧しかったアマアは苦労を重ねた末に、騙されて性奴隷にされてしまい、中国戦線へと送られてしました。その後、台湾に帰国、やはり生活でとても苦労されましたが、その中で養女を育て、たくましく生きてこられました。

彼女が名乗りを上げたのは、婦援会の呼びかけに応えてです。といっても、十分な教育を受けられなかったアマアは、文字が読めない。婦援会の呼びかけ文もアマアの目に入ることはありませんでした。ところがあるとき、アマアが辛い過去を伝えたごくごく親しい方が、婦援会の呼びかけ文を読み、アマアに「これはあなたのことでは」と伝えてくれました。それで彼女は声を上げたのでした。

初めてアマアが婦援会を訪れたとき、彼女はうつむきがちで、多くを語らず、ひっこみがちであったそうです。ところが婦援会のさまざまな企画に関わっているうちにどんどん変わっていった。元気になり、よく笑うようになり、かつなんにでも積極的にチャレンジするようになりました。

婦援会の活動が素晴らしいのは、アマアたちの心身の傷を癒すためのさまざまなセラピーワークショップを繰り返してきたことです。例えばアマアたちに等身大の図を与えて、体の中の自分の好きなところに好きに色づけしてもらう。これは、心の中に入り込んだ、自らの体が汚されているという感覚から、アマアたちを解放するための試みでした。

あるいは結婚ができなかったり、いわんや結婚式をあげることができなかったアマアたちのために、ウェディングドレスを用意し、みんなで撮影会を行いました。その後、それぞれのアマアたちに、ウェディングドレスを着た写真が額にいれて送られましたが、どのアマアのお宅にいっても、それが一番大事に飾られていました。

アマアたちに生まれ変わったら何になりたいのかを聞いて、その夢をかなえてあげようとするドリーム・カム・トゥルー・プロジェクトもありました。このときシュウメイアマアはキャビン・アテンダント(CA)になりたいといった。アマアの言葉では飛行機の「小姐(シャオジエ・お姐さん)」です。

それで婦援会は、チャイナ航空に交渉。すぐにOKが出て、空港にある実際のCAの訓練に使う施設を貸していただきました。しかも専属の訓練士やヘアードレッサーが参加してくれて、簡単なレッスンがなされ、みんなが座っている模擬飛行室(客室の一部を再現したもの)に、チャイナ航空の制服で着飾ったアマアが颯爽と登場。

「離陸」にあたって、救命用具の使い方を説明したり、「飛行」に移ると、席をまわってお茶を配ったりします。やがて飛行機が「着陸」。アマアは乗客が出て行くのをお見送り。最後に、CAが持っているキャリーバックをひっぱってでてきて、みんなに手を振りました。婦援会とチャイナ航空の粋なはからいがとても嬉しかった。

そんな過程を経て、アマアの心はどんどん解放されていき、同時にこの問題をただそうとする強い意志も大きく育っていきました。婦援会の中にあって、アマアと私たちの橋渡しを一番してくれている素敵な女性、ウーホエリンさんも、実はアマアが名乗りを上げたころに婦援会に参加。アマアとともに歩んできたとのことで、アマアが変わってきた過程の素晴らしさをつぶさに話してくれました。

そんなアマアが日本にきて、私たちと会ってくれたのが2006年秋。その後、みんなで台湾を訪れ、あまたちとの交流を深めて、2008年秋にシュウメイアマアだけをお招きし、幾つかの証言をしてもらうとともに盛大なパーティーを開きました。このときもアマアにピンクのドレスを着てもらい、参加者が一人ずつ模擬の花をそのドレスに挨拶をしてはりつけていく催しをしました。

アマアは証言の中で、「私は名乗りをあげてよかった。こうして日本にこれて素敵な人たちに会えた。守田さんたちに会うことができた。今が一番幸せだ」と泣きながら語ってくれました。アマアをお招きして本当に良かったと思う一瞬でした。実行委のみんながもら泣きしてしまいました。

アマアの横顔示すエピソードにも事欠きません。はじめてアマアが来日したある夜、僕が宿舎から帰ろうとするときに、アマアがでてきて、僕の連れ合いの浅井桐子さんに「あなたの名前はなんていうんだい」と尋ねたことがありました。詳しくは(550)に書いてありますが、アマアは「今日はこの人が実の娘のように付き添ってくれたよ。お風呂で体もあらってくれたよ。私は子どもが生めなくて淋しかった。だから今日はとても嬉しかった。それなのに、私は名前も呼べなかったよ」と語ったのでした。

それに対して、僕が「僕はもうお母さんがないんだよ。だからアマアを本当のお母さんのように思っているよ」といったら、彼女は「でも私は貧しいんだよ。子どものお前たちに何も買って上げられないよ」といいます。「それじゃあ台湾にいくからアマアの手料理を食べさせて」というと、「私は料理が上手じゃないんだよ。おまえたちにおいしいものを食べさせてあげられないよ」という。

そういいながらポロポロと涙を流すアマアをみんなで囲み、みんなでもらい泣きしながら、温かい時間を過ごしました。今でも忘れられない思い出で、このことを前にも書きましたが、実はこの話は続きがあるのです。「お前たちに何も買って上げられない」と言ったアマア、それだけでは終わらなかったのです。翌日になるとアマアは、「おまえたちに金を買ってあげたい。金の売っているところに連れて行っておくれ」と言い出した。

なぜ金なのかというと、台湾では子どもが生まれたときに、お金持ちになれるようにと、金の指輪を買ってあげて、足の指にはめてあげたりすることがあるからなのだそうです。金を子どもに買い与えるのが親の甲斐性。だからアマアは金を買うという。しかも一度言い出したことは絶対に曲げない。

この日は間が悪かったのか良かったのか、金閣寺に観光にいくことになっていました。台湾のおばあさんたちも韓国のおばあさんたちも、金閣は見るととても喜んでくれるのですが、アマアもとても喜んでくれた。そうして境内で、なんども一緒に写真をとりながら一緒に歩いていき、やがて出口付近にあるお土産やさんに入ることになりました。

とたんにアマアの目が輝きだす。こちらは、「ま、まずい」と思い、陰にまわってごちゃごちゃ相談。「これはもう何かを買ってもらうしかない。できるだけ安いものにしよう」と決めて、アマアに金箔の入った小瓶を渡しました。それを手で振ったアマア、「金はこんなに軽くない!」と一蹴。高そうな商品に目を向けて手を伸ばします。それでやむをえず2000円ぐらいのペンダントを手に取り、浅井さんがこれが欲しいとアマアに。

「これ本物?これ金?」とアマアは繰り返す。金メッキなのでまあ嘘ではなかろうと「本物よ」と浅井さん。ようやくアマアとレジにいきましたが、値段を聞いてアマアの顔がくもりました。きっと「金はこんなに安くない!」と思ったのでしょう。

そこからの帰りの車。アマアたちとホエリンさんと僕が乗っていたのですが、アマアがまた金を売っているところに連れて行けと言い出す。僕が「京都は小さな町で金は売ってないんだよ」というと、「私は騙されない。日本は金持ちだ。それに金閣寺にはあんなに金があった。絶対にどこかで売っているはずだ」と譲らない。

ほとんど降参状態でした。ホエリンさんは、「私たちのアマアは頭がいいのよ。さあ、守田さん、どうする?」といたずらっぽく笑うばかり。とりあえず、この日はもう時間が遅かったので、それを理由に宿舎に帰りました。その後も、なんやかんやとスケジュールがあり、アマアも金を買いに連れて行けとは言い出せず、結局、この話はそのまま流れていきました。

ところが、アマアはそれで終わりにはしなかった。その後に私たちが再び台湾に訪問し、アマアの家に集まってパーティーをしたとき、アマアが浅井さんにプレゼントを持ってきた。なんと金のネックレスだったのです。それを首にはめてしまった。えーっ。どうしよう?断れない。とりあえずもらうしかない。ホエリンさんもここはもらってと笑いながら目で合図してくる。それでありがとうと伝えて日本まで持ち帰りました。

しかし日本に帰ってまじまじとみると、どう見てもかなり高価なものにしか見えない。これはなんとか返さないと思っていると、ホエリンさんから連絡が来ました。実はこのネックレスは、金を大切にしているアマアのために、お孫さんが買ったもの。どうも数十万円するらしい。アマアはこれを浅井さんにあげて、同じものを買い戻すつもりだったのだそうです。

ところがネックレスですから、同じものを探すのは難しくて、アマアが困っているとのこと。やはりとにかくこれはお返ししようと決めました。それで台湾に向かう東京の柴洋子さんにお願いし、「とてもありがたいのだけれど、気持ちだけもらっておくから」とお返ししました。アマアは納得してくれた様子で、金の話はようやくこれで一段落となりました。

このようにアマアはとてもプライドが高く、意志が強い。自分の思ったこと、とくに人への思いをどこまでも貫こうとする。恩を受けたら必ず何倍にもして返す。たどたどしい日本語で、かわいらしい言葉をたくさん発するのだけれど、アマアはただかわいいおばあちゃんなのではないのです。その心の中には、人生の荒波を不屈に生き抜いてきた精神力が脈々と波打っているのです。

そんなアマアをみて僕はたくさんのことを教えてもらうことができました。核心問題は人間は不幸や困難を越えられるということです。しかもどんなにひどい経験をしても、人を愛する心を維持できる。逞しく育ててくることができる。それはほとんど驚異の力です。でもアマアの中にそれがあるならば、同じ人間である私たちも、それを自分のものとできないはずはない。僕はそんな風に思ってきました。

というのは、この性奴隷問題に関わり始めて、僕は一度だけ、関わりを続けていくのはあまりにもしんどいと思ったことがあります。それは各地の戦線に送られた女性たちの被害実態をいろいろと調べていたときのことでした。前にも書いたように、被害女性たちの経験を比較することはできないことですが、それでも僕には中国での戦闘の最前線に送られた女性たちが一番過酷な体験をしたように思えました。なぜなら日本軍が最も獰猛で、殺戮だけでなく、略奪やレイプなどを繰り返していたかの地では、「慰安所」でもレイプが行われるだけでなく、残虐な殺戮が繰り返されていたからです。

その一例を書くので覚悟して読んで欲しいと思いますが、あるとき兵士のあまりに野蛮な振る舞いに抵抗した女性がいました。彼女は繰り返されたレイプの中で妊娠していました。彼女のやむにやまれぬ抵抗に激怒した兵士は、「慰安所」の女性たちすべてを広場に連れ出し、どうなるかの見せしめだとばかりに、彼女たちの前で抵抗した女性を日本刀で惨殺したのです。

そればかりか、腹を裂いて胎児の入っている子宮を取り出し、それをスライスした。それを居並ぶ女性たちの頭の上からかけていったのです。・・・「慰安所」というと、レイプをする場としか思い及びませんが、そればかりではない。鬱積した憤懣をはらすため、しばしばこうして女性をなぶり殺しにすることまでが行われたのでした。

僕はこうした事実を、京都精華大学の図書館の中で見つけた資料によって知りました。そこにはこれと違わないような残虐な例が他にもたくさん書いてあったのですが、それを読んで僕は、図書館の本棚と本棚の間のカーペットの上に座り込んでしまいました。閉じた本を抱えたまま、あまりのショックに立てなくなってしまいました。

そのとき浮かんできた感情は、怒りを通り越して、人間全般への絶望でした。人間とはこんなことをする生き物なのかと考えると、人の世を明るくしようとする努力のすべてが無駄なように感じられました。ああ、こんなことを見続けるのは辛すぎる。こんな惨劇はもう見たくない。この問題にこれ以上、触れたくないと、正直なところ僕はそう思いました。今でもあのときの図書館の風景が頭にこびりつています。

しかしその後にそんな気持ちを乗り越えて活動する中で、出会うことのできたたくさんのおばあさんたちの横顔は、そんな僕の思いを癒し、勇気を与えてくれるものばかりでした。何よりも深く心を揺るがされたのは、彼女たちが、兵士への恨みからではなく、人々、とくに若い人々への愛から立ち上がっていることでした。「もう二度と、若い人があんな思いをしてはいけない」。どの国のおばあさんも共通に語る言葉がこれでした。

正確に言えば、そのように強い意志と愛情を維持できたおばあさんたちだけが名乗りをあげることができたのです。「慰安婦」にされた女性は推定で20万人以上。その中の1%にも満たないほんの一握りの女性たちしか声をあげることができなかった。そして声をあげた女性たちはそのほとんどが、人生の荒波を乗り越え、くめど尽きせぬような生きることへの意志と人々への愛情を育て上げてきた方たちだったのです。

シュウメイアマアもその代表の一人です。だからこそ私たちは彼女に魅せられた。とくに私たち夫妻にとって、日本の娘とその夫・・・と呼ばれることはとても光栄でした。アマアは私たちにとって特別な存在になりました。そんなアマアを見舞うのが今回の旅だったのです。

さて呉秀妹阿媽(ウーシュウメイアマア)の家にようやく辿り着き、僕はいそいそと階段を駆け上りました。すでにたくさんの人が訪れていて玄関があいていました。僕はアマアの笑顔が早くみたくて玄関を走りぬけるように中に入りました。ちょうどそのとき、偶然にもアマアが車椅子で押されて自分の部屋からでてきて、顔が会いました。

しかしその瞬間に僕の甘い期待はもののみごとに裏切られてしまいました。アマアはまったく笑わなかったのです。その顔は、げっそりとやつれ、ほとんど半分ぐらいになってしまっていた。しかも表情には深い憂いが漂うばかりでした。僕のことを認識してくれたのかも良く分からなかった。

ショックでした。あまりに深いショックでした。ああ、アマアはこんなにも老いてしまった。あのかわいらしい笑顔がどこかに去ってしまった。ああ、淋しい。ああ、悲しい。・・・そんな思いが僕の胸をいっぺんに覆いつくしました。

続く

 

 

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