明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(906)イスタンブールからの報告

2014年07月31日 12時00分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)
守田です。(20140731 12:00 イスタンブール時間)
 

関空からの13時間弱のフライトで昨日イスタンブールにつきました。

こちらの時間は日本時間マイナス6時間。22時15分出発だったので到着は日本時間で11時ちょうど。こちらの時間で朝5時でした。
 
入国手続きを終え、荷物を回収するなどして1時間を過ごし、地下鉄と路面電車を乗り継いで、スルタンアフメド駅で降りて予定のホテルに向かいました。時刻はそれでも7時過ぎ。まだチェックインできる時間ではないので、フロントに荷物を預け、インターネットフリーサービスでメールチェックをしてから町に出ました。
 
僕が今回イスタンブールで選んだホテルは、スルタンアフメドモスク、いわゆるブルーモスクの裏手です。世界で一番、美しいと評されているモスクです。まずはそこに見学に行きました。一般公開は8時半から。それとは別に祈りを捧げる人たちの入れる門があります。
 
モスクにはドレスコードがあります。男性も女性も足などをさらけ出していてはいけない。女性の場合、頭や二の腕なども覆われていなければいけません。しかし夏でもあることもあって、大量の欧米人の女性がタンクップにショートパンツの出で立ちで押し寄せてきていて、朝から長蛇の列をなしている。
 
「どうするんだろう」と思っていると、さすがによくできていて、入り口でショールやスカーフを大量に用意していて貸し出すのです。必要な人々はそれを身にまとってから中に入っていきます。
 
モスクの内部は、とにかく広い、大きい、空間が凄い。圧巻です。もちろん窓の配置、アーチ上のドーム天井、すべてが美しい。さすがに世界一と称される通りです。どこをみていても飽きない。特に見学コースがあるわけでもなく、人々は思い思いに見学した後、出口に向かうのですが、立ち去りがたい思いに駆られる場所でした。
 
よくみると祈りを捧げる方たち用の入り口付近では、すでに幾人もの方達が静かに座り、目を閉じ、お祈りをはじめていました。大地に頭をつけ、アラーにひれ伏している方もおられました。その前を観光客がざわざわとすぎていきます。僕もその一員である訳ですが、許されていることとはいえ、なんだか申し訳ない気がしました。
 
でもこのモスクの素晴らしさは、今なお、こうして人々の祈りが捧げられていることによって継承され続けているようにも思えました。観光客でざわついても、ここには真摯な祈りの場がある。それが僕にこの場から立ち去りがたい気持ちを与えたのではないかと思えます。
 
ここをでた後、近くにあるアラソフィア博物館に行きました。もともとアラソフィアモスクだったところ。聖なる知恵の教会と訳されてきた場です。ここはビザンティン帝国(東ローマ帝国)時代に、東方教会の大拠点として建てられたところです。そのために内部の至る所に、キリストやマリアの肖像画が残されている。細かいタイルによって描かれたものです。
 
そのころのイスタンブールはコンスタンチノープルと呼ばれていました。ここを首都とするビザンティン帝国は395年から1453年まで栄えて、往事の人々はコンスタンチノープルを絶対に陥落することのない都と考えていました。
 
ところがオスマン・トルコが15世紀中期にコンスタンチノープルを攻略。1000年通じた東方教会の大拠点の都に終止符を打ち、名前をイスタンブールに改めたのです。このときアラソフィア寺院も収容され、キリストの壁画などは漆喰によって塗り込められ、モスクへの大転換が果たされたのでした。
 
その後、オスマン・トルコは領土を大きく広げていきます。そうして現在のパレスチナの地からエジプト、イラク、シリアなどを含むアラブ諸地域、アルジェリアなどアフリカ大陸北部、ギリシャなどを含むバルカン半島、そしてクリミアを含む現在のウクライナ南部などです。
アラソフィア寺院も一時期は、この広大な地域の人々のアラーへの祈りの中心地として栄えたのでしょうが、なんだかスケールが大きすぎて、そこまで想像力を伸ばすのが難しいというのが率直に感じたことでした。
 
その後、オスマン・トルコは第一次世界大戦にドイツ側にたって参戦して敗北し、崩壊していきます。1922年のことです。そのとき領土も多くを失うのですが、そのもぎとり合戦を主導したイギリスなどによって、パレスチナ問題をはじめ、様々な矛盾が形成されていきました。
このときオスマン・トルコを終演させた第一次世界大戦におけるトルコの英雄、ケマル・パシャのもと、トルコの共和国化と世俗国家への転換が図られだし、アラソフィア寺院も漆喰で封印されていたキリストの画などが復活させら、現在のように見えるようになったとのことです。
 
このような歴史を経てきたアラソフィア寺院は現在は博物館となっていて、今は祈りの場としては機能していません。いや、ひょっとしたら何らかの形で継続しているのかもしれませんが、ブルーモスクとの違いは、入場料が取られることです。しかも30トルコリラ、2000円強で僕には高いように思えました。
館内でも復活したキリスト画の模造品が大々的に土産物として売られていて、イスラムの祈りの場とは言えない雰囲気でした。
 
博物館として歴史を公開することには大きな意義があると思うし、キリスト教の上にイスラム教が塗り重ねられてきたことを知ることも大切なことなのですが、僕には何か残念なように思われました。
お金に固執するわけではないですが、誰もがドレスコードを守れば自由に入ることができ、今でも祈りの場になっているブルーモスクの方が僕には素晴らしい場に思えました。
 
 
さて、このようにイスタンブール観光をしているのは、もちろん単純に楽しいのためでもありますが、トルコの歴史、トルコ周辺国の歴史を知り、何が大切にされてきたのか、何が否定されていたのかなどを知るためです。そこから今のパレスチナに何がどうつながっているのか、もっと言えば、今の自分のアクティブな行動に何がどうつながるのか、まだとても見えていませんが、少しでも大事な何かをつかみたいと思います。今回はそのための余裕がもてたことがありがたいです。
 
今日はこれから通訳のプナールさんが、ボスポラス海峡見学に連れて行ってくださいます。黒海から地中海に抜ける唯一の海峡で、歴史上さまざまなことが起こったところであります。今日も一日、トルコの、あるいはこの地域を行きた人々の思いに触れてこようと思います。
 
 
シノップでの企画についても書いておきます。8月3日にシノップのゲルゼ町で反原発企画があり、そこに参加することになっていますが、どんどん内容が膨らんでいます。
一つに僕がお誘いして東京から参加することになったFOE JAPANの吉田明子さんのはたらき掛けで、日本の脱原発をめざす首相会議がシノップ市長にあてた公式のレターを書いてくださいました。このこともあって、今回、シノップ市長とお会いすることができるのではないかと思います。
 
一方、ドイツから核戦争防止国際医師会議(IPPNW)ドイツ支部の、アンゲリカ・クラウセンさんと、お連れ合いのトルコ人、アルパー・オクテムさんもシノップでの一連の行動に参加されることになりました。
アルパーさんは、3月の僕のトルコ訪問をプロモートしてくださった方でもあります。
 
さらに3月に、ヨーロッパ・アクション・ウイークを開催し、僕をトルコに派遣してくださり、この行動の反省や今後のチェルノブイリ・福島連帯のために10月にポーランドで開催される国際会議に僕を招待してくださっているIBBというドイツの大きな団体からも人が参加されることになりました。
これらの方の航空券や宿泊の手配をプナールさんが必死の努力で行ってくれていますが、いずれにせよ、シノップで大きな交流の輪が花咲きそうです。
基軸はトルコと日本の民主的交流であり、そこに再びドイツの方達の力が大きく加わることになります。素晴らしい発展です。
 
まだ何がどうなるか、細かいことはわかってない点が多いのですが、いずれにせよ、実りある交流を作り出し、シノップへの原発建設を食い止め、さらに世界の脱原発ムーブメントの促進につながる成果をつむぎ出してこようと思います。頑張ります!
 
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