明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(2038)被爆した浦上天主堂の取り壊しと山田かん氏の告発ー山口研一郎氏の論稿から−2

2021年05月30日 10時30分00秒 | 明日に向けて(2001~2200)

守田です(20210530 10:30)

愛媛県松山市のホテルからです。四国を講演などで巡る旅の途中です。
今日は午後1時半から行われる「伊方原発をとめる会」の定期総会で講演させていただきます。コムズ大会議室にてです。
この講演の前に、前回から掲載している山口研一郎氏の論稿、「原発被災地・フクシマに漂う「核との共存」ー被爆地・ナガサキも同じ過ちを経験した」の続きを掲載します。

以下、山口さんの論文の続きです。

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3 . 浦上天主堂の取り壊し
永井氏(「永井精神」)の偶像化の結果は、1958年の浦上天主堂の取り壊しとして現われました。1895年(明治28年)から1925 年(大正14年)の30年の歳月をかけて建立された天主堂は、浦上地区のカトリック教徒の精神的支柱でした。それが、1945年8月9日の一瞬の出来事によって破壊されてしまったのです。

永井氏は、先の合同葬において、「世界戦争という罪の償いとして浦上教会が犠牲の祭壇に供えられた」 と述べました。
浦上地区の人々を始め長崎市民は、「被爆の象徴」たる天主堂の廃墟の存続を切望しました。 しか し、 1956年8月から9月訪米を果たした当時の 田川務市長(被爆者でありカトリック信者)は、取り壊しを決定したのです。市議会議員全員の反対にも関わらず、浦上司教区山口愛次郎大司教が有した永井氏の「神のこ摂理」に沿う考えがその原動力となりました。 こうして、1958年5 月初旬、天主堂は跡形もなく 地上から消え去りました。

その背後に、来たるべき「冷戦」をひかえたアメリカの核戦略構想があったことは言うまでもありませ ん 。
その推進のために開発された原爆が、カトリック教徒の聖地(天主堂が存在する長崎は、 東洋のローマ=ヴァチカンと称された)を破壊し尽し、8500人の信者を死亡させた事実を一日も早く葬り去ることが必要でした。その象徴こそ天主堂であったのです。天主堂の取り壊しは、同時に「被爆への怒りの終焉」 とも言えたのです。こうして長崎は、「平和記念都市」から「国際文化都市」へと変質しました。


原爆の残虐さを示していた被災した浦上天主堂


4 . 反旗を翻した山田かん氏

そのような風潮に敢然と反旗を翻したのが長崎市在住の被爆詩人山田かん氏でした。山田氏は、「偽善者・永井隆への告発」(原題「聖者・招かれざる代弁者」)の雑誌投稿(『潮』1972年7月号)によって、永井氏の数々の著書を真っ向から批判しました。特に、『長崎の鐘』における原爆が終戦をもたらしたとする論が、「アメリカの(原爆を投下した)政治的発想を補強し支えるデマゴギ—」であるとしました。

全国のカトリック教徒や一部長崎市民の反発は大きく、当時「家庭内にはタブーに触れた恐れのような不安感が漂っていた」(長男貴己氏)、「毎日はらはらして過ごしました」(妻和子さん)といった状態でした。しかしその後山田氏の主張は、1994年出版の高橋慎司氏(長崎大学名誉教授)によ る『長崎にあって哲学する一核時代の死と生』 を始め、多くの長崎市民に受け継がれました 。

毎年「金魚売り」のように夏の風物詩になってしまった原爆慰霊祭に対して心底から怒り続けた山田氏は、1952年から亡くなる(享年72歳)2003年6月までの50年余りに、550篇に及ぶ詩を詠まれました。
山田氏の業績を偲ぶべく、ここに1985年2月に詠まれた現代にも通じる一篇を紹介します 。


帰リ来よと一

夏が過ぎまた残酷の刻(とき)が去り
初秋の雲が流れゆく夕暮れどき
テレビは明滅しながら報じていた
アメリカ人ジョン・スミザーマンの死を

もういつだったか
画面に見ていた記憶があった
リンパ浮腫のため両足を切断
陽気な笑みでグローブ大にはれた両手を差し出した
車椅子の男の姿
1946年6月7日戦後初のビ年二環礁原爆実験
17歳の少年はこの時
アメリ力海軍艦上消防兵として
核の前面に晒(さら)されていたのだ

スミザーマンのそれからの人生が
被爆者としてのものだったことを
アメリカ国家はついに認めようとしなかった
間断なく続く実験のあと多くの被爆兵士が生じたことも

日本に帰りたかった
との言葉を遺(のこ)して死んだと
テレビが伝えたとき
ふと湧き上がる涙をとどめようもなかった

帰りたかった 何処(いずこ)へか
帰るに値するところがあるのか
わが国の中に
なにほどの救護の拠点があったというのか
被曝民族がいまや世界に満ちている
韓国・朝鮮人、中国人、インドネシア人、オランダ人、マーシャル人、アメリカ人
日本人、さらに核保有国のすべての民族さらに原発保有国のすべての民族

核の禍(わざわい) 
救いのない国家の中の孤独
ひとりひとりは分断されつづけ後遺症をかかえ
なおもたたかいつづけ帰るところもなく
恢復の望みも見えぬままに

世界に向けて かえるところはここなのだと
ユイイツノヒバクコクニッポンならば
それをどうして言えなくしてしまったのか
ぐんびもかくもわが国には一切ない と

あるのはすぐれた医療と海と緑と風と光 
なぐさめの雨と苦しい思いからの目覚めと
鋭い反核の意志だけだと
たたかい疲れたおとろえた人よ 
帰り来なさい と


埼玉協立病院を訪れたジョン・スミザーマンと付き添う肥田舜太郎医師
撮影 森下一徹 世界ヒバクシャ展より

#浦上天主堂 #永井隆 #ジョンスミザーマン #肥田舜太郎 #ナガサキ #フクシマ 


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