明日に向けて

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明日に向けて(1344)宇沢先生の歩みからアメリカを振り返る(トランプ大統領就任に際して2)

2017年01月20日 23時50分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です(20170120 23:50)

 日本は今、夜中の0時を回ろうとしています。対してアメリカは午前10時になろうとしているところ。あと2時間でドナルド・トランプの大統領就任式が始まろうとしています。

 これを前にしてすでにアメリカ各地でトランプの差別主義、排外主義への抗議行動が繰り広げられています。マイケル・ムーアや、ロバート・デニーロなど、著名人が続々と批判スピーチを行っています。

 こうした情勢を受けて「明日に向けて」の前号から、アメリカでいま何が起こっているのか、なぜトランプは「勝利」したのかの解き明かしを始めました。

 その際、僕がキーワードとして考えているのは「投資」「投機」、そして「社会的共通資本」です。今回もこの内容を深めていきたいと思います。

 

2、宇沢弘文先生とミルトン・フリードマン

 さて前回、今のアメリカの現状を解明するために最適な理論として宇沢先生の「社会的共通資本」の考え方を解説しましたが、ここでさらに詳しく、宇沢先生のことをご紹介したいと思います。

 宇沢弘文先生は鳥取県米子市の生まれですが、小さい時に東京に移られ、旧制一中(現在の日比谷高校)から旧制一高へと進まれました。一高への入学は1945年、戦争末期のことでした。

 その後、東大に進まれて数学を学ばれましたが、社会が混乱している中で数学にいそしんでいて良いのかと思い悩み、経済学に転身されました。そのため東大を辞められたのですが、一高時代の先輩に経済学者を紹介され、独学で経済学の学びを深めていきました。

 やがてこうした中で書いた論文が、アメリカの経済学者ケネス・アローの目に留まり、彼の招請でスタンフォード大学経済学部の研究生に招かれて渡米しました。

 宇沢先生が専攻したのはケインズ経済学を中心とした近代経済学でしたが、スタンフォードではマルクス経済学者のポール・バランなどとも親交を深め、ケインズ経済学とマルクス経済学の問題意識の統合を目指すような研究を重ねられていました。

 とくにロシア革命後の1920年代からヨーロッパを中心に巻き起こった「社会主義計画経済論争」と呼ばれる領域で優れた成果を重ねられ、「二部門経済の成長理論」という高い評価を得た論文を書かれました。宇沢先生自身はこれを「マルクスの『資本論』の資本蓄積に関する理論を数学的にまとめたもの」と語られています。これを延長したものは「最適成長理論」と呼ばれました。

 

 しかし当時のアメリカはソ連がキューバに持ち込んだ核ミサイルをめぐって極度の緊張状態にありました。こうした中でポール・バランがキューバのゲバラを高く評価したことから大学が蜂の巣をつついた状態になり、保守派の卒業生などからバラン解任要求が強まりました。

 宇沢先生はアロー教授とともにバラン擁護の論陣をはり、教授会も擁護にまわって解任をはねつけることができましたが、このころから宇沢先生のまわりにFBIとおぼしき人物の陰がちらつくようになり、先生についていた大学院生が突然、家宅捜査を受け、トイレのタンクに麻薬を隠し持っていたという容疑で逮捕されてしまうという事態まで起こりました。

 もともと大学のある地域が保守的だったこともあって、宇沢先生は次第にいづらくなり、悩んだ末にシカゴ大学に移ることにしました。同大学からの招請を受けてのことでしたが、このときケネス・アロー教授は先生がスタンフォード大学を去ることを大変、嘆かれたそうです。

 

 シカゴ大学でも宇沢先生はそれまでの研究を続けましたが、ここで出会うことになったのがミルトン・フリードマンという経済学者でした。フリードマンは、いま世界を席巻している新自由主義を唱え、それを南米から世界に広げた人物です。

 フリードマンが唱えたのは、あらゆるものを市場の取引、自由競争に任せよということでした。そのために市場への規制をなくせと唱え続けました。また社会のセーフティーネットや公共サービスも競争を阻害するものだと批判を続け、削減を主張しました。

 宇沢先生はフリードマンの考え方では世界が野蛮な競争社会となり、格差が広がり、社会的節度がますます失われて腐敗してしまうと考え、やがて彼と激しく対立していくことになりました。

 

 宇沢先生はその後、ベトナム戦争下のアメリカと訣別する道を歩まれました。アメリカの経済学者がベトナム戦争に加担したことも理由でした。経済学理論をもって、爆弾を何キロ落とすとベトコンを何人殺せて、どれくらい有利になるなどを計算することが、功利主義の考え方を用いてなされたりしたからです。宇沢先生はベトナム戦争に加担するのは嫌だということで、日本に帰ってこられたのでした。

 その過程で大きな事件がありました。当時アメリカ政府は、徴兵制をとっていましたが、戦争反対の声が強く、徴兵への抵抗が強まっていました。こうした中でアメリカは大学生のうちで反戦活動をしている者や成績の悪い者から徴兵しようとしたのでした。

 シカゴ大学の学生たちがこのアメリカ政府の意図を挫こうと、全米に先駆けて大学の本部棟を占拠し、立て篭りました。成績を出させないためでした。

 

 宇沢先生はこの大きな事件の仲裁に乗り出しました。大学は政府の命令があるので成績を出さないわけにはいかない。これに対して教授陣が成績をつけないことにしたのでした。大学は成績表を政府に出すけれども、そこには成績がついていないのです。

 教授会を説得し、占拠している学生たちに「これでいいだろうか」と問い、大学当局にも「この約束を守れ」とプッシュする事で、事態は平和裏に妥結を迎えました。

 この時の大きな会合で、宇沢先生が壇上に登って興奮しながら発言し、おりて来た時に、フリードマンの子分が待ち構えていてAre you a communist?と聞いたのでした。宇沢先生はつい挑発にのってしまってYes, I am a communist.と言ってしまいました。それは当時のアメリカでは実に危険なことでした。

 この他にもフリードマンを支持する学生たちが、本部を占拠している学生たちをこん棒をもって襲うなど、大学は騒然としていました。

 

 その後、宇沢先生は前からの約束があって1年間だけロンドンに移り、ケンブリッジに行かれたのですが、1年たってシカゴに戻ると状況がより悪化していました。とくに学生たちによる本部棟占拠を宇沢先生とともに調停した3人の助教授たちが、通例なら必ずされるはずの再契約を拒まれ、大学を去って行方不明になっていました。宇沢先生はいよいよ危険を感じ、日本に戻ることを決断されました。1968年のことでした。 

 日本に戻った宇沢先生は東京大学の経済学部に迎えられましたが、その頃、東大もまたベトナム戦争に反対する学生によって占拠されていました。

 宇沢先生はさっそく占拠している学生たちと語らったり、日本の大学の保守的なあり方の抜本的改革を志していた丸山真男氏の改革フォーラムに参加されたりしました。

 しかし宇沢先生にとってより深刻に感じられたのは、高度経済成長のもとでたくさんの公害が起こっていたことでした。宇沢先生は、アメリカにいたときは日本については高度経済成長の指標をみるばかりで、豊かな発展が実現されていると喜ばれていたのだそうです。

 ところがその背後でたくさんの公害が生まれ、たくさんの人々が犠牲になっていました。宇沢先生はすぐに全国の公害の現場を歩き出されました。とくに宇沢先生が衝撃を受けられたのは水俣でした。美しい水俣の海が水銀によって汚染され、住民が水銀におかされて塗炭の苦しみの中にいる事を目の当たりにしたとき、宇沢先生は「これは自分たち、経済学者の責任だ」と痛いほど感じられたといいます。

 何より、公害から海や自然を守る理論が近代経済学の中に存在していない。やがてその大きな欠陥を、苦悶しながら、自己批判的に超える事を、先生は志向されていきます。そしてそれまであたためてきた「社会的共通資本」という概念に辿りつかれていったのです。

 その水俣に先生のお供をして訪れた事があります。宇沢先生はこうおっしゃられました。「守田君、水俣はね、僕たち社会的共通資本について学ぶものにとって聖地なんだね」と。

 あるいは宇沢先生が初めて水俣を訪れたとき、当時、熊本大学におられて、水俣病患者さんの家々に先生を案内された原田正純さんにもこの時の話をうかがうことができたのですが、宇沢先生は患者さんの家の玄関で、肩をすぼめ、身体を小さくするようにしてたたずみ、目に涙を浮かべておられたそうです。

 原田先生は「東大にこんなに優しい先生がいるのかとビックリしましたね」と僕に教えてくださいました。

 さて、その後も宇沢先生は、市場原理主義は社会的共通資本を金儲けの対象にしてしまう一番いけないものだと終世訴え続けられました。とくに医療や教育、金融、司法、行政などを自由競争という名の金儲けに利用させてはいけないと叫ばれ続け、とくに最晩年は「社会的共通資本としての医療」を守ることに一番の力を費やされました。

 しかしアメリカはミルトン・フリードマンの考え方ばかりに傾斜していきました。しかも彼の唱えた市場原理主義は世界に輸出され、各国で貧富の格差を極端に広げています。その考え方は日本の中にも大きく入り込み、さまざまな社会的ゆがみを作り出してきています。

 終世、市場原理主義の前に立ちふさがって、人々を守り続けた宇沢先生も、2年前、2014年秋にお亡くなりになられてしまいました。とても淋しいですが、僕は最晩年の弟子として、今こそ先生の遺志を引き継ぎ、市場原理主義の暴走と全面的に対決せねばと思っています。

続く

 

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