明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(730)被ばくしてもやれることはある!・・・被爆者を守った食生活の知恵に学ぼう!

2013年08月24日 22時00分00秒 | 明日に向けて(701)~(800)

守田です。(20130824 22:00)

岐阜県郡上市の石徹白(いとしろ)という集落に来ています。小水力発電の視察旅行です。たくさんのことを見学させていただきました。
すでに現場から僕のFacebookのページに次々と記事をあげましたので、可能な方はご覧ください。
https://www.facebook.com/toshiya.morita.90

ここにも記事を書きたいところですが、今宵は昨夜、発信した子どもの甲状腺がんについての記事に次ぐものを優先したいと思います。被曝して、それでどうするかです。
タイトルに書いたように、被ばくしてもやれることはたくさんあります。さまざまな角度から命を守る闘いを作り出せるということです。中でも大事なのは、病にならない食事のすすめです。
この点でみなさんにぜひご紹介したいと思う文章に出会いました。8月2日に参加した京都被爆2世・3世の会の集会ののちに、会員の方から教わったものです。

この方は被爆者の夫を、主に食事の改善によって守り抜き、被爆後67年間の生きることを可能にされました。そのエッセンスを書いて下さっているのですが、何が大事なのかがコンパクトに書かれています。
読んでいてとても感動しました。こうした実践がすでに積み上げられてきているのです。あらためて、「こうすれば被ばくに対抗できる」との思いを強くしました。もっと被爆者の方たちの知恵に学びたいとも。
今宵はこの素晴らしい体験談をぜひみなさんとシェアしたいと思い、記事をしたためました。どうかできるだけ多くの方にお伝えください。とくに被ばくの影響に心身ともに苦しんでいる方に読んでいただきたいです。

被爆者を守った食生活の知恵に学びましょう!

*****

原爆被爆者の夫を67年間白血病にさせなかった食生活
雨宮正子

ヒロシマで原爆被害を受けた夫

1950年に結婚したころ毎朝髪の毛の抜けている夫に疑問を感じていました。
その後、高熱をよく出してどういしていいのかわからない毎日でした。
今のように民医連もなく開業医を訪ねても理由はわかりませんでした。
いただいた解熱剤でもショックし救急車で3度も運ばれました。
不安の続く中にあって3年後、ラジオで「佐倉連隊の宮崎隊長が白血病で死亡した」との放送がありました。このとき夫が
「俺の部隊の隊長だ」
といいました。この時初めて夫が広島で被爆したことを知らされたのです。
夫は広島で原爆投下を目前にした。
夫の話によると1945年6月19歳で招集され千葉県の佐倉連隊に入り1か月後、広島に派遣された。
佐倉連隊3300人は本土決戦に備え米子と広島に派遣され夫は広島にむかった。
広島の奥で本土決戦に備え穴を掘り火炎瓶と爆雷をかかえての訓練をした。
8月6日の朝、空襲警報の中、佐倉東部64連隊は貨物に便乗し広島市に向かった。
その目前で原爆投下を目の当たりにした。
青い黄色い煙、生暖かい光線、きのこ雲
隊長の説明で「広島市に新型爆弾が投下され市民13万人が死亡している。この遺体収容をするように」とのことだった。
夫は8月6日より10日間遺体収容をした。
焦土の上では履いていた靴もボロボロになり裸足で遺体収容をした。
と聞かされ、体内被曝も重傷だったのだと知らされました。
夫の被爆体験を聞かされたときは、子どもは3歳と1歳でした。私は夫が白血病になったらどおしようと不安でした。
理由のわからない高熱に夫は扁桃腺が腫れているからだといい、手術をしましたが治りませんでした。

体質改善の食生活を

医学書をみても原爆による治療のことはわからない、でも人間の細胞は60兆個もある、傷ついた細胞の修復には食生活で改善できることを見つけ出しました。
「傷んだ細胞も修復できる、10年はかかるけれども全部修復できる」の記述に食生活で夫の体を治していこうよ、と思い立ち調理の勉強を始めました。
東京の女学院の調理師科に入学し3年間、日本料理、西洋料理、中国料理の勉強をしました。
また栄養大学も聴講し食の科学も学習しました。ここで分かったことは食べ物にある体への影響、特に優れた唾液は発がん物質も死滅させるということです。
優れた唾液を作るには食の科学を正しくつかみ調理し食事を提供するということでした。

白血病にさせない食事作りを

1960年代のことを振り返ると、それは手探りのようでした。日本の高度成長期なのでラーメンが大量に出回り、加工食品が続々と生産され日本の食生活が大きく変貌する時でした。こうした中で外食がどんどん広がっていた時です。
免疫力をあげ細胞を回復させるにはまず酵素が求められるのです。
夫の好物は唐揚げなど揚げ物や加工品が何よりでした。
これらを消化させるためには大量の酵素が必要です。また酵素は過熱に弱いため免疫力を高める酵素はこわれてしまいます。毒素を排出し免疫力を高める食のために私は素材からの手作りに徹したのです。
農薬はいけない、食品添加物もいけない、加工食品もいけない、これらはすべて免疫力を壊すのです。ですからお味噌も自分で作りました。
いまは冷凍加工食品が大量に出回っていて簡単料理が山と出回っていますが40年もまえの時代に大豆をゆで、すり鉢でつぶし麹と塩を混ぜて寝かして作りました。
梅干しも糠みそも全部手作りです。こんな話をするとびっくりされるかもしれませんが私の糠みそは50年もかき回しています。
味噌や糠漬けは微生物により酵素が多く含まれていて夫の体に入り込んだ放射性物質の解毒になるのです。
糠みそは酵素が働きビタミンもつけた野菜についているので漬物としては最高です。
これらの材料を使って夫の食事やお弁当を40年間、作りました。
体内被曝で体内に残る放射性物質をとりのぞかないでいると活性酸素が生じこれが癌化していくと聞きましたので、白血病も血液の癌じゃないか、それなら血液をきれいにする食事を作ることが何より大切だと思いました。
ですから白血病にさせない食事は癌にかからない食事と同じと考えて食事作りをしました。

具体的には

米も野菜も卵もその他の食材も無農薬を進めているところから入れました。
素材からの手作りなので時には午前3時から煮込んだ日もありました。
だしからこだわって作るので夫はいつも「お母さんの作るものはおいしい」と言ってくれました。
季節の野菜、季節の果物、そして手作り、
「まごはやさしいこ」の食事です。この「まごはやさしいこ」の言葉を非行が問題になっている子どもの食事の講演を聞いとき、非行に走る子も脳の病気なんだ、だから「まごはやさしいこ」という食事をすることで脳の健康を守ることができるのだと思いました。

ま=豆 ご=ごま わ=わかめ・海草 や=野菜 さ=魚 し=しいたけ、きのこ い=芋 こ=米

これは日本の伝統的な食事です。これらの材料で日本の食文化を提供することで夫は被爆後67年、元気で生きてくれました。
今年の5月に87歳で亡くなりました。肺炎でした。救急車で運ばれて以来、私の調理した食事ができなくなり弱っていきました。
毎日、髪をとかす度にたくさん髪が抜けました。医者に「被爆者です」といっても「ああそうですか」という返事のみでした。
食こそいのちというけれど、全くその通りだと思いました。いま福島原発の影響でセシューム牛肉が学校給食に出されこれを抗議に行ったとき何の反応もない自治体の長の態度に激しい怒りを覚えました。
食べてしまったからしょうがないではなくデトックスをして下さいと心からいってきましたが、どうなったかまだ分かりません。食べてしまったからおしまいではなく私が夫にしたように、食生活改善で体の中に取り込んだ汚染をなくす食を進めさせたいと思います。

「学校給食通信 No.73 2012年12月30日発行より

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