明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(934)満蒙開拓平和記念館(伊那谷)のこと(1)

2014年09月18日 23時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20140918 23:30) (20140920 19:00改訂)

9月14日、15日と長野県の大鹿村を訪ね、「お山の上でどんじゃらホイ!」に参加してきました。
14日夜にTiPiの中で主に平和問題についてお話し、15日午前中に「この困難な時代を生きるには」というタイトルでお話しました。

信州伊那谷でのお祭りに招かれるのは今回が3回目です。大鹿村に住んでおられ、お祭りを毎回主催してくださっている田村寿満子さんに声をかけていただきました。
といっても前2回は「ちいさないのちの祭り」の名のもと、上伊那にある伊那市の千代田湖畔で行われました。
かなり素敵なお祭りだったのですが、「いのちの祭り」は長い積み重ねの中で愛されてきたお祭りであるため、この名を使うと全国から参加者が駆けつけてくる。
とてもありがたいのだけれども、スタッフが対応に追われてゆっくり企画を見聞きすることができないということで、今回はタイトルを変え、ネットでの告知も行わず、近場の人と一緒に楽しむことが目指されたのだそうです。
そのため場所も大鹿村の鳥が池キャンプ場が選ばれたのですが、おかげで僕も大鹿村をゆっくりと訪れることができ、村の素晴らしさの一端を味わってくることができました。同時に3年間、訪問を重ねることで、この地域の多くのことが見えてもきました。

第一にはかつて登山者として夏に冬に駆け抜けた南アルプスの麓の町の温かさと美しさに触れることができたこと。僕にとって大鹿村訪問は、厳冬期の赤石岳稜線上から仲間が滑落、大救助を行い、ヘリで病院に送った後に降りてきた時以来の訪問になりましたが、はじめてそこに住まう人々と村の中で交流ができました。
第二に大鹿村を含む伊那谷の深い歴史に触れることができたこと。この地が満蒙開拓団をもっとも輩出した地であり、国を信じて国策に従うことの中で、満州侵略のお先棒を担がされ、しかも大変な開墾の苦労の末に、戦争末期に悲惨な犠牲を出したことに触れられたことです。
第三に大鹿村を貫通せんとしているリニア新幹線計画の全容を知り、あまりにひどいこの計画に反対しなければという明確な意識を持てたことです。

今後、これらのそれぞれについて論を深めて行きたいと思いますが、今回は二番目にあげた満蒙開拓と伊那谷の関係について触れたいと思います。
満蒙開拓の問題に僕が触れたのは昨年夏の訪問時のことでした。
というのはこの年の春より友人一家が飯田市に引っ越したため、彼らを訪ね、お祭りにも一緒に参加したのですが、近現代史に詳しいこの友人が、伊那谷にこの年の春より「満蒙開拓平和記念館」が開設されたことを教えてくれ、案内をしてくれたのでした。HPを示しておきます。

満蒙開拓平和記念館
http://www.manmoukinenkan.com/

満蒙開拓とはどういう事業であったかご存知でしょうか。大日本帝国主義のもとに行われた現在の中国北部からモンゴルにかけて行われた植民化政策でした。日本がこの地域に成立させた「満州国」を、強引に既成事実化していくためのものでした。
満州国は建国の理念として「五族共和」=日本人、漢人、朝鮮人、満州人、蒙古人の共和をうたっていましたが、実際には日本軍最精強といわれていた関東軍の軍事力のもと、現地の人々から土地、家屋、田畑を安価で奪いとり、そこに日本からたくさんの人々を植民させて成立した国でした。
しかもその安価な代金すら支払われないことも度々で、植民者は現地の人々に暴虐な侵略の加担者とみなされ、初期にはゲリラ攻撃の対象ともされました。日本軍による抵抗の鎮圧のあとも長い間、恨みを買い続けていきました。

一方で日本国内では、昭和の大不況のもとで没落を深め、困窮を深めていた全国の農民の惨状を、とりあえず大陸に移してしまい、問題転嫁をはかる位置をも持っていました。移民する人々に軍事訓練も施すことで、ソ連軍への備えとすることも目指されました。
とくに対象となったのは土地相続がのぞめない農家の次男、三男以下の後継者たちでした。軍国主義日本政府は、これらの人々に「満蒙にいって開拓を行えば努力次第で大地主にもなれる」とバラ色の宣伝を行い、移民を奨励したのです。
応じた人々も、移民が日本が押し進める「満州国創設」という国家的課題を担うことであり、国策の担い手になりながら、自らも大地主になれるかもしれないと考え、「夢」を抱いてこの政策に積極的に参加していったのでした。

しかし「地元の人々から買い上げた土地と家屋」と言われたほとんどのものは実際には略奪物であり、現地の人々の怨嗟のまとになりながらの出発であったことや、極寒であるとともに大陸性気候で寒暖の差が激しく、降水量も少ない満州の地での営農に日本での経験が役に立たず、農業資材の補給も貧しかったことから、営農は困難を極めました。
それに追い打ちをかけたのが、1941年12月の太平洋戦争への日本軍の踏み込みの中での戦況の悪化でした。当初、南方の石油の確保を目指し、フィリピン等で植民地軍を破って進撃を続けた日本軍は1942年のミッドウエー海戦での惨敗などを転機に敗北を重ねるようになりました。
一時期は9割が中国大陸に展開していた日本陸軍の多くも南方に振り向けられ、関東軍の一部もフィリピン戦線や太平洋の島々へと送られていきました。

結局、日本軍はその後も戦況を好転させることができず、1944年秋からのフィリピン、レイテ島をめぐる米軍との戦闘で壊滅的な損害を出し、海軍は主力のほとんどを失ってしまいました。陸軍の消耗も激しく、軍隊と軍隊の戦いとしての「太平洋戦争」には事実上の決着がついたと言えました。
しかし大日本帝国政府は、休戦を模索し始めつつも自らの処遇の安泰を求め、民衆を戦火から守るための終戦には向かおうとはしませんでした。一方でアメリカも急ピッチで開発してきた原爆の実戦での投下のためにも、日本に降伏させない戦略をとり続け、こうした中で3月10日の東京大空襲を皮切りに、大規模都市空襲が全国80都市に対して繰り返し行われ、やがて沖縄戦、広島、長崎への原爆投下へと連なっていきました。米軍による日本住民の連続的虐殺でした。
こうした状況下で、当初は「徴兵の対象にならない」ことがうたわれていた満蒙開拓団からも成年男性の徴兵、徴用が進められ、開拓団にはお年寄りと女性、子どもたちだけが残されるようになっていきました。

そして悲劇の1945年8月が訪れます。この月、ソ連軍がヤルタ会談における英米との密約のもと日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、満州国への進撃をはじめました。このような事態があろうとも開拓民は関東軍によって守られると信じていましたが、現実には関東軍はソ連軍の南進を予測するとともに戦わないで撤退し、部隊を温存する方針を立てていました。
このため開拓民が異変に気が付いたときにはすでに関東軍は南下を終えており、しかも追撃されないように、鉄道や橋梁までをも破壊してしまっていました。お年寄りと女性と子どもばかりになっていた満蒙開拓団は、関東軍によって完全に見捨てられてしまったのでした。
ソ連軍はたちまち北から押し寄せましたが、開拓民に恨みを抱き続けてきた現地の人々も、関東軍の撤退を知って手製の武器をもって押し寄せ、開拓民に対する凄惨な虐殺が始まってしまいました。こうした惨劇を背景に、多くの人々が徒歩で南へ南へと逃げましたが、やがて冬が到来し、多くの人々が凍死したり餓死していきました。ソ連軍や地元の人々の襲撃で命を落としたり、生き延びることをあきらめての集団自殺した人々もいました。

この過程で多くの女性たちが子どもだけは死に至らしめたくないと考え、現地の中国人に託していったのでした。一方では開拓民を襲った現地の人々もいましたが、他方では逃げ惑う日本からの開拓民に同情し、子どもを預かり、わが子として育てた人々もたくさんいました。
こうした育った子どもたちは後年「中国残留孤児」と呼ばれ、1972年の日中国交回復後に開始された帰国事業の中で、帰還した人々もいました。小説『大地の子』などにも紹介された現代の日本史に刻み込まれた悲劇でした。
こうして終戦時に約27~32万人いたと推定された満蒙開拓団民のうち、日本まで帰りつけたのはわずか11万人でしかありませんでした。多くの人々が大陸で命を落としたのですが、これらの人々は帰国後もよるべき土地がなく、全国各地の開墾事業に送りこまれていったのでした。二重、三重の棄民政策でした。

このようの満蒙開拓団は大変な悲劇のうちに幕を下ろしていったのですが、実はこの開拓団に最も多くの人々を送りだしたのが当時、営農が疲弊しきっていた長野県であり、なかんずく伊那谷の人々だったのでした。
開拓団は満州国が成立した1932年より本格化され、27万人が送りこまれたのですが、長野県は県としては最大の33000人を送り出しました。しかもその四分の一8400人を占めたのが飯田・下伊那の人々でした。
これらの地域を飯伊地区と呼びますが、この地域の指導者層の中に満蒙開拓推進論者が多くいたこともあって、飯伊地区は全国の中でも最もたくさんの開拓団を派遣した地域となったのでした。

戦後、命からがら帰国した人々は、再度、飯田・下伊那を開墾していったのですが、この地域には同時に全国でもまれと言えるほどの高い向学心が育っていき、とくに歴史研究が進められ、郷土史などで深い発展が遂げられてきました。
記念館を案内してくれた友人によれば、この深い学びを下支えしたものこそ、「二度と国に騙されない」という強い心情であったということです。その反映としてこの伊那谷は「平成の大合併」を全国の中で最も受け入れない地域であったということです。
大鹿村も人口1100人の小さな村ですが合併に反対して村として生き残ってきた。僕はそこに満蒙開拓以来、この土地の上に重ねられてきた人々の思いを垣間見るような気がします。

その下伊那の地に、戦後68年も経ってから「満蒙開拓平和記念館」が建設された。しかも驚くべきことに、あれほどの悲劇でありながら、この問題で全国で初めての本格的な記念館・資料館の建設でした。
なぜ68年も記念館ができなかったのか。なぜに伊那でそれが進められたのか。あるいは進められたことをいかに捉えるのか。僕にはそこにこの地を理解し、歴史の重みを受け止める鍵があると思います。いやこの地からこの国の総体を見ることもできるように思えます。
そう考えて、今回、記念館のホームページを再度見返していて、さらに新たなことが見えてきました・・・。

続く 

コメント (4)
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