明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(162)低線量被曝とぶらぶら病2(肥田舜太郎医師の講演より)

2011年06月19日 19時30分00秒 | 明日に向けて6月1~30日
守田です。(20110619 19:30)

肥田先生のお話の続きを送ります。今回で完結です。
前回は、原爆が破裂した時のお話でした。広島上空に火の玉ができて、やがて
黒い雲が広がるように襲ってきた話が、リアルにされていましたが、この8時15分
という時間帯は、実は人々が出勤で動いたり、朝礼や体操で外に出るなど、
広島市民が一番外に出ていることが確実な時間なのでした。

アメリカ軍はこの時間帯を狙って、原爆を投下したのです。もちろん、原爆の
人への打撃力を確かめるためにです。このため、多くの人がもろに熱線と放射線
を浴びてしまった。これらの人々は、治療のほどこしようがなく、次々と亡くなって
いきました。

しかしその後、長い間、先生が向かい合ったのは、「原爆ぶらぶら病」など、今に
いたるもきちんと医学的に解明されたとはいえない、被ばく者たちの病、苦しみ
でした。低線量の内部被ばくの影響です。

以下、肥田先生のお話を続けてお読みください。

*************************

3 広島での医療活動とぶらぶら病
http://www.youtube.com/watch?v=vX11MKzs7Ug&feature=related

私は小学校に行きました。道路と小学校の境がなくて、かなり大きな運動場の
向こうに崩れ落ちた校舎がある。そこに立ってみると、大きな校庭で一目見て
5000人ぐらいいる人間が、全部、横になって倒れている。たまに座っている人が
何人かいました。

それで見ていると、頭が動いたり、手が動いたりしている。これは生きているいる
人です。まったく動かなくなった人も見える。その中へ、頭の中で、俺は医者だと
思っている人間が、聴診器もなくなって、素手で何もなしでそこで突っ立っている。
どうしていいか分からない。

そうしたらたまたまよその分院にいた軍医が、僕を含めて4人集まった。「どうする
よ」「どうしようもないよ、これは」。でも広島中走り回ったって病院もなければ薬も
ない。ここでどうにかしようということになった。

それでさすがに村長などがいるのですよ。集まっているのだけれど、どうしようも
ない。考えがつかない。ゴーっと言う音がして、何が広島に起こったか分からない。
キノコ雲をみてませんからね。大きな風が吹いて、ゴーっといったら、村の家が壊れ
だした。村の人は家が心配だからそこで何かをやっていた。

村の幹部だから、何軒の家が潰れたとか、人が死んだとか聞くし、何かをしなけ
ればならないのだけれど、何をしていいいか分からなくてうろうろしてちょうど私が
帰ってきたので、「何とかしてつかあさい」と言う。私もどうしていいか分からないの
ですが「今、私は広島のそばまで行ったけれども、今からこの村に何万人か逃げて
来るよ。あんたがたは嫌でも面倒をみなくてはならない。こんなところでおどおどし
てないで、村の人を集めて迎える準備をしろ」と言いました。

それから私が動かなくなった人のそばにいって確かめて、この人ダメと指示を出す
と、村の人がついてきて担ぎ出すという仕事から始まった。これは残酷な仕事です
よ。そばに寝ているひとはね、軍医が来たと言うのが分かるから、とにかく痛みを
とってくれとか、治療をしてほしいとか思ってみんな私を見る。本人は起き上がって
これないからね、寝たままに睨みつけるわけです。それを目をそらしながら、向こう
にいる動かなくなったところにいって、脈をとったり聴診器をあてたりして、辛い思い
をしました。

こんな話だけをしていると終わってしまいますが、そういう状態が続いて3日目の朝
に、四国や九州の軍隊から、軍医さんがおそらく全部の人数で200人ぐらい、看護
婦をたくさん連れて、薬を持ってきました。私の村も患者が集まっていますから、
そこへ27人の若い軍医さんが来てくれた。ところがこの連中は、僕と同い年が僕
より若い人たちであまり臨床経験のない人たちだった。

連れてきた看護婦は100人ぐらいでしたから、それが村に散って、症状の重い人を
見つけては、大きな声で軍医を呼ぶのですね。「軍医どの熱が出てます」と言って
持ってきた体温計で測ると39度とか40度とか出ている。こんな熱は、広島では
チフスかマラリアしかみたことがない。

広島はチフスの有名な伝染地なのです。生ガキをだべるので。あれで伝染するの
です。なのでチフスと聞くとぞっとするのです。ここにもしチフスが感染すると全滅
ですから。だから新しく来た人に飛んでいって欲しいのですが、この人たちはチフス
をしらないから、結局、僕が飛んでいくのです。それでチフスじゃと思ってみますと、
チフスではなさそうなのだけれども、症状が、まったくみたことのないものなのです。

熱が出ている。普通のときには絶対に出血することのない瞼から血がだらだら、
だらだら垂れる。顔をやけどしているのですよ。でも目の中はやけどをしている
はずがないし、見てもやけどをしていないのに、目の粘膜から血が出る。鼻から出る、
口から出る。熱を出した患者が出血をして寝ているわけです。

熱が出ているなら扁桃腺が腫れているだろうと、口の中を見ます。指を入れてあけ
させて覗き込んで見る。普通口の中は、桃色か赤い色ですね。ところがその人は
真っ黒で、口の中の粘膜が腐っているのです。扁桃腺も真っ黒になっている。第一、
顔を向けてじっとしていられないぐらい臭いのです。腐敗していますから。そんな
症状は今まで見たことが無い。

それでああだこうだやっているうちに、やけどをしていないきれいな肌が残っていま
す。そこに紫色の斑点が出て来る。これは臨床経験の深い医者だと心臓の病気で、
死ぬときにあらわれることが分かります。他の病気ではどんなに重症になってもこ
れは出ないですね。心臓の重症の病気では死ぬ前に必ず出るんです。死斑という。

これを見たことがある医者はそうないないのですね。知っている医者が見れば分か
るけれど、知らない医者が見れば、何のことか分からない。そんな風に変わった症状
で死んでいく。最後に頭の毛が抜ける。


みなさんも抜け毛の経験はあるでしょうが、手で触ったら、触ったところが全部抜け
てしまう経験はないと思います。大勢の人が手で頭をなでるとそのまま毛が抜けて
しまう。あと1時間も生きてないだろうという重症の女の人が、息を振り絞るような
声を出して「私の毛が」と泣きだすのですよ。僕は女の人にとって、死ぬ間際まで、
自分の毛が無くなることがあんなに悲しいことだということを、始めて知りました。

つまり普段僕らが見たことが無い、出血と、脱毛と、高熱と、死斑と、口の中が腐る
と、そういう症状が5つ揃うと、死んでしまう。こんなことは生まれてから見たこと
がない。教科書にも載っていない。初めてあそこで経験したことなのです。原因も
もちろん分からない。2,3日して原子爆弾ということは聞きました。しかし原爆が
どのようなものか分からない。そういうことで当日から、原因が分かるまで、30年
間かかった。


東京へ帰って、東京に来た被ばく者を診て、埼玉にいって、関東平野からお金が
あってこれるような人は、みんないっぺんは僕のところへ来るのです。あそこに
行けば、話をしてくれると。よそへいっても何も分からないからそんなことは関係
ない。今、お前は血圧が高いからそれを診るというような話になってしまう。

原爆の時から、広島の時から話を聞いてくれて、分かるように説明してくれるお医者
さんがいるということで、長野や新潟、群馬、宇都宮、千葉、神奈川、東京から毎日、
毎日、一杯来ました。その説明だけで嫌になっちゃってね。そんな仕事をしてきた
のです。

最初にこの病気が何かということを教えてくれたのは、アメリカで世界的に有名な
スタングラスというピッツバークという町の大学の放射線科の医者でした。これは、
ちょうど1950年頃から、核実験をうんと始めたのです。核実験で放射性物質があがり、
これが雨に含まれると黒い雨になるのですね。それでみんな逃げる。当たると病気に
なる。広島の経験上、それは知られていた。ところが雨の粒にならない埃だけの
放射能は目に見えない。それを吸い込んで病気が起こる。埃を吸ったと言うのは
誰も気がつかない。

アメリカの兵隊が核実験で爆発させると、・・・アメリカの国は本当に残虐な国だと
思うのだけれど、自分の大事な兵隊を試験場の周りに塹壕を掘ってその中に待た
しておく。そして爆発して大きな火の玉が出来て、大変な状態がおこって、しばらく
すると降ってくるじゃないですか。

周りで見ている人間には、放射線はすぐにやってくる。何もないのでね。あとは上
から黒い雨は降らないで、埃だけが落ちて来る。その事態になると、今度の爆弾は、
爆発後、戦場で何分後に影響を受けるか、あるいは突撃ができるかということを、
生身の人間を使って実験したのです。

それに使われた兵隊こそ、本当に迷惑ですよね。目をつぶっていろ、後ろを向いて
いろ、鼻をつまんで息を止めていろ。それでOKと言ったら目をあけてよろしいと。
それで演習場の放射能の中へ突撃したりした。みんな被ばくですよね。


4 医者がわからない「ぶらぶら病」
http://www.youtube.com/watch?v=G5qq4CJxBRc&NR=1

広島・長崎の被ばく者が、同じように、直撃を受けないで、後に出たものを吸いこん
で出てきた病気が、ぶらぶら病という病気なのです。ぶらぶら病という名まえは
医者がつけた名前ではない。これは家族がつけた名まえなのです。見たところ、
何でもない。

「とうちゃん、働いてよ」。それじゃあというので、つるはしをふるい出したら、
30分ともたない。「俺はもうとてもかったるくて、生きてられない。先に帰るからな」
と先に帰って、座敷に寝てしまっている。そういうことが続くから、家族や本家の
ものが、あいつは広島にいって怠け者になって帰ったんだ、医者に診せろということ
で、診るけれども病気らしい兆候は何もない。本人がかったるくて動けないという
だけなのです。

それで怠け病というのは具合が悪いから、ぶらぶらしているからぶらぶら病という
ことになって、これが広島・長崎を中心にますます広がって、僕らにも聞こえてくる
のです。

僕の場合、一番驚いたのは、だるいというのは自分も経験があるから、その点の
だるさは分かるわけです。ところが初めてきた患者が、受付では黙ってしまって
言わないのです。被ばく者は差別されていますから。ところが僕の前にくると
「広島におられた肥田先生ですか」と聞くのです。「そうだ」というと、安心して、
「私も広島にいた被ばく者です」と、初めて言うのですよ。

初めて来た患者が、どうしてきたのと聞くと、かったるくて動けないというのです。
それでどんな医者に診てもらったのとか聞いているうちに、この男が先生ごめんな
さいといって、私の机の上で頬杖を突きだした。失礼ですよね。えっと思っていたら、
椅子から床へ降りてあぐらをかく。

ごめんなさい。椅子に座っていられませんといって、そのうち横になってしまう。こう
いう形でしか私は起きていられないのですというのです。「そんなにだるいの」という
と「そうなんです」という。それで初めて僕はぶらぶら病の患者のだるさという程度が
分かったね。初めてこれはただことではないと思いました。

広島にいたときも、戸坂(へさか)村の避難所がやがて閉鎖になりました。学校も
始まるし。それがちょうど12月の半ばだった。村の人は悪いけれど、病院のお医者
さんと患者さんでどこかへ行ってくれというのです。どこかへ行ってくれといっても、
広島の中は何にもない。結局はマッカーサー司令部に連絡をして、行くところがなくて
困っている。どこでもいいからこれだけの人数が入れて、病院の仕事ができるところ
を手配してくれと。

それで初めて山口県の柳井という市の郊外にある古い軍隊の建物をもらって、私
たちは100人を連れて行った。とことが山口県に逃げていた被ばく者が何万人もいて、
国立病院ができたっていうんで皆くるわけだ。たちまち満員になってしまってね。
医者がたった6人か7人のところに3000人から4000人が来て、まだできていませんと
いったって、勝手に布団を持ってきて、横になっちゃう。暖房がないから、そこら辺の
農家から七輪をもらってきて、そこら辺の古材をもってきちゃ、病室の中でたき火を
している。ボウボウ火の出るね。

そういうところで僕が仕事をしていたら、ぶらぶら病が入院してきて、そのまま寝た
きりになってしまう。すると朝から晩まで看護婦がいかなけりゃならない。人手は
取られるし治療法は分からないし、それで翌朝になって、看護婦が行ってみたら、
死んでましたということになる。そういうのを何例も診て、一体何の病気なのか
ということが30年間、私の頭の中にあった。


東京に出てきてから、東大の先生とか、大学の教授に患者を送ったりして教えて欲し
いと言っても、まともな返事をくれた人は一人もいない。本当なら、こういう病気は
私は診たことがない。申し訳ないけれど私には分かりませんというのが、一番、正直
なのですね。そう書いて欲しかった。

ところが自分の経験ではこれは病気ではないということが帰ってくる。こんな乱暴な
話がありますか。自分の知らない病気はこの世の中には一つもない。あるいは全部
俺は知っているというのが大学教授なのですよ。

もう腹が立ってね。お前は人間なのかと思いましたよ。実際に苦しい人間を紹介状を
つけて、お金もかかって、ムリムリで家族が病院まで連れていくわけじゃない。それで
何時間も診てもらって、やっとこさ診てもらったら、病気じゃありませんなんて、
とんでもない話です。だから私は偉い先生は、ぜんぜん信用しないのです。

そういう人間が何人もいるわけだ。僕はその先生からもらった、病気じゃありません
という診断書をとってありますよ。生きていたら持っていって、お前、こんなことを
言ったのだぞと言ってやりたい。まあ、生きている人は一人もいませんけれども。
今生きていたら100歳以上ですので。

まあそういうわけで、アメリカに行って、なぜアメリカに行ったのかというと、国連
に訴えに行こうということになって、昭和50年、1975年に日本の国民代表団が、
アメリカとソ連、あるいはよその国の、核実験をやめて欲しいと、その署名を集めて
国連に行ったのです。世界中の医者を集めて、日本でシンポジウムを開いて、日本の
医者にどうしたらいいか教えてくれという要請状を持って、私が日本の医者の代表と
なって行ったわけだ。

最後に話を聞いた国連の事務総長が、日本の代表団の要求はよく分かった、すぐに
国連の会議にかけたい。しかし残念ながら、ドクター肥田の出されたシンポジウムの
要求は受け取るわけにはいかないと断られた。

びっくりして理由はと聞いたら、私が行ったのが1975年、その7年前にアメリカ政府
と日本政府が、合同で、広島・長崎の医学的影響についてというものを、23年目に
初めて出した。

これは全部、アメリカのABCC(広島原爆傷害調査委員会)が作った資料だった。
広島でアメリカが来て治療をするらしいということで、みんなおしかけるじゃない。
中には大八車に乗っていった人もいる。そうしたらどこで被ばくしたと聞かれて、
では爆心地から2.5キロだとかいう話を聞いて、直接頭から浴びた人は中に入れる
わけです。

遠くの方で、翌日入りましたとか、午後に市内に入ったとか聞くと、ここはそういう
方たちは扱わないのですということで帰されてしまう。だから彼らは内部被ばくの
問題はぜんぜん診てないのです。だから遺伝の問題にしろ何にしろ、何にも報告書
を出していない。

アメリカが世界に発表するものは、全部、このアメリカのABCCがやった実験の
データばかりなのです。世界中の人が、これが原爆の被害だと思っているのは、
ほとんど頭から直接浴びた人たち。僕らから言わせるとほとんど即死した人たちの
症状なのです。

それをもってこれが世界の人が初めて受けた核兵器の被害なのですということに
なっているので、どこの国の医師会も医学界もそれを金科玉条にして勉強している。
日本の医者の報告はぜんぜん向こうに渡らない。だから私が向こうにいって、何人
かの医者と話をすると、みんなびっくりするのです。どうしてお前のところの政府
は、そういうことをやらないのか。

占領されている間はそういうことができなかったし、今、安保条約で日本の政府は
何一つ自由にできないんだ。特に核に関することは全部アメリカのご承知をいただく
という仕組みになっていると話をするとびっくりするね、みんな。

それを私は、国の数にすると17ぐらい。同じ国で何度も行っているところもあります
から、ドイツとフランスと英国と、この国はだいぶ、政府のところまで私の話が
通っているし、私が入っている映画とかそういうものが世界中に回っていますから。
そういう点では、うるさいとは思いましたけど外国のテレビが来て、インタビュー
して私の話をビデオにして持って帰って、一番世界で信用のある英国のBBCと
いう放送局が作った私の番組が何カ国語にも訳されて、世界中で上映して歩いて
いるね。


今、言っているのは「当面は心配ない」ということですね。ウソじゃない。確かに
当面は心配はない。だけど本当は何十年先のことは分かりませんよと言わなくては
いけないのだけれど、そこを言うとみんな分かってしまうから、言わなくてね。

だから後、一か月もたつと、この辺もかなり放射線が、普通よりは高まります。今、
100ミリシーベルトとか、1000ミリシーベルトとか言ってますね。1ミリシーベルト
なんてのは、なめたっていいんだと言うような感覚ですよね。僕らから言わせると
1ミリシーベルトがみなさんの幸不幸の分かれ目になるのです。

以上

*****************

次回は、低線量被曝がどのような影響を人体にもたらすのか、肥田先生が解明され
てきた内容をご紹介します。

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明日に向けて(161)低線量被曝とぶらぶら病1(肥田舜太郎医師の講演より)

2011年06月19日 10時30分00秒 | 明日に向けて6月1~30日
守田です。(20110619 10:30)

311以降、福島第一原発で起こっていることをウォッチし、隠された危機をできる
だけ多くの人に伝えようと活動してきましたが、その中で、現在起こっている事故の
実相が隠されているだけでなく、放射線被曝の恐ろしさもまた隠されていること、
とくに内部被曝が非常に過小評価されていることを、今更ながら、実感を持って
認識するようになりました。

それで僕は、政府による「放射能は怖くないキャンペーン」との対決を、志すように
なりましたが、このキャンペーンの出所を探っているうちに、それが放射線影響
研究所などによって流布されていることが見えてきました。それでこの研究所の
ことを調べていくと、それがアメリカ軍の、原爆傷害調査委員会(ABCC)を
前身とする組織であり、結局この問題の背後には、アメリカによる核兵器戦略の
推進、そのための非人道性の隠ぺいという政策が色濃く横たわっていること、
それに日本政府が協力してきたことが見えてきました。

その頃、天の引き合わせと言うべきか、僕は次々と、被曝二世、三世の方たちと
お会いするようになりました。その中には、お父さんが、原爆投下後の入市被ばく
=内部被ばくによって、その後に発病されて亡くなった方々もいました。
また胎内被ばくをされた方、自らが、僕のブログに、「原爆ぶらぶら病」という
ご自身が患わってきた病の苦しさ、恐ろしさを投稿しても下さいました。

僕にはそうした連続の中で、無念の内に亡くなられた被ばく者の方々からの
メッセージが届けられているように感じました。「私たちのこの悲しい体験を、
明日に向けてつないで欲しい」というメッセージです。

その中で僕は、この問題を研究して来られた方を探し、今も福島にも赴いて
内部被ばくの恐ろしさを説いている矢ヶ崎克馬先生の本に出会い、さらに自ら被爆
医師として、被ばく者6000名を診察され、まさに第一人者として内部被ばく問題を
研究・追及して来られた肥田舜太郎先生の書物と出会って、深い感銘を受けました。

これらから、僕の探究の方向性が間違ってはいないという確信を得ると同時に、
戦後65年以上もたって、このことがこの国に住まう私たちの常識となってはいない
こと、その上に、常に被ばく労働の上にたち、放射線被ばくを必然化させてきた
原子力発電の容認があったことを、痛感するようになりました。

このため、今後、この紙面などを通じながら、僕はこの問題をより深く探求し、
多くの方に伝えていきたいと思っています。ここに原発問題、あるいは被曝問題を
考える上での一つの核心があると思うからです。

そのための試みとして、今回は、2011年3月19日に行われた、肥田舜太郎先生の
講演を、動画からノートテークしたものをみなさんに紹介したいと思います。
長いので、2回にわけて掲載します。

ぜひお読みください。そして再度、広島・長崎原爆から、被ばくの問題を一緒に
考えていただけたらと思います。

****************************

被ばく医師・肥田舜太郎氏講演
「大人たちのつくった世界」―低線量被曝とぶらぶら病
2011年3月19日

当該ビデオに掲載された肥田舜太郎氏のプロフィール

1917年広島市生まれ。
1945年8月6日 原爆被爆。
直後から被曝者救援・治療にあたる。
2009年引退まで、被曝者の診察を続ける。
被爆医師として被爆の実態を世界各地で
語りつぐ。アメリカの低線量放射線被曝に
関する研究書等を翻訳、普及につとめ
内部被曝の脅威を訴え続ける。


1 ヒロシマ原爆体験
http://www.youtube.com/watch?v=SAM6U5C_viA&feature=related

肥田瞬太郎という広島で被ばくした医師です。

28歳の時に、現役の軍医として広島の陸軍病院に赴任しました。
ちょうど原爆の落ちる一年前の昭和19年8月でした。

もう軍隊の中で勝てると思っている者はひとりもいませんでした。
中国から帰ってくる兵士からの話でもそれは分かりました。
広島は不思議なことに、米軍機はくるのに不思議なことに一発も爆弾を起さない。
そんな状態でした。飛行機がきてもよそに落としていくというそんな状態でした。

8月6日に原爆が落とされました。
被ばく者の方は、原爆が落とされた時の惨状はお話されます。惨憺たる地獄に
ついてはお話になります。でもなぜ広島や長崎が選ばれたのかとか、その後、
被ばく者はどのような立場に置かれたのかについては、自分の知識しかなくて
全体的にお話ができる被ばく者の方はいません。

私は原爆にやられて死んで行く人を治療して、大変なことになったと思って
いましたが、本当にこれは人類にとって二度と許してはならないことだと思うように
なったのは、30年、40年経ってからでした。

本人が被ばくをしなかったのに、たまたま警察官をしていて動員されて、翌日、
広島に入って、火の中でいろいろと救援活動をやった。ところが警察官の仕事に
戻ったころから、身体の調子が悪くなって、お医者さんにかかっても、どこも悪くない
と言われているうちに、寝たきりになってしまって、どんな先生に罹っても、病気が
分からない。それで死んでいってしまった。

死亡診断書の書きようがない。お医者さんの方も原因が分からず、最後は心臓が
弱ったということで、急性心不全ということで、役場で扱ってもらっていました。
私は、半年ぐらいまでは、強引に原爆症という病名をつけました。しかし役場が、
この病気は国際的に登録されてないという。国の法律としてこれを受け取るわけに
いかないから、法律の中にある病名を書いてくれといいます。
間違いないといくら言ってもダメなのです。

直接、原爆を受けないで、翌日、三日後、一週間後ぐらいに市内に入って、
そして今の医学では分からない病気になって、失業するし、仕事にもつけないし
学校にもいけない、結婚もできないというような不幸を受けた被ばく者の人に
とくに私は意識的に対応してきました。

そういう意味で、アメリカの占領軍のもとでは、そうしたことを言っただけで
とっつかまります。私は三度つかまっています。それでも救援活動をしました。
その後に、1952年にサンフランシスコ条約で日本が独立をして、日本の総理大臣が
国を治めるようになりましたが、中味は安保条約があり、結局、日本人の総理大臣が
日本人のために政治を行うことは未だにできていません。大事な問題は、全部、
アメリカの承認を受けると言う状態が今でも続いています。

そのおかげで、広島・長崎の原爆について、どんなことでも全部アメリカの軍事機密
になってしまいまいた。ですからこれだけ時間がたって、原発でどうしようもない
ことになっているけれども、何をどうするかという問題について、自由にできない。
こと放射線に関する問題は、日本人は何の自由もない。

直後から、日本の医学会や医師会は、放射能に関することは言ってはいけない、
研究してはいけないことになっていました。日本の医者や学者は全部アメリカの言う
ことを、アメリカにいって学んできて、それが放射線問題だと思いこんでいます。

だから被ばく者の側から何を言っても、その人の病気があのときの放射線の影響だ
と言おうものなら、学校は首になる。そのため日本の先生方は、何も言いません
でした。自分の出世に差し支えますから。

私はそれで首になった人をたくさん知っています。みんな涙を飲んでくびになった。
広島であのときに一緒に被ばく者を観た同年輩の医師は、もうみんな死ぬか寝た
きりになって、日本全国でこんなところに出てきて話をする医師は、もう私一人に
なっていると思います。そういう意味で、今日は、みなさんにとって、二度と他の人
からは聞けないお話をしています。

頭の上で爆発して、地上の人間で即死した人は、公には広島では7万人ぐらいと
言われています。

私はその日の朝、午前2時ぐらいに、戸坂(へさか)村という、広島から真北へ
6キロ行った村から、孫娘の往診を頼まれました。おじいさんが一人留守番をして
孫娘がいて、お父さんは戦死していない。奥さんは病気で里に帰っている。
おばあさんは死んでいて、おじいさんが一人で6歳の孫娘を見ている農家でした。

そのおじいさんが昔から少し知っている人だったので、自転車で病院まで来て、
発作が起こっているから来てくれと言う。今なら救急車で病院に行くような症状です
けれども、当時は車がないし、救急体制もありません。ところがその時はお酒を
ずいぶん飲んでいて、自転車の後ろに乗っているとおっこちてしまうのです。
それでおじいちゃんが自転車の後ろに私を乗せて、私を自分の身体に縛りつけて、
自転車で運んでいきました。

そんな状態でも、何か治療をやったのですよ。そうしたら発作が治まった。それで
布団を敷いてもらって、夜明けに帰ろうと思って寝ていました。
翌日、寝坊しました。あの爆弾が爆発したのは8時15分なのです。私は7時に
起きて病院に行くつもりだったのですが、目を覚ましたのが8時だった。それで
軍装して、でがけにもう一度診察しようと、女の子に聴診器をあてました。

もし私がいなくなって、不安になると発作が起きますから、寝かしておこうと思って、
睡眠剤を注射器にとって注射しようとした。
ちょうどその頃に上空に飛行機が入ってきました。当時のアメリカのB29という
一番大きな爆撃機でした。日本の飛行機は1000メートルもあがれなかった
ので向こうは来放題でした。


2 1945年8月6日に見たもの
http://www.youtube.com/watch?v=Ck4h9AwyNxM&feature=related

広島での長崎でも被爆した人はみな目がくらんだといいますが、私もそのとき目が
くらみました。田舎の6キロも離れた農村の何にもない大空の下で目がくらんで、
目を開いてみても金色になってしまって何も見えない。それでおかしいなと思って、
早く注射しようと思って、またもう一回、注射器を構えました。でも何が起こった
のか気になる。それでまたみようとしました。

この話をできるのは、おそらくもう広島でも長崎でも僕一人だと思うのですが、何に
もない大空なのですね。そしてちょうど広島の上空に当たるところにまあるい
火の輪ができたのです。かなり大きな真っ赤な火の輪です。
その真中に白い雲の塊が、ぽこっと浮いて、どんどん広がって、それが最初に
広がった火の輪にくっついたなと思ったら、それがそのまま真っ赤な火の玉に
なりました。

これを火球と書きますね。直径が700メートルぐらいですね。火の玉です。それを
遠くから見ると、目の前に太陽ができたみたいなのですね。そんなすごいものが
できて、口を開けてみていたのですけれども、玉の上の方がだんだん膨れて、
白い雲になって、赤い玉の上からどんどん登るのですよ。

下の方はちょうど広島の方をみると、ちょうど私から見る方向に横に長い岡のような
山があって、その向こうが広島なのですけれども、ちょうど広島市の幅ぐらいの
火柱がたった。そして上は凄い雲になって、もくもく、もくもくとなって、圏外に
までいきそうでした。

私は生まれて初めてみるので、怖いのですよね。非常に怖くて、農家の縁側に
腰をついたまま、ぼやっとみていました。そうしたら一番下の山の瀬の向こうから、
真っ黒な横に長い雲が、ぐっと顔を出した。それが山を越えて、なだれ落ちる。
落ちたところには太田川があり、周りに家があるのですが、そこに山の上から雲が
ざあっと流れ落ちるのです。

私から見ていると、自分の視野の向こうに、黒い雲の帯ができて、目の前の山の
瀬から崩れ落ちて来るのが見えるわけです。それで渦を巻きながら、私の方に
走ってくるわけです。こちらでみているともうくる、もうくると思うようなスピードで、
渦を巻いてくる。

それですぐに私がいた村の前に小さな小山があったのですが、その向こうから
顔を出してきた。黄色い泡にも見えるし、黒くも見えるし、わけがわからないのです。
私がいた家は村の高いところに、一軒立っていたのですが、まともにそこに
真正面から来るわけです。村の端に小学校がありました。木造の2階建でしたが、
そのかわら屋根が私の見ている前に舞い上がりました。それを見ている間に
私のところに来てしまい、黄色い雲なのか煙なのかそれがバーっと来て、そのまま
後ろに飛ばされました。

不思議なものでそのときのことをよく覚えていて、後ろ向きに天井の方に飛んで
いきながら、天井の襞を見ているのですね。ああ、天井だなと。そのまま藁ぶきの
屋根の天井が吹きあげられて、青空を見たまで覚えているのです。

それで突きあたりの壁に運悪く仏壇があって、そこにガシャンとたたきつけられて、
そこに上から屋根が落ちてきます。まず藁ぶき屋根の泥が落ちてきました。
それがどんどん落ちてきて家がつぶれてしまい、子どもと一緒に埋まってしまった。
農家の家は丈夫なので、完全には潰れないのですが、屋根の泥がみんな落ちて、
私はその中に埋まってしまいまいた。

気が付いて、とにかく一生懸命動き出して、逃げることを考えました。途中で、
赤ん坊がいたと思いだして、私のすぐ前に泥の山がありましてそこに赤ん坊が
埋まっている。花模様の布団の端がみえて、それを無理やりつかんでひっぱったら
一緒に赤ん坊が転がり出てきた。

それを確かめる間もなく小脇に抱えて、表に出ました。それで泥をはたいて出まして、
聴診器がどこかにいってしまってないものだから、耳の穴の泥をとって、女の子の
左の胸にあてたら、元気な音がしていた。

私はとにかく病院に帰られなければならない。自分の任務を無断で離れていて、
病院の開院時間が近い。だからすぐに行かなければと思い、おじいさんに大きな
声で、赤ん坊はここにいるよ、大丈夫だからねと叫んで、自転車にまたがって、
キノコ雲の方に走り出しました。

そのときの気持ちは、本当は後ろ向きに走りたかった。おっかないところに
いかなくてはならない。しょうがない。もう一生懸命に走りました。

すると瀕死の重傷者がたくさん来るわけです。ちょっと「申し訳ない、私は広島に
行かなくてはならない」とは言えたものではないですよね。これはとても広島には
行けないと、道をあきらめて太田川に飛び込んで、川の淵を腰までつかりながら、
広島に歩いて行って、病院の500メートルぐらい手前まで歩いて行って、そこから
あがって市内に入ればすぐに病院だというところまで来ました。

ところが土手のあがるところまで寄って行って、あがろうと思ったら、その上に
建っている家が燃えている最中だった。その燃えている火の中から、今、焼けた
ばかりの人が、白い肌を見せながら、川の中に飛び降りて来る。だから僕が上が
ろうと思ったら、目の前から人が飛び込んできて、川に落ちるわけです。落ちて、
ジャバンと入って、そのまま流れていったり、立ち上がって歩きだしたりする。

だいたいの人は、私のあがろうとする岸から、川の中に逃げて来る。まだ元気な
人は歩きだしますが、そのまま死んでしまう人もいる。だからそこに死体が重なって
いく。後から後からそこに飛び込んできて、私は何をしていいか分からないわけです。
行こうにも火があるし。そこにどうしたらいいか分からずに、30分ぐらいいたと思う
のです。その人たちに申し訳ないといって後ろを向くわけにもいかない。

そうしたら死体が流れてきて、私の腰にボンと当たるのです。ふっとみると、女の人
で、顔も焼けているし、おっぱいも焼けている。上を向いて、髪の毛が流れている。
わあっと思っていると、身体がまわって流れていく。それで気がつくと、川の中にも
死体が流れている。いっぱい流れていく。

小さな子どももいるのです。それを見たときは、私は生きている心地がしません
でした。残虐の極みですから。それで最後に決心をして、見ている人たち
に手を合わせて、私は村へ帰りました。

結局、道を通れませんから、川を遡って村へ戻りました。3時間ぐらいかかって
村に戻ってあがったら、もう村の中はそういう人でいっぱいになっていた。
村の家も飛んでいるか、傾いているか、どの家もまともなものは一軒もないです。
だから血だらけになって来た人が、家にあがることができない。

結局、その近所の空き地だとか、林の中の光をさえぎるところでみんな横に
なっちゃった。最初にそういうところで横になっちゃうから、後から来る人が
そういう人の上を這い上って、奥へ奥へと入って行く。


続く
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