陸奥国の一の宮は、宮城県の塩竈神社と福島県棚倉町の都都古和気神社の2カ所だけです。4世紀後半から5世紀前半の祭祀遺跡は、沖ノ島でも奈良の石上神宮でも『磐座』に代表されるものでした。大和朝廷が有力な勢力を征服したり、融和政策を推し進めるときには、神社や神宮をつくるパターンがあるのです。島根県の出雲大社が有名ですね。関東と東北の一の宮を並べてみると、武神の鹿島神宮→稲の都々古和気神社→塩の塩竈神社という順になります。鹿島神宮から水戸を通り、久慈川沿いに北上し、棚倉の都々古別神社に到達します。そこから、塩竈神社という経路をたどったわけです。ちなみに、神棚は、神社のミニチアです。そこのお供えは、まず米と塩です。都々古別神社の神事には、豊作を祈願する祭事があります。塩竃神社は、もちろん塩を神事としています。この神社がある松島湾の地域は、縄文の時代から製塩が盛んでした。縄文人が使用していた製塩土器の出土が多い地域なのです。有名な里浜貝塚を見るまでもなく、東北の各地から塩との交易が行われていたことが分かっています。松島湾に注ぎ込む川は少なく、製塩には、適した海だったわけです。当然、縄文や弥生の時代になっても、有力者がこの地域で活動していたことが理解されます。
都々古和気神社の神域は、朝廷勢力が東北に進出してくるまでは有力な蝦夷の部族が栄えていました。武鉾山の山麓には、東北地方最大で最古の巨石祭祀遺構が残っています。沖ノ島や石上神宮の『磐座』に匹敵するものです。この地域は、大和朝廷と福島の豪族が角を交えた場所でもあるのです。都々古別神社は陸奥国一の宮として、今はその名残をとどめています。鹿島神宮―都々古和気神社―塩竈神社のラインは、権威のルートというものです。
権威のルートがあれば、権力のルートもあります。多胡碑と那須国造碑、そして多賀城碑のラインが、権力のルートになります。いわゆる東山道が、それにあたります。多胡碑からは、渡来人の権力者が上野の地を支配していたことがわかります。多胡碑と多賀城碑の中間に、国宝の那須国造碑があります。那須国造碑の碑文から、ここを治めていた支配者は、やはり渡来人に関係する集団ということが明らかになっています。715年に、東国の相模、上総、常陸、上野、武蔵、下野6カ国の住民が、陸奥に居住する政策が取られます。この年10,000人を上る東国の人々が、陸奥に移動していくのです。宮城県北部の大崎地方の柵戸として、生活をすることになります。ちなみに柵戸は、自ら土地を開墾し、生計を立てる立場の人達です。その開墾する土地は、蝦夷から奪うことになります。10,000人という数は、これまでにない大きな移動でした。大量の柵戸の入植により、蝦夷の地に属していた大崎地方における朝廷の支配体制が強化されました。柵戸の移動と結びついた城柵の造営は、大和朝廷の拡大策の一貫でした。
でも、この強引な政策に対して、720年蝦夷は大規模な反乱を起こします。反乱の起こった年に、朝廷はムチの政策を一転して、今の東北地方の国に対して調庸の免除を行います。このアメの政策は、3年間続きます。722年に陸奥管内の調庸制を廃止し、青年男子から布を徴収する新税制に切り替えます。新税制の税額は、従来の調庸制の負担に比べ、柵戸の税は4分の1以下に設定されています。今までと打って変わって、柵戸に新税制で課した布を蝦夷に与えるのです。でも、甘い話には裏があります。蝦夷を慰撫する一方で、大和朝廷は軍事面の強化を図っていきます。歌枕で有名な白河の関には、軍団を支える武器の製造や集積の場が用意されていました。現在の福島県の相馬地方には泉官衙がありました。泉官衙の地域は、陸奥はもちろん東国においても最新の武器とされるものを、最新の製鉄製造技術で作る製造拠点になるのです。陸奥の反乱は、幾度となく起こります。でもその都度、城柵の造営が行われ、軍事拠点と官衙の設置が強化されていったのです。古代福島は、蝦夷に対する後方基地の役目を果たしていたのです。
東国の集団は、東山道を北上しながら多賀城を目指しました。白河の関、安達ヶ原の黒塚、信夫もちずりなどの親しまれている歌枕は、権力の北上した道でもあるのです。西行や芭蕉は、先人を慕って陸奥の枕詞を巡りました。いわゆる権力の道です。より趣のある東北を理解することを求めるならば、権威の道を巡るのも一興です。水郡線で水戸から郡山に北上すると、古代の人々の動きが分かるかもしれません。できれば、棚倉で都々古別神社を訪れてはいかがでしょうか。福島には、由緒ある神社があり、山があり、歴史があります。その名前や意味の由来を少し掘り下げると、興味深い旅情を体験できるかもしれません。
都々古和気神社の神域は、朝廷勢力が東北に進出してくるまでは有力な蝦夷の部族が栄えていました。武鉾山の山麓には、東北地方最大で最古の巨石祭祀遺構が残っています。沖ノ島や石上神宮の『磐座』に匹敵するものです。この地域は、大和朝廷と福島の豪族が角を交えた場所でもあるのです。都々古別神社は陸奥国一の宮として、今はその名残をとどめています。鹿島神宮―都々古和気神社―塩竈神社のラインは、権威のルートというものです。
権威のルートがあれば、権力のルートもあります。多胡碑と那須国造碑、そして多賀城碑のラインが、権力のルートになります。いわゆる東山道が、それにあたります。多胡碑からは、渡来人の権力者が上野の地を支配していたことがわかります。多胡碑と多賀城碑の中間に、国宝の那須国造碑があります。那須国造碑の碑文から、ここを治めていた支配者は、やはり渡来人に関係する集団ということが明らかになっています。715年に、東国の相模、上総、常陸、上野、武蔵、下野6カ国の住民が、陸奥に居住する政策が取られます。この年10,000人を上る東国の人々が、陸奥に移動していくのです。宮城県北部の大崎地方の柵戸として、生活をすることになります。ちなみに柵戸は、自ら土地を開墾し、生計を立てる立場の人達です。その開墾する土地は、蝦夷から奪うことになります。10,000人という数は、これまでにない大きな移動でした。大量の柵戸の入植により、蝦夷の地に属していた大崎地方における朝廷の支配体制が強化されました。柵戸の移動と結びついた城柵の造営は、大和朝廷の拡大策の一貫でした。
でも、この強引な政策に対して、720年蝦夷は大規模な反乱を起こします。反乱の起こった年に、朝廷はムチの政策を一転して、今の東北地方の国に対して調庸の免除を行います。このアメの政策は、3年間続きます。722年に陸奥管内の調庸制を廃止し、青年男子から布を徴収する新税制に切り替えます。新税制の税額は、従来の調庸制の負担に比べ、柵戸の税は4分の1以下に設定されています。今までと打って変わって、柵戸に新税制で課した布を蝦夷に与えるのです。でも、甘い話には裏があります。蝦夷を慰撫する一方で、大和朝廷は軍事面の強化を図っていきます。歌枕で有名な白河の関には、軍団を支える武器の製造や集積の場が用意されていました。現在の福島県の相馬地方には泉官衙がありました。泉官衙の地域は、陸奥はもちろん東国においても最新の武器とされるものを、最新の製鉄製造技術で作る製造拠点になるのです。陸奥の反乱は、幾度となく起こります。でもその都度、城柵の造営が行われ、軍事拠点と官衙の設置が強化されていったのです。古代福島は、蝦夷に対する後方基地の役目を果たしていたのです。
東国の集団は、東山道を北上しながら多賀城を目指しました。白河の関、安達ヶ原の黒塚、信夫もちずりなどの親しまれている歌枕は、権力の北上した道でもあるのです。西行や芭蕉は、先人を慕って陸奥の枕詞を巡りました。いわゆる権力の道です。より趣のある東北を理解することを求めるならば、権威の道を巡るのも一興です。水郡線で水戸から郡山に北上すると、古代の人々の動きが分かるかもしれません。できれば、棚倉で都々古別神社を訪れてはいかがでしょうか。福島には、由緒ある神社があり、山があり、歴史があります。その名前や意味の由来を少し掘り下げると、興味深い旅情を体験できるかもしれません。