今日は自然農塾。
年の最初1月の東野自然農塾は塾長佐藤さんの話ではじまる。
南知多のゴーさんもそうなんだけど、塾長の佐藤さんも、農業をいとなむひとはほんとに忙しい。
わたしはゴーさんがいつも真っ黒に日焼けして、いつも動いていつも働いてるのを見たりすると
とてもほっとする。いつ会ってもそう。
でもどの農家もこんなに忙しいのかといったら、そうじゃない。
今日の農塾の中で、塾生のひとりの方、わたしよりも一回り以上年上の方が質問をした。
「自然農塾を大規模農業としてできないだろうか」
(この方はたしか昨年もみんなのアタマを回転させるような質問をなさった。)
最近ブラジルとかから広大な面積を一度だけ農機を使ってたがやし、無農薬で作物を作り得る農業が
日本にも持ち込まれているらしい。そういう話もでた。
塾長はコマッタ顔をして「それだけ耕せば、そこで断たれる命があるでしょう」
わたしはわたしでちょっと違うことを考えていた。
たくさんいっぺんに作るということは、わたしは美しくないと思っていた。
そんなことを言ったら現在地球のかかえる食糧難はどうする、とつめよられること必至なんだけど。
医療が発達する、植物が発達する。資源もなにもかも開発され発達する。
失った臓器もまた作れる、電気もどんどんできる、植物は遺伝子組み換えでどうとでもなりうる・・・。
これからのニンゲンの進歩があるならば、それは「選択」ではないだろうか。
得ようと思えば、生きていくことを単純で安楽にするものが得られる中
それを得ようとせず、あえてフクザツでメンドクサイ方を選んだりしちゃって、っていうのが
進歩なのではないかしら。
どれだけ無農薬で有機栽培で、たくさん収穫できて収入が増え、病害虫から遠のいたとしても
わたし自身それはやりたくない。
わたしは夏の虫に困り、寒さ対策にアタマを悩まし、少しの収量でなげく、その先にあるものを
得たいとおもう。それがわたしの進歩。
まあ生き死ににダイレクトにつながってないから言えることなんだけど。
いまだからできる贅沢、ってこういうことなんじゃないかな。
一生のなか、うつくしいと感じる田畑、いとおしいと感じる山野に
いれることの しあわせ。