*政府インペイの事実明らかに、100シーベルトを
朝日新聞は、震災時の東京電力福島第一原子力発電所所長、吉田昌郎氏が原発事故について政府事故調査・検証委員会の調べに対して語った「吉田調書」を入手した。2013年7月に死去した吉田氏と、聴取を主導した検事ら事故調委員とのやりとりが四百数十ページにわたり記されている。文字数にするとおよそ50万字だ。朝日新聞は吉田調書でわかった新事実を20日付朝刊で報じる予定だ。朝日新聞デジタルでは特集ページを立ち上げ、9回にわたり詳しく伝える。特集ページのURLは次の通り。
28時間、400ページ
吉田調書は全7編で構成されている。総文字数はおよそ50万字。A4判で四百数十ページに上る分量になる。吉田氏への聴き取りは13回中11回が福島第一原発から南へ20km離れたサッカー施設 J-VILLAGE JFAアカデミーのミーティングルームで、残る2回が吉田氏の仕事場である福島第一原発免震重要棟でおこなわれた。
政府事故調は772人から計1479時間にわたって聴き取りをおこなった。吉田調書はその一環で作成された。対象1人当たりの平均聴取時間は2時間弱。吉田氏への聴取時間は28時間あまりで、あの瞬間、どう行動し、何を考えていたかまで聴き取った。畑村洋太郎・政府事故調委員長は、ほかに吉田氏の公式の調書がないことから「貴重な歴史的資料」と呼んだ。
怒り、苦悩、分別
吉田調書の特徴は「吉田氏の言いっぱなしになっていない」点にある。政府事故調は聴き取りを始めるにあたり、「後々の人たちがこの経験を生かすことができるような、そういう知識をつくりたいと思って、それを目標にしてやろうとしています」「責任追及とか、そういうことは目的にしていません」と趣旨説明をした。だが、聴取は決して生ぬるいものではなかった。それは吉田氏への聴取が政府事故調事務局に出向した検事主導でおこなわれたからである。調書は微妙な言い回しも細かく書き起こされている。
一方、吉田氏のほうも、聴き取りに真剣に応じている様子が調書の文面からうかがえる。調書には、吉田氏が「ここだけは一番思い出したくない」と苦しい胸の内を明かすように話す場面がある。震災当時の社長の清水正孝氏を「あの人」と呼んだり、菅直人氏や原子力安全委員長の班目春樹氏を「おっさん」呼ばわりしたりして、怒りをぶちまけながら話をする場面もある。全編を通して感情を包み隠さず答えていることから、全体として本音で語っていると感じられる。
吉田氏は、事実と心情や思いとは分けて話そうと努めている。また、事故発生時の認識と、その後に得た情報を加味した自身の考えは分けて話すよう努める様子もうかがえる。
全9回で報
朝日新聞デジタルでは20日から、今回入手した調書を分析・検証した特集企画「吉田調書 福島第一原発事故、吉田昌郎所長の語ったもの」を配信していきます。政府事故調が吉田氏から聴取しながら報告書ではほとんど言及しなかった「人の行動、判断」の部分に焦点をあて、「原発は誰が止めるか」「住民は避難できるか」「ヒトが止められるか」を考えます。調書の分析・検証にあたっては、東電テレビ会議録、時系列表、および別途入手した東電の内部資料を読み込み、各方面を取材しました。朝日新聞では、吉田調書でわかった新事実を報道します。
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しかし、私はすぐさまに帰り、言うなと口止めされたことなど気にせずにの人に危険を知らせました。翌朝、3月15日の朝、6時半に地区の人が続々と集まって来ました。そのとき、外は雨が降っていて、そのうち雪に変わりました。後でわかったことですが、ちょうどその頃、飯館村の放射線量は100マイクロシーベルトを超えていたのです。それを知らせてくれたのはジャーナリストの方です。大勢のジャーナリストが村に来ていたのです。私は、地区の住民に言いました。「外にはなるべく出るな。どうしても出なければならないのなら、マスクをしろ。肌を出すな。外から帰ったら玄関で服を脱ぎ、風呂に入るかシャワーを浴びるかしろ。畑の野菜を食べてはいけない。換気扇を回すな」と。そのとき、北西の風が吹いていました。飯館村は原発からの放射能の風をまともに受けてしまったのです。
*飯館村の真実放射能、100シーベルト、
私は、ジャーナリストをかき集め、訴えました。「飯館村を避難対象にしてくれ。どうか、それを報道してくれ」。しかし、それはかないませんでした。避難を希望する者がいるなら避難してもよいが、村は避難対象にならないと言われたのです。ですから、一部の人しか避難しませんでした。これは公式に発表された村の放射線量です。3月15日の午前6時20分のところを見て下さい。44.7マイクロシーベルト/時と書いてあります。ジャーナリストから知らせてもらった数値は100マイクロシーベルト以上です。なんという違いでしょう。公の発表は正しい数値ではないのです。嘘の報道をしているのです。
そして、国や県から、専門家達が次々に村にやって来ました。みんな口々に、大丈夫だ、安心しろと言います。しかし、その少し後に、今度は別の大学の先生のチームがやって来て、村中の放射線量を測りました。先生は「おそろしい。こんなところに住んでいてはいけない。私達が集めたこのデータを村長のところへ持って行ってください。避難しなければなりません」と言いました。しかし、村長は「このデータは公表しないでくれ!」と叫んだのです。村長は村を守ろうとしました。村をゴーストタウンにしたくなかったのです。