浪漫亭随想録「SPレコードの60年」

主に20世紀前半に活躍した演奏家の名演等を掘り起こし、現代に伝える

ブルーノ・ワルター シューマン第4交響曲を聴いてがっかり

2006年10月25日 | 指揮者
ブルーノ・ワルターは紳士的な音楽づくりをする指揮者といふイメージを持つ方が多いだろう。しかし、僕はへそ曲がりと言われようとも、ワルターほど音楽づくりの荒っぽい音楽家はいないと信じてきた。

そこには、メンゲルベルクのやうな周到な計画も見えないし、トスカニーニのやうなアンサンブルの徹底的な特訓もない。勿論、フルトヴェングラーのやうな音楽性も感じられない。

学生時代には、彼の晩年のモーツァルトを聴いてゐた。しかし、僕のワルター像が壊れてしまったのは、ワルターが自宅で録音したとされるシュトラウスのワルツの洋琴独奏を聴き、大きなショックを受けてからのことだ。このシューマンもひどいものだ。よくぞこんな演奏をレコヲド化できたものだと思ふ。シューマンも墓の中でおちおち死んでおれない。しかし、ワルターの自宅録音を知ってゐる人には予想できる範囲内の出来事だ。

第1楽章のポルタメントの乱用による下品な序奏、アンサンブルの乱れも無視し続け、せっかちなテンポで平然と突き進む。表情づけも気に入らない。音楽(特にフレーズ)に対して丁寧な扱いができない演奏家と思はれても言い訳のしようのない罪深い演奏だ(と僕は勘違いしてゐる)。

マーラーがワルターをそれほど高く評価してゐなかったことは有名な話だが、1923年の「悲愴」といい、1928年のシューマンといい、荒っぽく主観的な演奏だ。メンゲルベルクとは比較にならぬ小さな存在でしかない。マーラーはこの10年前のワルターを聴いて評価したのだから僕たちには確かめようがないが、20年代の演奏を聴けば推して知るべしである。

金を出してコレクションに加える価値のあるレコヲドとは思はないので、早速出品して処分することが夫婦会議で決定された。そのやうなレコヲドだが必用な方も居るはずだ。僕の考えは正しいことの方が少ないのだ。

盤は、米国VAI AudioのSP復刻CD VAIA1059。


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