【連載「フルトヴェングラーを偲ぶ」第4回】
エルンスト・ペッピングは現在では取り上げられることも殆ど無い忘れ去られた作曲家である。しかし、その作風には宗教的な色合いが強く打ち出されてゐる。近代作曲家が忘れつつあった、西洋音楽発展の背後にあるキリスト教文化を明確に打ち出すには調性への回帰が必要不可欠だった。ペッピングは調性を堅持してゐる。
フルトヴェングラーによるペッピングの第2交響曲初演時のライブ録音を聴いてゐる。1943年10月30日のプログラムである。ヘ短調の重厚な響きで始まるこの作品は、果たしてフルトヴェングラーの厳しい目にかなった作品だったのだらうか。プフィッツナーの精神を高く評価したフルトヴェングラーだが、ヒンデミットやレーガーに対しては厳しい評価をしばしば下してゐる。
例えば、ヒンデミットには、
「モーツァルトのスコアのやうに無邪気で明確なかたちで出来上がったのであれば異論を唱えることはないが、ヒンデミットは多くの要素の根拠が回避される方法で追求されてゐる。古いものを排除する点ではなく、新しいものが発見される作品が真の芸術なのだ。」といふ内容のコメントを。
また、レーガーに至っては、
「調性の欠如、正確な表現の欠落、私たちは正確な表現に立ち戻らねばならない」といふやうに厳しい。
その矛先は、彼自身がよく取り上げたR.シュトラウスにも向けられる。
「音楽に卓越した者が狡猾に効果を狙ふといった凡庸さ」と片付けられる。歴史的評価を受ける真の芸術作品か否か、フルトヴェングラーの目は非常に厳しい。
ペッピングの交響曲第1番はベームが、第2番はフルトヴェングラーが初演してゐることからも、当時の独逸国内では一定の評価のあった作家である。僕としては、現在でももっとその才能を正当に評価しても良いのではないかと思ってゐる。
盤は、伊太利亜ArkadiaによるCD WFE365.2。
エルンスト・ペッピングは現在では取り上げられることも殆ど無い忘れ去られた作曲家である。しかし、その作風には宗教的な色合いが強く打ち出されてゐる。近代作曲家が忘れつつあった、西洋音楽発展の背後にあるキリスト教文化を明確に打ち出すには調性への回帰が必要不可欠だった。ペッピングは調性を堅持してゐる。
フルトヴェングラーによるペッピングの第2交響曲初演時のライブ録音を聴いてゐる。1943年10月30日のプログラムである。ヘ短調の重厚な響きで始まるこの作品は、果たしてフルトヴェングラーの厳しい目にかなった作品だったのだらうか。プフィッツナーの精神を高く評価したフルトヴェングラーだが、ヒンデミットやレーガーに対しては厳しい評価をしばしば下してゐる。
例えば、ヒンデミットには、
「モーツァルトのスコアのやうに無邪気で明確なかたちで出来上がったのであれば異論を唱えることはないが、ヒンデミットは多くの要素の根拠が回避される方法で追求されてゐる。古いものを排除する点ではなく、新しいものが発見される作品が真の芸術なのだ。」といふ内容のコメントを。
また、レーガーに至っては、
「調性の欠如、正確な表現の欠落、私たちは正確な表現に立ち戻らねばならない」といふやうに厳しい。
その矛先は、彼自身がよく取り上げたR.シュトラウスにも向けられる。
「音楽に卓越した者が狡猾に効果を狙ふといった凡庸さ」と片付けられる。歴史的評価を受ける真の芸術作品か否か、フルトヴェングラーの目は非常に厳しい。
ペッピングの交響曲第1番はベームが、第2番はフルトヴェングラーが初演してゐることからも、当時の独逸国内では一定の評価のあった作家である。僕としては、現在でももっとその才能を正当に評価しても良いのではないかと思ってゐる。
盤は、伊太利亜ArkadiaによるCD WFE365.2。
この曲の初演はフルトヴェングラーではなく、アルベルト・ビットナー&エッセン・フィルです。