太田裕美『木綿のハンカチーフ』(1975:松本隆詞)。
「恋人よ僕は旅立つ 東へと向かう列車で」。太田裕美の代表曲の歌い出しだ。
上京する男と、故郷で待つ女の視点から、1コーラスの前後半で交互に歌われる斬新な構成。4コーラスまである長い歌で、月日が経過するにつれ徐々に二人の心がすれ違って行く歌詞がそれにそぐわない軽快な曲調で歌われていて、余計に悲しい。太田裕美の歌唱は、男女のパートで特に変化をつけるでもなく、独特のか細い声で淡々と歌い通している。
この曲で太田裕美が「僕」と歌ったのは、曲の構成上の産物であって、「僕」と男性一人称で歌うことが主眼ではなかったと思われる。しかし、この「僕」は思わぬ効果を発揮して、曲もヒットした。これ以後、太田裕美は「僕」視点の曲を量産する。
太田裕美『しあわせ未満』(1977:松本隆詞)。
「二十才まえ ぼくに逢わなきゃ 君だって違う人生」。同棲カップルの儚げな幸福。
太田裕美『南風-SOUTH WIND-』(1980:網倉一也詞)。
「その瞬間に僕のすべてが変わったのさ 君は光のオレンジ・ギャル」。爽やかな夏の出会い。
太田裕美『さらばシベリア鉄道』(1980:松本隆詞)。
「僕は照れて愛の言葉が言えず 君は近視まなざしを読み取れない」。旅立った恋人を北の大地に追う、大瀧詠一サウンドの名曲。
太田裕美『君と歩いた青春』(1981:伊勢正三詞)。
「君と初めて出会ったのは 僕が一番最初だったね」。都会での生活に疲れ故郷に帰る彼女を見送る歌。
この4曲は完全に男性視点の歌詞である。ほか『赤いハイヒール』(1976:松本隆詞)も『木綿のハンカチーフ』と同様に男女の視点で交互に歌われる曲である。『恋人たちの100の偽り』(1977:松本隆詞)には「もしぼくがいなくても生きてゆけるね」と男性の台詞が入っている。
なぜ太田裕美が「僕」と歌うのが効果的なのか。
太田裕美は決してボーイッシュなアイドルではない。むしろ声もか細く、フェミニンな部類であろう。そういう彼女が男性視点の歌を歌うことで、むしろ彼女の女性らしさが引き立つような気がする。そのメカニズムはよくわからないが、歌詞の中で「君」と歌われている客体である女性に、太田裕美自身が投影されるような効果が働いているようだ。
太田裕美の成功を受け、その手法を踏襲するアイドルも現れた。そして、高い確率でヒットした。
榊原郁恵『夏のお嬢さん』(1978:笠間ジュン詞)。
「僕は君に首ったけなんだよ」。榊原郁恵の代表曲。夏の海で輝くビキニの「お嬢さん」をナンパしようとする男の視点で能天気に歌う。歌詞の中の「お嬢さん」は、榊原郁恵自身に重なって見える。
石川ひとみ『君は輝いて天使に見えた』(1982:天野滋詞)。
「君は今輝くよ 君は今天使の羽根をつけ 自由にどこか飛べばいい 僕は見守っているよ」。『まちぶせ』が大ヒットした後の佳曲。軽快な曲調で、徐々に都会に馴染んでいく少女の輝きを、まぶしく見守る男の視点から描いている。
石川秀美『ゆ・れ・て湘南』(1982:松本隆詞)。
「愛して疲れたボクたちの横顔みたいさMy Little Girl」。夏の終わりに、別れのドライブをする男女の僅かな時間を、男性視点で描写する。太田裕美で培った手法を、松本隆が再現。硬質で少し鼻にかかったような石川秀美の声は、別れを湿っぽくせず、乾いた感傷を伝えている。
水野きみこ『神よ何てお礼を言えばいいのかわからない』(1983:花岡優平詞)。
「僕は連れてゆきます 今日からこの人を」。結婚式当日の新郎の視点で歌う歌。二人が出会えたことを神に感謝するという内容。純白のドレスを身に纏った花嫁の姿には、少し幼い水野きみこ自身が投影される。
三田寛子『初恋』(1983:村下孝蔵詞)
「放課後の校庭を走る君がいた 遠くで僕はいつでも君を探してた」。学生時代の片思いを感傷的に振り返る中年男の歌。村下孝蔵自身や、当時中日ドラゴンズの田尾安志もレコードをリリースしたが、陸上部と思われる少女の姿がありありと見えて来るのは、三田寛子の歌唱だった。
南野陽子『涙はどこに行ったの』(1989:康珍化詞)。
「君の胸の悲しみ それは僕の悲しみ」。いつの間にかすれ違うようになった二人の空気。出会ったころの涙の行方を切なく問いかける男の歌である。古いフォーク調のメロディーに、硬質で艶に乏しい南野陽子の歌声が、かえって切なさを際立たせている。
小泉今日子『夜明けのMEW』(1986:秋元康詞)。
「夜明けのMEW 君が泣いた 夜明けのMEW僕が抱いた 眠れない夏」。あまり具体的な描写はないが、二人で過ごした夏の日々を断片的に描く。「MEW」が女の名前なのかも定かではないが、不思議な魅力を持った小泉今日子自身のイメージと重なる。秋元康がこの手法に手ごたえを感じたであろう作品。
佐野量子『4月のせいかもしれない』(1987:秋元康詞)。
「君じゃない僕じゃない別れのその訳 4月のせいだったんだね きっと」。これも秋元康作品。ほのぼのした魅力の佐野量子が、少しイメージチェンジして歌った短調の曲。
少女を歌うには、少女が「僕」の視点から歌うのが効果的だというのが、どうやら立証できるようだ。
しかし、太田裕美のフォロワーたる彼女たちは、2曲以上「僕」と歌うことはなかった。あくまで目先を変えた1曲、もしくはここ一番の勝負曲であったのだ。
70年代アイドル・80年代アイドルのシングル曲1,051曲をサンプル調査すると、「僕」の出現率は2.0%でそれほど高くない。ところがAKBグループの楽曲331曲では18.5%まで跳ね上がっている。シングル曲に限れば23曲中9曲、39.1%である。特に最近の主要なシングル曲は全て「僕」視点である。
AKB48『ポニーテールとシュシュ』(2010:秋元康詞)。
「ポニーテール揺らしながら 風の中 君が走る 僕が走る 砂の上」。片思いの同級生の彼女と海に行くことを、教室で妄想している歌。
AKB48『ヘビーローテーション』(2010:秋元康詞)。
「こんな気持ちになれるなんて 僕はついているね」。恋をしたら寝ても覚めても君のことばかり考えている、君だけのヘビーローテーションだという歌。
AKB48『Beginner』(2010:秋元康詞)。
「僕らは夢みてるか? 未来を信じているか?」。初心に帰って一から始めようという歌。急速に人気が出て、地に足がつかなくなりかねないAKB48自身の状況を踏まえて自戒するといった曲でもある。
AKB48『桜の木になろう』(2011:秋元康詞)。
「永遠の桜の木になろう そう僕はここから動かないよ」。AKB48が毎年リリースしている卒業ソング。個々のメンバーがAKB48を卒業しても、AKB48は原点としてずっと残っているという含意も読み取れる。
AKB48『Everyday、カチューシャ』(2011:秋元康詞)。
「カチューシャしてる君に 僕は長い恋愛中」。『ポニーテールとシュシュ』の続編。この歌では現実に彼女と海に行くには行っている。しかし、未だに好きだと告白はできていないようだ。じれったい臆病な男子の真骨頂だ。
AKB48『フライングゲット』(2011:秋元康詞)。
「フライングゲット 僕は一足先に君の気持今すぐ手に入れようか」。夏の海辺で見つけたビキニの彼女は、どうやら僕に気があるらしいと思い込む、勘違い男のうぬぼれソング。
なぜAKB48は、こうも徹底して「僕」視点で歌うのだろうか。理由は3つほど考えられる。
1つ目は、AKB48のファンの多数を占める内気で臆病な男子の心情を代弁して共感を得るためという説。
2つ目は、AKBの各チームやユニット、SKEやNMBなどのために、大量に歌を作らなければならない秋元康が編み出した秘策で、同じような状況でも男と女の両方の視点から書けば、理論上は2倍の曲が書けて、マンネリにもならないからという説。男女の視点から書かれた小説『情熱と冷静のあいだ』と同じ手法と言える。
3つ目は、AKB48が売れてカラオケで歌われることも増えたので、男子も気持ち良く歌えるようにという説。この説は有力で、昔からアイドル好きだった筆者も、女性アイドルの歌をカラオケで歌うことはあまりなかった。しかし、AKB48の右に挙げたような曲は、男でも歌いやすいキーにもなっていて、どんどん歌える。
もちろん女性が歌うのも全く問題ない。男物のシャツを女性が着るのは問題ないのと同様だろう。(逆はあまり一般的でない)
「恋人よ僕は旅立つ 東へと向かう列車で」。太田裕美の代表曲の歌い出しだ。
上京する男と、故郷で待つ女の視点から、1コーラスの前後半で交互に歌われる斬新な構成。4コーラスまである長い歌で、月日が経過するにつれ徐々に二人の心がすれ違って行く歌詞がそれにそぐわない軽快な曲調で歌われていて、余計に悲しい。太田裕美の歌唱は、男女のパートで特に変化をつけるでもなく、独特のか細い声で淡々と歌い通している。
この曲で太田裕美が「僕」と歌ったのは、曲の構成上の産物であって、「僕」と男性一人称で歌うことが主眼ではなかったと思われる。しかし、この「僕」は思わぬ効果を発揮して、曲もヒットした。これ以後、太田裕美は「僕」視点の曲を量産する。
太田裕美『しあわせ未満』(1977:松本隆詞)。
「二十才まえ ぼくに逢わなきゃ 君だって違う人生」。同棲カップルの儚げな幸福。
太田裕美『南風-SOUTH WIND-』(1980:網倉一也詞)。
「その瞬間に僕のすべてが変わったのさ 君は光のオレンジ・ギャル」。爽やかな夏の出会い。
太田裕美『さらばシベリア鉄道』(1980:松本隆詞)。
「僕は照れて愛の言葉が言えず 君は近視まなざしを読み取れない」。旅立った恋人を北の大地に追う、大瀧詠一サウンドの名曲。
太田裕美『君と歩いた青春』(1981:伊勢正三詞)。
「君と初めて出会ったのは 僕が一番最初だったね」。都会での生活に疲れ故郷に帰る彼女を見送る歌。
この4曲は完全に男性視点の歌詞である。ほか『赤いハイヒール』(1976:松本隆詞)も『木綿のハンカチーフ』と同様に男女の視点で交互に歌われる曲である。『恋人たちの100の偽り』(1977:松本隆詞)には「もしぼくがいなくても生きてゆけるね」と男性の台詞が入っている。
なぜ太田裕美が「僕」と歌うのが効果的なのか。
太田裕美は決してボーイッシュなアイドルではない。むしろ声もか細く、フェミニンな部類であろう。そういう彼女が男性視点の歌を歌うことで、むしろ彼女の女性らしさが引き立つような気がする。そのメカニズムはよくわからないが、歌詞の中で「君」と歌われている客体である女性に、太田裕美自身が投影されるような効果が働いているようだ。
太田裕美の成功を受け、その手法を踏襲するアイドルも現れた。そして、高い確率でヒットした。
榊原郁恵『夏のお嬢さん』(1978:笠間ジュン詞)。
「僕は君に首ったけなんだよ」。榊原郁恵の代表曲。夏の海で輝くビキニの「お嬢さん」をナンパしようとする男の視点で能天気に歌う。歌詞の中の「お嬢さん」は、榊原郁恵自身に重なって見える。
石川ひとみ『君は輝いて天使に見えた』(1982:天野滋詞)。
「君は今輝くよ 君は今天使の羽根をつけ 自由にどこか飛べばいい 僕は見守っているよ」。『まちぶせ』が大ヒットした後の佳曲。軽快な曲調で、徐々に都会に馴染んでいく少女の輝きを、まぶしく見守る男の視点から描いている。
石川秀美『ゆ・れ・て湘南』(1982:松本隆詞)。
「愛して疲れたボクたちの横顔みたいさMy Little Girl」。夏の終わりに、別れのドライブをする男女の僅かな時間を、男性視点で描写する。太田裕美で培った手法を、松本隆が再現。硬質で少し鼻にかかったような石川秀美の声は、別れを湿っぽくせず、乾いた感傷を伝えている。
水野きみこ『神よ何てお礼を言えばいいのかわからない』(1983:花岡優平詞)。
「僕は連れてゆきます 今日からこの人を」。結婚式当日の新郎の視点で歌う歌。二人が出会えたことを神に感謝するという内容。純白のドレスを身に纏った花嫁の姿には、少し幼い水野きみこ自身が投影される。
三田寛子『初恋』(1983:村下孝蔵詞)
「放課後の校庭を走る君がいた 遠くで僕はいつでも君を探してた」。学生時代の片思いを感傷的に振り返る中年男の歌。村下孝蔵自身や、当時中日ドラゴンズの田尾安志もレコードをリリースしたが、陸上部と思われる少女の姿がありありと見えて来るのは、三田寛子の歌唱だった。
南野陽子『涙はどこに行ったの』(1989:康珍化詞)。
「君の胸の悲しみ それは僕の悲しみ」。いつの間にかすれ違うようになった二人の空気。出会ったころの涙の行方を切なく問いかける男の歌である。古いフォーク調のメロディーに、硬質で艶に乏しい南野陽子の歌声が、かえって切なさを際立たせている。
小泉今日子『夜明けのMEW』(1986:秋元康詞)。
「夜明けのMEW 君が泣いた 夜明けのMEW僕が抱いた 眠れない夏」。あまり具体的な描写はないが、二人で過ごした夏の日々を断片的に描く。「MEW」が女の名前なのかも定かではないが、不思議な魅力を持った小泉今日子自身のイメージと重なる。秋元康がこの手法に手ごたえを感じたであろう作品。
佐野量子『4月のせいかもしれない』(1987:秋元康詞)。
「君じゃない僕じゃない別れのその訳 4月のせいだったんだね きっと」。これも秋元康作品。ほのぼのした魅力の佐野量子が、少しイメージチェンジして歌った短調の曲。
少女を歌うには、少女が「僕」の視点から歌うのが効果的だというのが、どうやら立証できるようだ。
しかし、太田裕美のフォロワーたる彼女たちは、2曲以上「僕」と歌うことはなかった。あくまで目先を変えた1曲、もしくはここ一番の勝負曲であったのだ。
70年代アイドル・80年代アイドルのシングル曲1,051曲をサンプル調査すると、「僕」の出現率は2.0%でそれほど高くない。ところがAKBグループの楽曲331曲では18.5%まで跳ね上がっている。シングル曲に限れば23曲中9曲、39.1%である。特に最近の主要なシングル曲は全て「僕」視点である。
AKB48『ポニーテールとシュシュ』(2010:秋元康詞)。
「ポニーテール揺らしながら 風の中 君が走る 僕が走る 砂の上」。片思いの同級生の彼女と海に行くことを、教室で妄想している歌。
AKB48『ヘビーローテーション』(2010:秋元康詞)。
「こんな気持ちになれるなんて 僕はついているね」。恋をしたら寝ても覚めても君のことばかり考えている、君だけのヘビーローテーションだという歌。
AKB48『Beginner』(2010:秋元康詞)。
「僕らは夢みてるか? 未来を信じているか?」。初心に帰って一から始めようという歌。急速に人気が出て、地に足がつかなくなりかねないAKB48自身の状況を踏まえて自戒するといった曲でもある。
AKB48『桜の木になろう』(2011:秋元康詞)。
「永遠の桜の木になろう そう僕はここから動かないよ」。AKB48が毎年リリースしている卒業ソング。個々のメンバーがAKB48を卒業しても、AKB48は原点としてずっと残っているという含意も読み取れる。
AKB48『Everyday、カチューシャ』(2011:秋元康詞)。
「カチューシャしてる君に 僕は長い恋愛中」。『ポニーテールとシュシュ』の続編。この歌では現実に彼女と海に行くには行っている。しかし、未だに好きだと告白はできていないようだ。じれったい臆病な男子の真骨頂だ。
AKB48『フライングゲット』(2011:秋元康詞)。
「フライングゲット 僕は一足先に君の気持今すぐ手に入れようか」。夏の海辺で見つけたビキニの彼女は、どうやら僕に気があるらしいと思い込む、勘違い男のうぬぼれソング。
なぜAKB48は、こうも徹底して「僕」視点で歌うのだろうか。理由は3つほど考えられる。
1つ目は、AKB48のファンの多数を占める内気で臆病な男子の心情を代弁して共感を得るためという説。
2つ目は、AKBの各チームやユニット、SKEやNMBなどのために、大量に歌を作らなければならない秋元康が編み出した秘策で、同じような状況でも男と女の両方の視点から書けば、理論上は2倍の曲が書けて、マンネリにもならないからという説。男女の視点から書かれた小説『情熱と冷静のあいだ』と同じ手法と言える。
3つ目は、AKB48が売れてカラオケで歌われることも増えたので、男子も気持ち良く歌えるようにという説。この説は有力で、昔からアイドル好きだった筆者も、女性アイドルの歌をカラオケで歌うことはあまりなかった。しかし、AKB48の右に挙げたような曲は、男でも歌いやすいキーにもなっていて、どんどん歌える。
もちろん女性が歌うのも全く問題ない。男物のシャツを女性が着るのは問題ないのと同様だろう。(逆はあまり一般的でない)