啄木は明治41年1月21日釧路に着き、関さんのお宅に下宿することにしました。釧路市は昭和58年、啄木が釧路にしるした76日間の足跡をたどる「石川啄木文学コース」を設置し、啄木ゆかりの地に啄木歌碑を6基を建立しました。
1.啄木下宿の地の歌碑
午前6時半、釧路行き1番の旭川発に乗った。程なくして枯林の中から旭日が赤々と上った。空知川の岸辺の添うて上がる。此辺が所謂最も北海道的な所だ。9時半頃釧路に着。停車場から10町許り、迎えに来た佐藤国司氏らと共に歩いて、幣舞橋といふを渡った。浦見町の佐藤氏宅について、行李を下す。秋元町長、木下成太郎(道会議員)の諸氏が見えて12時過ぐる迄小宴。[啄木日記(明治41年1月21日)]
今夜佐藤氏の宅から此洲埼町1丁目なる関下宿屋に移った。2階の8畳間、よい部屋ではあるが、火鉢一つを抱いての寒さ、何とも云へぬ。[啄木日記(明治41年1月23日) ]
啄木下宿の地(釧路市大町五丁目)の歌碑
こほりたるインクの罎を 啄木
火に翳し
涙ながれぬともしびの下
2.釧路停車場跡の歌碑
啄木当時の停車場(釧路駅)は現在の釧路駅から500mほど離れたところにあり、停車場跡地には「交流館さいわい」が建っており、その一角に啄木歌碑が建立されています。
釧路停車場跡(釧路市幸町)の歌碑
浪淘沙 啄木
ながくも聲をふるはせて
うたふがごとき旅なりしかな
3.釧路新聞社跡の歌碑
釧路新聞社跡地には、現在ガソリンスタンドが建っています。
釧路新聞社跡(釧路市大町一丁目)の歌碑
十年まへに作りしといふ漢詩を
酔へば唱へき
旅に老いし友 啄木
4.喜望楼の跡の歌碑
社長の招待で篇輯4人と佐藤国司と町で一・二の料理店喜望楼へ行った。芸者二人、小新に小玉、・・・・ 。[啄木日記(明治41年1月24日)]
喜望楼の跡(釧路市南大通八丁目)の歌碑
あはれかの国のはてにて 啄木
酒のみき
かなしみの滓を啜るごとくに
5. しゃも寅跡の歌碑
9時頃、鶤寅(しゃもとら)亭に飲みに行く。小奴が来た。散々飲んだ末、衣川子と二人で小奴の家へ遊びに行った。小奴はぽんたと二人で、老婆を雇って居る。話は随分なまめしかった。二時半帰る。小奴と云ふのは、今迄見たうちで一番活発な気持ちのよい女だ。[啄木日記(明治41年2月24日)]
しゃも寅の跡(釧路市浦見町八丁目)の歌碑
火をしたふ蟲のごとくに
ともしびの明るき家に
かよひ慣れにき 啄木
釧路へ来て玆に40日。本を手にした事は一度もない。生れて初めて、酒に親しむ事だけは覚えた。盃二つで赤くなった自分が、僅か40日の間に一人前飲める程になった。芸者といふ者に近づいて見たのも生まれ以来此釧路が初めてだ。之を思ふと、何といふ事なく心に淋しい影がさす。[啄木日記(明治41年2月29日)]
しゃも寅の井戸
6. 歌留多寺・本行寺の歌碑
本行寺の歌留多会へ衣川と二人で行って見たが、目がチラチラして居て、駄目であった。帰りに小奴に逢った。[啄木日記(明治41年3月2日)]
歌留多寺・本行寺(弥生町二丁目)の歌碑
一輪の赤き薔薇の花を見て
火の息すなる
唇をこそ思へ 啄木