この記事おもしろい、接続過剰かぁ~、しかも過剰だとどんどん薄くなる、まさに自分が感じていることだ。さすが浅田さん。
つながりすぎ社会を生きる 浅田彰さん×千葉雅也さん:朝日新聞デジタル
国家機密法だったけ、それの方簿を担いでるのが、過剰な接続だと思う。危うい社会!。
過剰でなくて適度ならいいんだけど。日々何を食ったとか、今日何をしたかとか、過剰ですよ。
下に書かれいること、全く同感。どうでもいいこと。新聞もどうでもいいことを報道するようになった、昔はどうでもいいことは週刊誌がマイナーあるいはマニアックな読者のために提供していたのに。。。。
そう、これで、つながりが軽薄化するのだ。おもいやり過剰、これからはおもてなし過剰、嫌な世界だ。
ジャック・アタリのジャック・アタリ『21世紀の歴史』: マーケティング・ブレインにも書かれていたけど、これからはプライバシーなどというものはなくなるそうだ。それが現実にどんどん加速している。
中国の出来事と対比して日本は優等生社会という論調が多いが、中国を体験してきた私には、彼らの自由さは改めて感心させられる。もちろん、共産党の制約の中での個人の小さな銃だけど、彼らは成約されていることを知っていて、自由の良さ、大事さをよくわかっているような気がする。それに比べると、政府などの洗脳によって、自由な日本という中で、自由と錯覚している日本人の姿が目に映る。小さなことでは有給取得に地道を上げる人が多いが、そんなの関係なく、給料減らされても休みたいときに休むのがほんとうの自由だと思う。中国の人は、給料がへろうが休みたい時には自由に休んでいる。
そう極端だよね。
以下、なるほど、なるほど。CMの文化的取り上げ方は、いけないのかもしれない。
うん、そうだ。
以下も納得。よくぞ、言ってくれたという感じ。
ひさしぶりに、熱くなった。笑
引用されている文献は読んでみたくなった。
つながりすぎ社会を生きる 浅田彰さん×千葉雅也さん:朝日新聞デジタル
千葉 今のネット社会では、ささいなことまでソーシャルネットワーク(SNS)などで「共有」され「可視化」されている。スマホも普及し、生活の細部と細部がかつてない規模でつながる。「接続過剰」とはそういう意味です。
国家機密法だったけ、それの方簿を担いでるのが、過剰な接続だと思う。危うい社会!。
接続が過剰になると、相互監視に等しくなってしまう。ネット上での「楽しい相互監視」が、国家や企業が推進する「監視・管理社会」化を暗にサポートすることになっていないかと考えています。
過剰でなくて適度ならいいんだけど。日々何を食ったとか、今日何をしたかとか、過剰ですよ。
SNSは、適度に参加すれば、アイデアを得たり、共に考えたりできますが、重要なのは「適度」で、これが難しい。適度に放っておかれるというのは、互いの自律性を確保することを意味しますが、どんどん難しくなっている。接続過剰でも、切断過剰(引きこもり、見捨てること)でもない共生の術を情報社会においてどう考えるかが問題です。
下に書かれいること、全く同感。どうでもいいこと。新聞もどうでもいいことを報道するようになった、昔はどうでもいいことは週刊誌がマイナーあるいはマニアックな読者のために提供していたのに。。。。
そう、これで、つながりが軽薄化するのだ。おもいやり過剰、これからはおもてなし過剰、嫌な世界だ。
最小限でも反応を返すことが「思いやり」として目的化し、形骸化する。以前の携帯メールもそうでしたが、SNSとスマホの普及は、視聴覚を総動員し、ほとんど依存症のような状態を広げています。浅田 「接続過剰」な社会では「無視」が許されない。店の冷蔵庫でアルバイトが寝転がった写真がネット上で公開されて「炎上」する「バカッター問題」でも、無視すればいいのに、企業がネット上の批判を配慮して本人を解雇し、さらに損害賠償を求めるなんてことが起きる。昔なら「バカだな」ですんだ冗談なのに。
ジャック・アタリのジャック・アタリ『21世紀の歴史』: マーケティング・ブレインにも書かれていたけど、これからはプライバシーなどというものはなくなるそうだ。それが現実にどんどん加速している。
ところが、さらに15年経った今は、「誤配」の可能性よりも、昔つぶやいて忘れられたはずの問題発言さえ事後的に検索されてしまう、つまりいや応なくメッセージが届いてしまうことが問題になっている。そこまで発達したネットが、千葉さんの言う「接続過剰」の病理を生むばかりか、アメリカ国家安全保障局の契約職員だったエドワード・スノーデンが暴露したように、当局が望めば裏からすべてを見られる65億総監視社会を招来しつつある。ドゥルーズの言葉で言うなら「規律(ディシプリン)から監視(コントロール)へ」。個人に規範を内面化させずとも、個人をネットで監視し制御すればよくなったわけです。
中国の出来事と対比して日本は優等生社会という論調が多いが、中国を体験してきた私には、彼らの自由さは改めて感心させられる。もちろん、共産党の制約の中での個人の小さな銃だけど、彼らは成約されていることを知っていて、自由の良さ、大事さをよくわかっているような気がする。それに比べると、政府などの洗脳によって、自由な日本という中で、自由と錯覚している日本人の姿が目に映る。小さなことでは有給取得に地道を上げる人が多いが、そんなの関係なく、給料減らされても休みたいときに休むのがほんとうの自由だと思う。中国の人は、給料がへろうが休みたい時には自由に休んでいる。
深刻なのは、ことの重要性の程度を判断できなくなっていることです。バカッター問題にしても、どうでもいいことですよ。熟慮するべき問題は他にたくさんある。重要性の程度を判断する「仁義」が失われている。何でもかんでも可視化されるから、何でもかんでもを「シロ」にしないと気が済まない。これは「仁義なき優等生社会」ですね。いわば「不良」の存在を許さない社会になった。かつて「不良」は、規範から外れても「適度なグレーゾーン」で生き生きしていたのに、今日の「仁義なき優等生社会」では、システムからの単なる「落伍者(らくごしゃ)」にされてしまう。
そう極端だよね。
接続過剰の状況では、過敏に「道徳」がチェックされていると言える。一方では形骸化した「思いやり」のコミュニケーション、他方では残酷なまでの落伍者の排除という両極端になっている。
シロかクロかという単純化です。僕は、こうしたことが、かつての消費社会からの変化だと思います。90年代末の若者のコミュニケーションを「毛づくろい的」と評する見方がありましたが、その後のネット社会では、他者への配慮が形骸化し、消費の対象にまでなったかのようです。企業のカスタマーサービスのように、未然にトラブルの種を気にすることが過剰化する。現代哲学で議論されてきた「他者への応答責任」が形骸化されているともいえる。思いやりのサインを消費する社会、道徳の消費社会です。そこからの「切断」について考えたのが、10月に発表したドゥルーズ論『動きすぎてはいけない』です。
以下、なるほど、なるほど。CMの文化的取り上げ方は、いけないのかもしれない。
浅田 「接続過剰」な社会では、相手を傷つけてはいけないという予防的な「思いやり」(それは相手に反発されたくないという自己防衛でもある)がコミュニケーションを貧しくしてしまいます。
そこでは批評が不可能になる。「仲良くけんかしな」というルールの下でほめると同時にけなすのが批評なので、けなすとコミュニケーションが断絶するのでは批評は成り立たない。「壮大な失敗作だ」というのは最高のほめ言葉でもあるのに、そのニュアンスが伝わらなくなる。
かわって、書店員の書く「ポップ」やネット書店の読者によるレビューが重視されるけれど、それは商品の紹介や消費者の感想であって批評ではない。
うん、そうだ。
浅田 今の「若手論客」と呼ばれる人たちも総じてそんな感じでしょう。ネットを通じて、これまで無視されてきたマイノリティーの声なき声にも耳を傾けよう、うんぬん。
そもそも、「社会や人間のラディカルな変革を構想する左翼思想はもう古い、問題があればそのつどパッチを当てて処理する部分的社会工学しかない」という前提の上で、たとえば代議制民主主義が十分にマイノリティーの声を反映できないなら、ネットでの絶えざる国民投票で補完していこうといったことを考えるわけですね。
以下も納得。よくぞ、言ってくれたという感じ。
浅田 この30年の情報社会の発展を振り返ってみると、「べき乗」(累乗)的とも言える急速な変化にあらためて驚かされる。
千葉 でも、行われたことは実に単純です。「情報をためる」→「検索できる」ということだけ。
ひさしぶりに、熱くなった。笑
引用されている文献は読んでみたくなった。