昨日、福岡伸一さんの動的平衡を読み終えた。
すごくインパクトのある本だった。
今年の始めに出された本なので遅ればせながらの話題ということになる。
下のアマゾンの評価コメントを見るとほとんどいい評価だ。ベタ褒めに近い。
しかし、こういう本にありがちな一般読者にわかりやすい記述というのは、実際の現場にいる人にとってはちょっとそれはないだろうという表現も多いようだ。
私はエンジニアだけど、門外漢なので、このような生物化学的な分野は素人なので、わかりやすく、また面白く読んだ。
「生物と無生物」で書かれていた内容と同じような内容がここでも語られている。
私は以前から時間という概念が無限に過去から無限に未来へ向かうというのはロジックとしては不備であるとずっと思っている。
何回かこのブログでも書いたと思う。
今回、この動的平衡という概念で、この社会とか、人間という生き物を考えたとき、時間の概念の新たなロジックのヒントを得たような気がする。
すなわち、時間という概念はなく、瞬間瞬間の動的平衡の積み重ねしかないのではないかということだ。
そう考えたとき、過去も未来もないということ、時間はずっとつながっているという感じだ。
このあたりをもっと自分なりにロジックを組み立てたいと思う。
そういうヒントを得たことでこの本はすごいと思う。
もうひとつ。
下に引用したように「もし、生物が本当に機械であるなら、部品が壊れればとりかえればいいし、一度バラバラに分解して組み立てなおしても、再びちゃんと作動するはずである。 」ということが、成立しないことが証明されている。
全体のシステムとして生物は存在しているということ、パーツを置き換えても、作動しないのだ。
最後に、この本を読んで、そうか!と思った身近なことをあげておこう。
それはヒアルロン酸やコラーゲンをいくら口から食べても、体の中でヒアルロン酸にもコラーゲンにもならないということ。
つまり、体に吸収されるというのはヒアルロン酸もコラーゲンも一度アミノ酸に分解され、それが口から入ったヒアルロン酸になったりコラーゲンに直接なったりはしないということ、確率論的にそうなることもあるという程度の話だ。
また、人間のからだはちくわのようなもので、口から入ったものは胃や腸を通って排泄され、胃や腸にはいった状態はまだ体の外にあるということだそうだ。
胃や腸で消化されアミノ酸になれば初めて体の中に吸収されたということだそうだ。
これも目から鱗の面白い話だ。
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『生物と無生物のあいだ』の福岡伸一、待望の最新刊。「時間どろぼうの正体」「太らない食べ方」「生命は時計仕掛けか?」「病原体とヒトのいたちごっこ」「アンチ・アンチエイジング」ほか10年におよぶ画期的論考の決定版!
哲学する分子生物学者が問う「命の不思議」
生物を構成する分子は日々入れ替わっている。
私たちは「私たちが食べたもの」にすぎない。
すべての生物は分子の「流れ」の中の「淀み」なのである。
しかし、その肉体、タンパク質の集合体に、なぜ「いのち」が宿るのか。
遺伝子工学、最先端医学は生物を機械のように捉えていないか。
生命の「背景」にある「時間」を忘れていないか。
いったい、生命とは何なのか。哲学する分子生物学者が永遠の命題に挑む!
機械論とは、命を持つ生物に対する見方のことだ。生物とは、さまざまな「部品」から組み立てられた「機械」であるとするのが機械論である。もし、生物が本当に機械であるなら、部品が壊れればとりかえればいいし、一度バラバラに分解して組み立てなおしても、再びちゃんと作動するはずである。
機械論は確かに諸科学の発展に貢献してきたし、今も根強く残る。
著者も、もちろんこうした機械論的生命観に支えられた実験方法を利用して、生命現象の解明に取り組むことから始めたのだろう。だが、機械論では捉えきれない現象に彼は出会うことになる。ノックアウトマウスの例は印象的であった。ノックアウトマウスとは、人為的な操作によって遺伝子を毀損されたネズミのことである。機械論の図式で言えば、遺伝子は「部品」に対する「設計図」になるだろうか。設計図がなければ、当然、部品を作ることができず、また生物にとっては、ある部品がなければ、生命を維持できないはずである。が、ノックアウトマウスは、何事もなく平穏に生きているというのである。