![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/b5/4931fd8e4e6524bafee1dda86b9762ea.jpg)
昨日もちょっとお話ししました『与話情浮名横櫛』いわゆる「源氏店」は、私が入門してからでも今度で四回目となるくらいの、師匠の持ち役でございます。さすがにこれくらいこの芝居にたずさわりますと、弟子としての仕事もすっかり覚えることができました。以前の『巡業日記』でも触れた部分があるかもしれませんが、あらためてこまごまお話しさせていただきましょう(写真も載せられるようになったことですしね)。
与三郎は、意外と小道具を使います。まず懐にはうこん色の布でできた財布。口を綴じる紐はつけません。常式ですと横幅は六寸くらいなんですが、師匠の場合は、後にここから小判を取り出す時手を入れやすくするために、七寸くらいの幅に誂えてもらっております。
それから莨入れ。叺(かます)にむき出しの煙管を挟んで携帯する、<叺莨入れ>で、これは世話物の芝居で見られます。煙管はむき出しとはいえ、最初の一服は、あらかじめ雁首に詰めておきます。このお芝居では、舞台で四、五服は吸うでしょうか。ですので叺の中にも、多めの刻みたばこが入っております。
そして履物。鼻緒が、細い糸を束状にしたものになっております。これを<千本草履>と申しております。『義経千本桜』のいがみの権太もこの履物です。
あとは昨日お話しした小石、舞台にすでに置いてある<莨盆>。これらを使いながら、いかにも江戸、の粋な芝居を演じていらっしゃるわけですね。
頬冠りの<豆絞り>に関しましては、『巡業日記』の記事をご覧頂きたく思います(七月十六日分)が、巡業でも使用してきた手ぬぐいが、さすがにくたびれてきましたので、今月から、新しいものをおろしました。といっても簡単にはいかないもので、師匠自前の豆絞りのストックの中から、ちょうどいいシボの大きさのを選び、しかもかぶったときに真ん中になる部分(つまりお客様によく見えるところ)が、いちばん綺麗なシボの並びになるように切らなくてはなりませんでした。今までのよりほんの少しシボが大きくなりましたが、舞台では気にならない範囲。むしろ新規なので布のコシがあり、折り目の山形が綺麗につけられて、具合はとてもよいです。もう少しこなれれば、味も出てくると思っております。今月も、あいかわらずアイロン係です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/28/93147fe36cee830693e5be285684b8b8.jpg)
初めて二枚目の写真を載せてみましたが、こちらは<傷>の顔料と筆です。こちらは全て前回通り。今月は兄弟子と弟弟子が一緒に作っております。いずれこうした仕事も引き継がれてゆくことになるでしょう。
…私が初めて師匠の『源氏店』にたずさわったのは、平成十一年十一月の文化庁巡業でした。このときは序幕が『源氏店』、そして高麗屋(幸四郎)さんの『勧進帳』。師匠は与三郎で引っ込むと大急ぎで傷を落として、化粧を直し、次のお役の富樫左衛門へ早ごしらえでした。兄弟子方はみな番卒にでておりましたから、私と付き人さんと二人っきりで大わらわでした。
その時は、お富が「そんならお前は、私の兄さん」と驚くのを、多左衛門が「ああイヤ、火の用心を(柝の頭)頼みましたよ」で幕になっていたのですが、その後の平成十五年国立劇場での上演から、平成十七年の公文協巡業、そして今回も、多左衛門が去った後、再び番頭藤八が出てきてお富にしなだれかかるところに、奥から与三郎が出て悶絶させ、すっかり打ち解けたお富と二人並んで幕になるという演出になりました。どちらがどうとは申せませんが、二つの印象は大分変わりますね。
思えば師匠の与三郎に、蝙蝠安でお出になっていらした、音羽屋(松助)さんも、大和屋(坂東吉弥)さんも、もうこの世にはいらっしゃらないのです。本当に悲しいことです。
与三郎は、意外と小道具を使います。まず懐にはうこん色の布でできた財布。口を綴じる紐はつけません。常式ですと横幅は六寸くらいなんですが、師匠の場合は、後にここから小判を取り出す時手を入れやすくするために、七寸くらいの幅に誂えてもらっております。
それから莨入れ。叺(かます)にむき出しの煙管を挟んで携帯する、<叺莨入れ>で、これは世話物の芝居で見られます。煙管はむき出しとはいえ、最初の一服は、あらかじめ雁首に詰めておきます。このお芝居では、舞台で四、五服は吸うでしょうか。ですので叺の中にも、多めの刻みたばこが入っております。
そして履物。鼻緒が、細い糸を束状にしたものになっております。これを<千本草履>と申しております。『義経千本桜』のいがみの権太もこの履物です。
あとは昨日お話しした小石、舞台にすでに置いてある<莨盆>。これらを使いながら、いかにも江戸、の粋な芝居を演じていらっしゃるわけですね。
頬冠りの<豆絞り>に関しましては、『巡業日記』の記事をご覧頂きたく思います(七月十六日分)が、巡業でも使用してきた手ぬぐいが、さすがにくたびれてきましたので、今月から、新しいものをおろしました。といっても簡単にはいかないもので、師匠自前の豆絞りのストックの中から、ちょうどいいシボの大きさのを選び、しかもかぶったときに真ん中になる部分(つまりお客様によく見えるところ)が、いちばん綺麗なシボの並びになるように切らなくてはなりませんでした。今までのよりほんの少しシボが大きくなりましたが、舞台では気にならない範囲。むしろ新規なので布のコシがあり、折り目の山形が綺麗につけられて、具合はとてもよいです。もう少しこなれれば、味も出てくると思っております。今月も、あいかわらずアイロン係です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/28/93147fe36cee830693e5be285684b8b8.jpg)
初めて二枚目の写真を載せてみましたが、こちらは<傷>の顔料と筆です。こちらは全て前回通り。今月は兄弟子と弟弟子が一緒に作っております。いずれこうした仕事も引き継がれてゆくことになるでしょう。
…私が初めて師匠の『源氏店』にたずさわったのは、平成十一年十一月の文化庁巡業でした。このときは序幕が『源氏店』、そして高麗屋(幸四郎)さんの『勧進帳』。師匠は与三郎で引っ込むと大急ぎで傷を落として、化粧を直し、次のお役の富樫左衛門へ早ごしらえでした。兄弟子方はみな番卒にでておりましたから、私と付き人さんと二人っきりで大わらわでした。
その時は、お富が「そんならお前は、私の兄さん」と驚くのを、多左衛門が「ああイヤ、火の用心を(柝の頭)頼みましたよ」で幕になっていたのですが、その後の平成十五年国立劇場での上演から、平成十七年の公文協巡業、そして今回も、多左衛門が去った後、再び番頭藤八が出てきてお富にしなだれかかるところに、奥から与三郎が出て悶絶させ、すっかり打ち解けたお富と二人並んで幕になるという演出になりました。どちらがどうとは申せませんが、二つの印象は大分変わりますね。
思えば師匠の与三郎に、蝙蝠安でお出になっていらした、音羽屋(松助)さんも、大和屋(坂東吉弥)さんも、もうこの世にはいらっしゃらないのです。本当に悲しいことです。
あの年は自分でも異常だと感じるくらい劇場に行き歌舞伎を見ましたが、そのどの機会にも坂東吉弥さんが脇役で出演していらしたのを記憶しています(一番印象に残っているのはその年の11月、天王寺屋さんの代役で勤められた「河庄」の孫右衛門)。たびたび紹介していますが戦前からの歌舞伎通の我が祖父は「脇役のいい役者が居るのと居ないのとでは芝居の出来はまったく変わる」と私に教えてくれましたが、吉弥さんのお芝居は脇役でありながらとてもよく印象に残っておりました。「歌舞伎見物の楽しみが一つ増えた」と思っていた矢先、翌年の四月に新聞で吉弥さんの訃報を見たときには驚き、ショックを受けました。生前最後の舞台は亡くなる前の月、歌舞伎座で「千本桜」の「すし屋」で、梅玉さんの弥助惟盛に吉弥さんの弥左衛門。その舞台も見ましたが、お元気だと思ったのに、残念です。
名題も名題下もそれなしでは歌舞伎が成り立たない大事な役者さん達です。いつもこちらからも情熱を入れて見ています。これからも一役一役を大事にしていただきたいです。
ところで、今月の博多の与三郎の傷跡は前より褐色がかって見えましたが、気のせいでしょうか。