梅之芝居日記

歌舞伎俳優の修行をはじめてから15年がたちました。
日々の舞台の記録、お芝居ばなし等、お楽しみ下さい。

いまだ宿題を果たせず

2009年03月05日 | 芝居
『御浜御殿綱豊卿』の大詰は、“お浜遊び”の宴もたけなわ、吉良上野介がご趣向で後シテを舞うという『望月』の舞台裏が描かれます。
出の謡が始まり、橋懸かりを進み行く後シテ。赤穂浪士富森助右衛門が、怨敵吉良と狙い槍を突き刺したのは、実は最前まで激論を交わしていた徳川綱豊でした。助右衛門の短慮無分別を、綱豊卿は滔々と諭し、真の忠義を説き、やがて颯爽と舞台へと赴きます…。

能『望月』も、敵討ちを描いた作品です。信濃の国の安田荘司友治が、望月秋長によって殺され、残された妻と子が放浪するうち、近江の国で旅籠を営んでいた昔の家臣、小澤刑部友房に再会。偶然止まり合わせた仇の望月に、刑部は妻子を流浪の芸人と偽ってひきあわせ、諸々の芸を見せて油断させ、ついに仇を討たせるというのがあらすじ。
後に長唄にも移され、歌舞伎舞踊として上演されてもいます(師匠も先年、『大望月』の題名で、素踊り形式により、仇の望月を演じられました)。

綱豊が扮していた後シテは、刑部友房が望月に“獅子舞”を披露するという設定での装束で、牡丹の花を戴いた獅子頭をかぶっているのはそのためです(出の直前に、舞台上手にあるというつもりの能舞台から聞こえてくる地謡も、「獅子團乱旋(ししとらでん)は時を知る…」)。獅子そのものが登場する『石橋』とは違い、あくまで獅子の真似事ということですね。
一番上に着ている、織物の装束は、お能では“厚板”とおっしゃるそうですが、あれはお能ですと、終盤で獅子頭とともに自ら脱ぎ去り、安田の家臣の正体を現すわけです。

先年、師匠が国立劇場でこの綱豊卿をなすったおり、せっかくなのでお能の『望月』を勉強したく、謡本を読んだりしましたが、ちょうど友人に観世のお能の方がおりましたので、装束の着付け方など伺えたらと思ったのですけれど、舞台上で脱げる着方は多分に企業秘密的なところがあるそうで、いまだ本行を存ぜぬままでございます。
いつか、実際に『望月』を拝見できたら、少しは推察もできるところもあるかとは思うのですが、はてさていつになりますことやら…。