8月8日。92歳になる伯母の誕生日を祝うために、故郷の信州に行ってきました。
3年前に亡くなった父の姉。生まれたのは西暦1919年。第1次世界大戦が終わって「パリ平和条約」が結ばれた年だそうな。我々にとっては歴史の授業でしか聞いたことのない時代の話。でもそんな時代に生まれた伯母が元気でいるのがうれしい。独身で小学校教諭を定年まで貫いてきた伯母。わしの大好きな伯母だ。
この日は、一番下の伯母、わしの母親、弟、弟の嫁さん、そしてわしの5人で伯母の誕生日(実際は8月下旬だが)を祝った。
おまけ。
この日、伯母の誕生日を祝った旅館から見た雲。「何だ!?この色は!」と、びっくりするような赤い雲でした。
この雲の下は、多分菅平高原。
12〜13日にかけて、66歳の母と中2の娘と中1の息子と一緒に富士山に行ってきました。
足が攣りやすい母の事が心配だったので、一昨年登ったルートと同じ、須走で行き8合目に宿泊という流れを取りました。
母は6合目に着く前に早くも足が上がらなくなりましたが、1メートル歩いては5分休憩というペースで登ったため、高山病にもならず無事山小屋に到着。
翌日は御来光の後登り始めて山頂まで行き、午後3時には5合目に戻りました。
かなり無理かなとは思いましたが、去年の春に他界した大正7年生まれの祖父が富士山が好きで、もう一度行きたかったと言いながら亡くなったので、今回は何がなんでも登頂したかったのだそうです。
若い頃は毎年板を担いで登り富士スキーをしていたという祖父の話を聴きながら育ちましたが、未だに私はチャレンジしていません。
骨折したときは片足で降りてきたとも言っていました。
大正生まれおそるべしです。
88歳の時は昔の方法で登りたいと言って1合目から歩いて登ったのですが、途中で足が上がらなくなり7合目で下山したそうで、それが最後の富士山になったようです。
娘と息子とはそのうち、懐かしの「白馬トレッキングルート」を行きたいと思っています。
大正生まれって元気だとよく聞くけど、本当にそうなのかもって思いますね。
懐かしいです。
もう20年近く昔の話です。
自然に入ると自然の中で暮らしたいと思ってしまいますが、生きていく手段がなくまた都会暮らしに戻ってしまいます。
子供たちが独立したら拠点のない暮らし(昔、海外ルンペンというあだ名の子がいましたが)をしたいとも思っています。
都会の便利さから抜けられないというのが本音かも。