タカ長のタカの渡り観察

タカが好き、山が好き、花が好き、心はいつも旅もよう。日々移ろいゆく心もようを綴るナチュラリストのつぶやきです。

平戸島志々伎山のこと

2019年09月05日 | 山歩きから
タカ長が志々伎山に登ったことを知っている鳥友が、面白い資料を送ってくれました。

『中世の神仏と古道』戸田芳実著 (吉川弘文館 1995年)です。あまり長文でもないのでそのまま紹介します。このブログが横組なので、算用数字など若干の書きかえをしています。

タカ長はこの志々伎山に3回登っています。そのときに撮った写真の中から、この文の理解に参考になりそうなものを貼りつけます。同じ日の撮影ではありません。順序も若干ずれています。そのことを了解してご覧ください。志々伎山の雰囲気だけはお分かり頂けるはずです。

    

    

九州再会地方の海原と島々を見たくて、この春、平戸・五島の辺地を歩いた。平戸島の南端にそびえる志々伎山に登るのも目的のひとつであった。この名山は標高347メートルだが、海面から断崖になって直立し、山頂の岩壁が天を突く奇峰である。何処から見ても目立つので、古来、この海域の重要な航路標識とされてきた。

    

    
              この写真は福良港から撮ったものです。

 山の西側にある宮ノ浦は、古くから大船が出入した要港で、ここに式内社志々伎神社の興津宮と辺津宮が鎮座し、港から東の山の背後に、志々伎山頂が巨人の頭のような岩峰をのぞかせている。見ようでは、山越しの阿弥陀如来を思わせる姿である。ふもとの沖の宮と地の宮に対して、山上には中腹に中津宮、絶頂に上津宮が祀られている。北麓の野古にある阿弥陀寺前から、苔むした旧参道が原生林の奥へと続く。

    

    

    

    


『肥前国風土記』によると、景行天皇が、「志式島の行宮」に巡幸して西の海を見渡すと、海中に「けぶり」におおわれた島(五島列島)が望まれた。天皇が「この島は遠けれども、なお近きが如く見ゆ。近島と言うべし」と言ったので、五島を「値嘉島(ちかのしま)」と称したという。こうした古代首長の「国見」の場所としては志々伎山上が最もふさわしいと思われたので、荒れた旧登山道を踏んで山頂をめざした。

     

     

 広い社地を占めた「中宮」(標高180メートル)を過ぎ、その暗い樹林の細道をたどると、大きな露岩の上に出て展望が開ける。頭上には山頂西面の尖峰がのしかかり、眼下には西海の陽光に輝く海面がひろがっている。前回十数年まえにはひとりでここまで登ってきて、宇久島・野崎島・中通島など上五島の島々を遠望したが、今回、水平線は春の黄砂の中にかすんでいた。

    



    
 
 そこから山上への道は、大岩壁のすそを迂回し、ロープを伝って急登しながら東寄りの稜線に達し、そこから左右が絶壁になったヤセ尾根をたどり、絶頂の上宮の石祠へ通じている。さえぎるもののない西海松浦地方の大展望は、目を見張るばかりであったが、絶壁に囲まれた先端では足もすくむ思いで、高所恐怖症の人に勧めるにはいささか躊躇されるところである。

    

    

    

    

    

    

 中世松浦党時代の志々伎山は、「下松浦明神」として崇められた。旧記に引く弘安7年(1284)の同社大宮司源家秀の申状によると、同4年、モンゴルの軍船が襲来したとき、最初の一艘が「当社神前」で「漂倒」し、これが「異賊退散の表示」となり、この神の「本誓」によって賊船が破滅したとされている(『大日本地名辞書』第4巻)。志々伎山は元軍にとっても航路の好目標となったのだろうが、接近した軍船が水路を誤って座礁覆没したものらしい。今度来たときは、海上から志々伎山をふり仰ぎ、その神事やこの海域の風浪・潮流・岩礁などについて、話をきいてみたい気がする。

    

    

    
    

          戸田芳実『中世の神仏と古道』1995年 吉川弘文館

タカ長にとっては、志々伎山一帯はタカの渡りの観察地です。しかし、登山する山としても志々伎山は、低山ながら第一級の山だと思っています。

このブログを読んでくださる友だちは広島にも多数いますが、そのお友だちにひと言コメントします。

志々伎山はいい山ですよ。わざわざ広島から行っても損はさせません。貴方の山行きプランに志々伎山を加えて下さい。平戸市長になりかわり、お願いいたします。