歳をとることは悪いことばかりではないと思うことがあります。
少しは人生経験を積んで、自分のことや人のことを少しは客観的に見ることが出来るような、、、
そのような気持ちになるのもその一つです。
ここで言う「人」の代表が、いつも身近にいる配偶者、タカ長にとってはタカカノです。
そのタカカノが何かドジをしたら、若いころなら𠮟責し、喧嘩をし、、、、ということになっていましたが、、、
この歳になるとタカカノのドジを笑って見ることが出来るようになっています。常に、100%とは言えないかも分かりませんが、、、、、。
文化勲章を受けた作家吉川英治の言葉に「我以外皆我師」というのがあるのを知ったのはずいぶん前のことです。
私たちは何も持たないで、白紙の状態でこの世に生を受け、親や親族、そして友だちなど身のまわりの多くの人に育てられ、、、
そればかりではなくて、花や鳥など自然のものからも多くのものを教えられ、人として成長してゆくのですから、言葉としてはこの意味が分かるのですが、、、、
諸事、出来の悪いタカ長としてはなかなか吉川英治の心境にはなれません。
そのようなことは当たり前で、吉川英治の心境になって勉強していたら、文化勲章とはいいませんが、それなりの賞の一つや二つは受けているはずです。
それが出来ないところが凡人の悲しいところですが、、、
これまで出会ってきたすべての人、そのすべての人が「わが師」とは思えないのです。
このあたりが文化勲章作家と凡人との差なのでしょうか?
凡人タカ長が引っ掛かるのは「皆我師」の「皆」、、、、つまり、100%であるところです。
これまでの人生で出会った人すべてが自分の師、自分の先生とストレートに理解できないのですが、、、
その「師」、「先生」の前に「半面」というふた文字をつけると、何となくこの言葉の意味が理解できるようなきがするのです。
文字通りの「師」「先生」と「反面」という二文字をつけた先生、その二つを合わせて100%なら理解できるような気がするのです。
菊の日や もう一度紺がすり 来てみたし
吉川英治が文化勲章の受賞氏に行く朝に詠んだ句です。
誰もがもらうことが出来ない文化勲章を受けても、ここで反り返ってはいけない、もう一度書生時代の気持ちになって勉強しなければならないという謙虚な気持ちを詠んだ句ですが、、、
凡人タカ長としては文字通りの先生と反面教師の指導を受けながら、少しでも自分を高めてゆきたいと考えているのです。
有難いことには、凡人としては、自分のことは分からなくても人の弱点は目につきますから、、、、
あのような人にはならないようにしよう、あのようなことはしないように気をつけよう、、、、
という気持ちでいれば「我以外皆我師」という意味が何となく分かるような気がするのです。