[戦後76年]戦争マラリア 教訓継承 遺族の悲しみ癒えず 竹富犠牲者の冥福祈る
【竹富島=竹富】町主催の戦没者追悼式が23日、竹富島の慰霊之塔前で行われた。西大舛高旬町長や仲田森和教育長、遺族ら約20人が出席。先の大戦の犠牲者に対して手を合わせ、祈りをささげた。西大舛町長は式辞で「戦争マラリアで多くの住民が犠牲になった。今も忘れることができない深い悲しみで、決して癒やせるものではない。戦争の教訓を風化させることなく継承し、八重山から世界へ平和を発信していくことが私たちの責務だ」と訴えた。
県遺族連合会女性部長の大山幸子さん(79)=石垣市=は、喜友名盛允同会八重山支部長の「追悼のことば」を代読。「二度と私たちのような戦没者遺族を出さないために、平和のありがたさを後世にわたり語り継いでいかなければならない」と語った。
大山さんは台湾で郵便局員として働いていた父を亡くした。通信兵として軍に従事していた南洋諸島で戦死したという。「ただ、どうして死んだのか、最期にみとった人がいたのかなどは一切分からない。この年になっても親は親。手掛かりが知りたい」と唇をかんだ。
一般参加の島仲彌喜さん(75)=竹富島=は「伯父が犠牲になった。当たり前のことだが戦争のない平和な社会が望ましい」と話した。
(写図説明)慰霊碑に手を合わせ犠牲者の冥福を祈る遺族の女性=23日、竹富島
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沖縄2紙は、「残虐非道の日本軍」の印象付けとして教科書に「集団自決」に加えて「戦争マラリア」の記述を次のターゲットに持ち出している。
軍の命令は「集団自決」のみならず「戦争マラリヤ」も、軍の強制連行の結果だというのだ。
ということは「戦争マラリア」も軍の命令で在り、結局「援護法」の対象になるということ。
戦時中に病死した県民は全て軍への協力で衰弱死したので「援護法」の対象になるということか。
第一部 風は南から⑥ 戦争マラリア
「島に“亡霊” いれぬ」
≪八重山地域の中学校でこち氏4月から使われる公民教科書採択をめぐっては、竹富町教委だけが「新しい歴史教科書をつくる会」系の育鵬社版の採用を拒み続けている。
戦争マラリヤに関する記述がない出版社の公民教科書を拒否する同町の慶田盛安三教育長(70)の毅然とした姿勢の背景には、自身の戦争体験がある。
慶田盛教育長は波照間島出身。 4歳のとき由布島に疎開し、故郷に戻ってマラリヤに罹患(りかん)した。
親族が犠牲になり、ムシロでくるまれた遺体を運ぶ光景や腐臭は今も記憶から消えない。
「スポンジのように吸収する子どもには、尖閣で国防や愛国心をあおるのではなく、八重山であった悲しい悲しい歴史を通し、平和を考える教育が必要だ」。 慶田盛教育長は「二度と子どもたちを犠牲にしない」という思いと戦争への怒りを何度も口にした。
波照間島で教科書問題について尋ねると、慶田盛教育長の姿勢を支持する人がほとんどだった。 元波照間公民館長の浦仲博さん(88)もその1人だ。
浦仲さんは、今回の教科書問題と、31年前の苦い記憶を重ねる。 1981年8月7日、太平洋戦争末期に島民を日本刀で脅し、マラリヤの汚染地域に強制的に疎開させた山下虎郎(本名・筒井清)軍曹が、ひっそり島を訪れていた。
「・・・戦前の軍国主義の亡霊を呼び戻すように来島したことについて、全住民は満身の怒りをこめて抗議する」。 島の代表として本人に付き付けたた抗議書。 両親と親戚9人を失った妻の苦しみを思うと、今も怒りに震える。
「島民の傷は一生消えない。 戦争につながるものは島に入れさせない」。 浦仲さんは八重山の今を思い、言葉に力をこめた。(復帰40年取材班・吉川毅)≫(沖縄タイムス 2012年1月11日)
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沖縄県民でさえ「戦争マラリア」という言葉そのものを詳しく知っている人は、非常に少ない。
かく言う筆者も若いころ初めてこの言葉に接したとき、次のように誤解した。
「残虐非道の日本軍」は沖縄人虐殺のため「死亡率の高い特殊なマラリア」を研究し、多くの八重山住民がその犠牲になったことを指す、と。
さて、沖縄タイムの沖縄戦シリーズの第6回だが、先ず目に付くのは記事の冒頭から相変わらずのデタラメを撒き散らしていることだ。
>戦争マラリヤに関する記述がない出版社の公民教科書を拒否する同町の慶田盛安三教育長(70)の毅然とした姿勢の背景には、自身の戦争体験がある。
「戦争マラリア」とは沖縄戦の問題であり、記述するとしたら歴史教科書が適当である。
だが、八重山地区協議会は戦争マラリアの記述のある帝国書院版歴史教科書を選定しており、これには慶田盛竹富町教育長も、当然事ながら、何の反対も示していない。
「戦争マラリアに関する記述がない出版社の公民教科書は拒否する」とは、これこそヤクザの言いがかりだ。
では、そもそも戦争マラリアとは一体何なのか。
沖縄タイムス上記シリーズの悪意に満ちた「解説記事」によるとこうなっている。
▼[ことば]
戦争マラリア
太平洋戦争末期、八重山の住民が旧日本軍の命令でマラリアの有病地帯の西表島屋石垣島の山岳部などに強制疎開させられ、多くの人々が亡くなった。 八重山平和祈念館によると、犠牲者は3647人。 波照間島では、スパイ養成機関の陸軍仲の学校を卒業した人物が偽名で島に忍び込み、全党住民1600人を日本刀で脅し、マラリア汚染地域に疎開させた。 島民のほとんどが感染、477人が犠牲になった。
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事実誤認と「残虐非道な日本軍」の印象操作に必死の悪意に満ちた「解説記事」だが、ここで明らかのなのは戦争マラリアと言っても、日本軍が特殊なマラリア菌を培養したわけではない。
戦前は八重山地区のみならず沖縄県全域、いや、日本全国で見られた一般的マラリアのことである。
八重山地区の離島の山岳地帯には特にマラリアを媒介する蚊の群生が見られ、戦時中米軍の攻撃から避難するため離島の山岳地帯への疎開を誘導した日本軍への恨みつらみを込めて「戦争マラリア」と特別に呼称しているのだ。
これを「軍の強制」と性格付けすることにより「集団自決」と同じように「援護法」の対象にしようというのが「ゆすりたかり」を生業(なりわい)とするサヨク集団の主張なのである。
従って、喧伝されるされるように、日本軍が八重山住民を「マラリア非発生地域」から「マラリア発生地域」に強制連行したわけではない。
それは波照間島出身の慶田盛氏が疎開地の由布島では罹患せずに、故郷の波照間島に帰郷してからマラリアに罹患した事実を見ても明らかである。
筆者の小学校時代は、夏の蚊のシーズンになると「蚊に刺されるとマラリアになる」とはごく普通の会話で語られていた。
戦前からマラリアに悩まされていた沖縄がマラリアに決別を告げるのは、結局は沖縄を占領した米軍の殺虫剤の大量散布などのマラリア撲滅活動の賜物である。
八重山のマラリア撲滅運動は大正時代から始まるが成功せず、戦後、米軍の圧倒的なマラリア撲滅活動により、最後の患者が出たのは1963年であるとのこと。
ドキュメンタリー作家上原正稔さんが検証した米軍側の資料によると、マラリアの罹患者は八重山地区より沖縄本島の方が多く、沖縄全体がマラリア撲滅に成功するのは祖国復帰後、沖縄県公衆衛生大会において沖縄から風土病としてのマラリアがなくなったことが宣言される1978年のことである。
さらに疎開という言葉さえ死語になりつつある現在「日本刀を突きつけてマラリア汚染地域に強制疎開させた」という「解説」は、まるで「空気の清浄な地域の住民を放射能汚染地域に強制移住させた」といった極めて悪質な印象操作を感じる。
結局、沖縄タイムスが言いたいことは、こうだ。
「戦争マラリアは軍の強制!援護金の対象」と、