狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

【新聞が報じない現地調査の実態!】 県議団調査団の醜態

2007-07-10 06:30:44 | ★集団自決

「虹が消えるまで」さんのブログで次のような至言を見つけた。
http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=522442&log=20070623 

「三つの敵意ある新聞は千の銃剣よりも恐ろしい。」

                                       ◆

現在の沖縄は三つどころか、たった二つの敵意ある新聞によって完全に思想統制の状況にある。

二つの新聞は“民意”を創作し、“民意”を煽動する。

「『集団自決』が軍命令によることは歴史の事実である」、・・・

これを合言葉に、全県を揺るがす大キャンペーンを展開しほぼこれに成功した。

だが、良識ある県民の目は節穴ではなかった。

徐々に造られた民意の綻びが目立ち始めた。

知らぬは「報道の自由」の座に胡坐を書く新聞だけだった。

 

沖縄の全市町村議会、そして県議会の議決にまでこぎつけて政府に「教科書検定意見書撤回」の意見書提出。

これを拒否されると県議会の文教委員ら16名による、現地調査をおこなった。

ことの順序が、後先(あとさき)なのはここでは問うまい。

問題は現地で「集団自決」の生き残りとして現地を案内し貴重な証言をした二人の証言者のことてである。

県議会文厚委 検定撤回へ現地調査

 文部科学省の教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する日本軍強制などの記述が修正・削除された問題で、県議会文教厚生委員会(前島明男委員長)は6日午前、渡嘉敷島で「自決」現場を視察したほか、「集団自決」の生存者らから聞き取り調査を始めた。午後には座間味島に渡り調査する。

(7/6 16:05)全文 >>

「集団自決」の生存者から当時の話を聞く県議会文教厚生委員会の委員ら=6日午前10時半ごろ、渡嘉敷村

上記に再掲した新報記事の写真でも自明の通り、調査団を先頭で案内した当時14歳の金城さん(75)の証言は新聞では肝心の部分は完全に封鎖殺された。

一方、当時僅か6歳の吉川さん(67)の証言は事細かに取り上げ「軍命令はあった」と結論付けている。

ところが、当日現地調査に立ち会ったと思われる読者から貴重なコメントを頂いた。

[論点のすり替え (前慶良間人)  2007-07-08 16:56:32
 
 
問題の始まりは、タイムスの「鉄の暴風」にある。 タイムスは非を認めたくないがため、キャンペーンを張って作り話を実話風に仕立てあげている。

 「命語い」シリーズで地元出身者に語らせているが、冤罪訴訟の争点、「軍命について」は、誰一人として期待に叶う証言はしていない。渡嘉敷島の軍命の有無についてはこのことから既に明らかである。

 最近では論点をすり替え、軍国主義、軍隊の駐留そのものが悪かったと論調を変えつつあるのは、「古傷に触られたくない」ことの証であろう。
 
 県議会の渡嘉敷島視察で、金城武徳さんに対する質問で次のような発言がありました。
 要旨、「私は、社会科の教師を30年近くやってきました。よってこの問題には造詣があります。」「戦争を美化しないで下さい。」等…明らかに田舎の老人と見下し、赤松さんと親交があったと言うことで、彼の代弁者と見なしていました。
 15歳!で生き残ってきた証言者に対しての、「決め付け」発言に、これが元教師かと正直思いました。
 又、その席で吉川先生から、次のような発言もありました。「自決命令は、無かったかもしれないが、軍隊がいたから集団自決は起こった。軍国主義教育があったからあのような悲劇は起こった。」

 県議の中には、みんなが認めていることだから云々と唖然とする発言者もおりましたし、自民議員も早く話しをまとめようとするばかりで、真相を確かめようとする熱意はほとんど感じられませんでした。

>、「私は、社会科の教師を30年近くやってきました。よってこの問題には造詣があります。」「戦争を美化しないで下さい。」等…

先ず、県議文教委員の調査団の中には「元教師」、或いは教育関係者がいたことが分る。

沖教組といえば「平和活動」、「日本軍残虐説」の牙城。

しかも彼らは「社会化の教師でこの問題の専門家」として調査団の意見をリードし、予断に満ちた調査だったことが伺える。

このようなアレな男たちで構成される調査団の結論は調査前から決まっていた。 

他にも「皆が認めたのだから、早くまとめて帰ろう」といった予定調和の議員もいたようだ。

県議の中には、みんなが認めていることだから云々と唖然とする発言者もおりましたし、自民議員も早く話しをまとめようとするばかりで、真相を確かめようとする熱意はほとんど感じられませんでした。

自民党議員の中には最後まで議決に反対した良識ある議員もいたと聞いたが、自民党でも文教委ともなると,

「皆で決めれば怖くない」だったことがわかる。

このように初めから結論ありきの調査団だったら、税金の無駄遣いだ。

少なくとも県民の血税を浪費して、偏向マスコミに協力することは沖縄県民の「民意」ではないはずだ。

 

その席で吉川先生から、次のような発言もありました。「自決命令は、無かったかもしれないが、軍隊がいたから集団自決は起こった。軍国主義教育があったからあのような悲劇は起こった。」

まずこの吉川さんが元教師だったことが分る。しかも新聞報道とはニュアンスが異なり「自決命令は、無かったかもしれないが・・」となっており、明らかに「軍命令を否定している」ではないか。

「軍国主義教育があったからあのような悲劇は起こった。」という証言はサヨク学者の定番で、何もわざわざ現地聞き取り調査をして述べる証言では無い。

さすがに琉球新報記事では二人の「軍命令はなかった」という証言で逆の結論の記事は書くのは困難と見たのか、別の証言者を引っ張りだして焦点をずらした内容になっている。

 

だが、沖縄タイムスは恥知らずにも

「証言を聞き終えた前島委員長は「検定意見削除は県民の総意だ。文科省にさらに強く訴えていく」という文で締めくくっている。

そう、タイムスは己が創作した“県民の総意”が重要であり、重要証人の証言などどうでも良かったのだ。

沖縄タイムスは結局、聞き取り調査の証言は又しても封殺して、自分が作ったシナリオ・「県民の総意」さえあれば、歴史の事実を捏造できると信じているのか。
  
◆沖縄タイムス;「集団自決」の現場視察 県議会文厚委【写真】

 

付け加えると、この元教師の吉川さんは、最近(4月19日)まで渡嘉敷村の教育委員長を勤めていた教員上がりの村の偉い人でもある。http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/vill_inf/so_6/so_6_01.htm

このように沖教組関連の「平和教育」でどっぷり使った文教委員議員団の調査は、形だけのアリバイ作りのためだけの噴飯モノあった。

ちなみにこの吉川さん、島に戻った今は、地元の子どもや修学旅行生を相手に平和学習の案内役をしていると言う。

そう、吉川さんは証言者である一方、「平和学習」の語り部でもあったのです。

いくら語り部でも、日本軍の残虐さは語って語っても「自決命令は、無かったかもしれないが、軍隊がいたから集団自決は起こった。軍国主義教育があったからあのような悲劇は起こった。」と語るのが精一杯だったのでしょう。

参考:「平和学習」
埼玉の中3生、修学旅行で「集団自決」地に 「平和」努力を決意 カメラ  (7/5 16:05)

 

この吉川さんが証言するのは今回が始めてではない。

今年の慰霊の日の朝日新聞の記事で証言している。

だが、「軍曹が命じた」と巧妙に作文された朝日記事でも

吉川さんは一言も「軍の命令」とは証言していない。

 

http://www.asahi.com/national/update/0623/SEB200706230011
.html

62年前に見た集団自決の現場 「軍曹が命じた」
2007年06月23日15時30分

 沖縄戦の戦没者ら約24万人の名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」。糸満市摩文仁(まぶに)に立ち並ぶ碑の前で23日朝、元中学校教諭の吉川嘉勝さん(68)は妻の英子さん(68)と一緒に静かに手を合わせた。礎には米軍の艦砲射撃で亡くなった父の名がある。

 62年前、吉川さんは「集団自決」の現場にいた。

 那覇市の西約30キロにある渡嘉敷島。周囲25キロの島に米軍が上陸したのは45年3月27日のことだ。住民らは土砂降りの雨の中、島北部の通称「北山」を目指した。吉川さんと家族もその中にいた。当時6歳だった。

 「集団自決」が起きたのは翌28日。たどり着いた山中で家族や親類ごとに円陣を組んで座った。村長の短い訓示の後、「天皇陛下万歳」の叫びとともに、あちこちで手投げ弾が爆発した。

 吉川さんの家族ら約10人が輪になった中でも、義兄らが手投げ弾を石に打ち付けた。だが、爆発しない。父は「火を燃やして、投げ入れろ」と指示した。

 母が叫んだ。「手投げ弾を捨てろ」。生きられるだけ生きるべきだと必死に訴えていた、と吉川さんは振り返る。家族はその場を逃れた。

 母が教えてくれた「命の重さ」を伝えるため、吉川さんは教師になった。校長を最後に教職を退き、島に戻った今は、地元の子どもや修学旅行生を相手に平和学習の案内役を務める。「自分たちの歴史を知り、戦争のない社会をつくってほしい」と語り続ける。

 その島で、沖縄国際大名誉教授の安仁屋政昭さん(72)は88年、かつて村の兵事主任だった故富山真順さんから、ある証言を聞いている。

 富山さんは45年3月20日、戦隊からの命令で17歳未満の少年と役場職員を役場の庭に集めた。兵器係の軍曹が住民二十数人に手投げ弾を2個ずつ配り、「敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのある時は残りの1発で自決せよ」と訓示した、という。

 沖縄ではいま、「集団自決」を巡る教科書検定で「日本軍による強制」が削除されたことに強い反発が起きている。安仁屋さんは言う。「富山さんの話は自決命令の存在を示す重要な証言だ」
 
朝日新聞は、既に「集団自決」の「軍命令論争」で敗北していることを承知している。

子分ともいえる沖縄タイムスが暴走するの止められず、当たり障りの無い記事でしか援護できない、・・・というより、既に敵前逃亡を決め込んでいる。(朝日の敵前逃亡 沖縄の「集団自決」 

 

最後に、一読者のコメントを鵜呑みにした記事を書くな、という方のために、次の事実を指摘しておこう。

先ず、県議調査団は当時14歳の金城さんの証言を封殺し、当時6歳の吉川さんの証言のみを取り上げた。

これまでも学術調査団が何度も現地調査を行っており、「軍命令はなかった」という多くの証言者がいたが、これらは地元マスコミに載ることはなかった。(例えば宮平さん→★文末に引用)

以下の金城さんの証言を聞けば、コメントの内容の信憑性が裏付けられる。

■【動画と“新聞証言”の違い】

いずれにせよ、マスコミは自分等に不都合な事実は報じない。(これは金城さんも言っている)

琉球新報、沖縄タイムスが「集団自決」の生き残りで当時14歳の金城さんの証言をどのように歪曲して報じたか、つぎの【動画】で確かめて欲しい。

【動画・金城武徳さんの証言】http://www.youtube.com/v/P16oG_3X89o

 

連日紙面を飾るのは「多くの悲惨な証言がある」と言う極めて曖昧な記事のがオドロオドロしく報じられる。

確かに沖縄戦で悲惨な体験をした人は数多くいるだろう。

だが、「数多くの悲惨な証言」を必死で「軍命令で集団自決した」の結論にもっていこうと紙面づくりに追われているのが地元二紙だ。

信頼できる研究者と、良識ある証言者達は皆「その事実」に気がついている。

王様気取りで民意をもてあそぶ地元二紙はさだめし「裸の王様」と言えよう。

 

 服部先生の聞き取り調査

■「軍命令のはずがない」http://www.jiyuu-shikan.org/tokushu2_hattori1.html

座間味島で一夜を明かし、翌21日朝、最初の聞き取り調査に応じていただいたのは、宮平敏勝さんである。昭和3年生まれの宮平さんは、20年2月末、17歳で戦隊本部付きの伝令として徴用された。「軍属です。左腕に星(☆)ひとつですよ」とおっしゃっていた。「17歳でですか」の質問に、生まれ月が早い者は防衛隊に任命されたとのことで、同級生四人中、宮平さんだけが徴用にあたったという。

徴用されてすぐに米軍が上陸、熾烈な戦闘になった。4月11日、擲弾筒で左腿を負傷。その後、梅澤隊長より集合がかかり、「これ以上戦闘は困難ゆえ、皆親元に返れ」との解散命令が出る。民間人は米軍に捕まっても、すぐに解放されたので無事だった由。以下、宮平さんの証言の要点を記す。

集団自決(3月25日、米軍上陸の日)については、宮平さん自身は「軍と行動を共にしていて、山中にいたので自決のことは全く知らなかった。解散命令が出て、山を下りた時、初めて知った」という。戦闘が始まって以降、軍は「民間人との接触はほとんどなかった」のである。「もし、自決が軍命令なら、伝令である自分が知っている。軍命令のはずがない」と断定された。宮平さんは自決現場そのものには居合わせなかったとはいえ、有力な傍証である。

 

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