たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

山上集落

2017-12-16 13:36:00 | 剣山・イスラエル

<落合集落展望所>

 

「かかしの里」を出て次に向かったのは、

東祖谷中上にある落合集落展望所です。

近隣にある目的の神社を目指す前に、

山上集落の全貌が一望できるこの場所で、

祖谷で暮らした古代の人々の様子を、

妄想してみようと思い立ち寄ったのでした。

 

すでにいくつかの山上集落を見てきましたが、

こちらの落合集落は、その中でも規模が大きく、

「これぞ祖谷」とでも表現したくなるような

圧巻の光景が広がっております。

まるで等高線に沿うかのように立ち並ぶ家々は、

この地ならではの独特の空気を生み出していました。

 

ちなみに、かかしの里で出会ったおばあさんいわく、

「落合は結構若い人が住んでいる」のだとか。

確かに、周辺の道路はきちんと整備され、

麓の町との往来も便利なのでしょう。

都会から田舎への移住がブームとは言え、

やはり「暮らしやすさ」で振り落とされる

他の限界集落の側に立ってみると、

何とも複雑な気持ちを抱いてしまいます。


日本のチベット

2017-12-15 10:08:55 | 剣山・イスラエル

<東祖谷名頃・かかしの里>

 

「日本のチベット」との異名を持つ

東祖谷名頃のかかしの里で出会った、

地元のおばあさんは、

「雪が降ると本当にたいへんだけど、

花の季節も紅葉の時期もきれいだし、

麓へ行くにも3つも道があるから、

それほど生活には困らないよ」と、

剣山最奥の地での暮らしについて語ってくれました。

 

麓までの道…とは言っても、

そのどれもが細く狭い山道で、

大雨で土砂崩れなどが起きれば、

すぐに通行止めになるような状況です。

ちなみに週に一度やってくる移動販売車は、

「自分で行ったほうが早いから利用しない」とのこと。

熊野の山中の集落でも、同じような話を聞きましたが、

山間地に住む人々の感覚は常識では図れないのでしょう。

 

平地や町に住む人間から見ると、

「なぜそんな僻地に」「なぜそんな高地に」

と思うような、深い山奥の集落での生活には、

私たちの気づかないメリットが潜んでいるのだと思います。

その昔、この山の上に一大都市を築いた古代の人々も、

他の地域にはない「剣山ならではの何か」

を見つけたからこそ、この地を選んだのかもしれません。


供養のかかし

2017-12-14 10:05:55 | 剣山・イスラエル

<東祖谷名頃・かかしの里>

 

先日ネットで、かかしの里で人形を作り続ける、

地元の在住の作者の方への取材映像を見ました。

村の至る所に置かれた人形の中には、

集落で暮らす住民に似せたものはもちろん、

すでにお亡くなりになられた方の姿を象ったものも、

少なからず混じっていると聞きます。

きっと近所の人たちはその人形を見るたびに、

故人のことを思い出すのでしょう。

 

その方は、集落の人々を喜ばせるために、

人形を作り続けているとおっしゃっていましたが、

制作の様子を眺めている最中、

ふいに頭の中をよぎったのは、

「供養」という言葉でした。

一体一体の人形を愛おしそうに見る目は、

どこか「死」という対象を

捉えていたように感じます。

 

近隣の病院まで1時間半もかかるこの地では、

一度倒れれば死をも覚悟しなければなりません。

恐らく、利便性のよい地域でなら助かった命も、

僻地に住むがゆえ助からない場合もあるのです。

もしかすると、この地で私が感じた

「かかしに見られている」という感覚は、

「忘れないで欲しい」という、この地に眠る

故人たちの切なる願いだったのかもしれません。


見捨てられた村

2017-12-13 10:02:50 | 剣山・イスラエル

<東祖谷名頃・かかしの里>

 

かかしの里として知られる

東祖谷・名頃地区を取材した海外メディアは、

「見捨てられた日本の村」いうタイトルで、

この集落の様子を放映したと聞きます。

とは言え、少ないながらも

まだ住民が住んでいるわけですから、

「見捨てられた」と表現するのは、

少々失礼な気がしますが、

現実問題としてあと数年もすれば、

この集落も消滅の危機を迎えるのでしょう。

 

剣山の周辺を調べておりますと、

「見捨てた」「見捨てられた」

という言葉に頻繁に遭遇します。

全国に存在する似たような地域の中でも、

どういうわけか剣山の周りというのは、

とりわけ「見放された感」が強いのです。

もしかするとそれは、

古くからこの地を漂い続けていた

「見捨てられた人々」の

やりきれない思いの残影なのかもしれません。


かかしの里

2017-12-12 09:59:34 | 剣山・イスラエル

<東祖谷名頃・かかしの里>

 

祖谷の最奥・東祖谷名頃集落は、

通称「かかしの里」とも呼ばれ、

休日ともなると全国各地から、

「かかし」目当てに観光客が訪れるそうです。

ちなみに、この地区独特のかかしは、

地元の方が制作した等身大の手作り人形でして、

過疎化により少なくなった住民の身代わりに、

集落内のあちこちに置かれるようになったとのこと。

ここ近年、メディアやネットなどで取り上げられ、

若者たちを中心に噂が広まっています。

 

私が訪れた日は、平日だったこともあり、

観光客はひとりもいませんでしたが、

たまたま挨拶を交わした地元の方に、

私が関東から来たことを告げると、

そのおばあさんはさほど驚いた様子もなく、

「最近は遠くからよう来てくれる」と、

昨今の賑わいをとても喜んでいるようでした。

 

ちなみに、集落内に存在するかかしは、

すでに住民の人口を超えており、

現在もその数は増え続けているのだとか。

実際にこれらの人形を見た人の間では、

「癒された」という肯定的な感想と

「怖かった」という否定的な感想とに、

はっきりと分かれるようです。

標高800mあまりの山中に、

突如としてあらわれたそれらのかかしは、

明らかに「魂」を宿しているようでした。


高貴な人々

2017-12-11 09:44:12 | 剣山・イスラエル

<東祖谷名頃・かかしの里>

 

剣山というスポットについて考える際、

やはり「高所」というキーワードなくして、

謎を解き明かすことはできないのでしょう。

山上集落(高地性集落・傾斜地集落)と呼ばれる、

山の斜面に作られたこの地の集落では、

「偉い人の家」ほど高所にあると聞きます。

つまり、剣山一帯で最も高い場所にある、

この東祖谷名頃という地区は、

高所中の高所とも言えるわけですね。

 

さすがに現在では、谷筋の平地を中心に

民家が集まっているものの、

ごく最近まで山のほうにも

人家が残っていたとのこと。

その昔、剣山でお祭りが行われるときは、

徒歩で山を越え山頂に向かったと聞きます。

もしかすると、この名頃一帯に住む人々は、

剣山でも最も高貴な一族だったのでしょうか……。

あるいは、「剣山の神」に仕える

古代の神官だったのかもしれません。


天空の里

2017-12-10 09:37:55 | 剣山・イスラエル

<奥祖谷二重かずら橋>

 

祖谷の人気観光スポットとして

知られるかずら橋ですが、

実は祖谷にはふたつのかずら橋が存在し、

奥祖谷二重かずら橋というのは、

もうひとつのかずら橋と比べると、

規模も小さくこじんまりとしています。

また、麓にある町からこの場所へ向かうには、

最短でも1時間半もの時間を要するため、

なかなか気軽に行ける場所ではありません。

 

ちなみに「名頃」と呼ばれるこの地区は、

先日の記事内で写真を掲載した、

「かかしの里」からもほど遠くない場所で、

標高はおよそ1000m近くもある高地です。

山上集落の点在するこの一帯の中でも、

最も高い場所に位置し、

別名「天空の里」との異名を持ちます。

言うなれば、剣山の秘密を

誰よりもよく知る人たちが

住んでいた場所なのでしょう。


かずら橋

2017-12-09 09:34:42 | 剣山・イスラエル

<奥祖谷二重かずら橋>

 

眠りから覚めたばかりの朝のかずら橋には、

谷川の流れる音だけが静かに鳴り響いていました。

両側を急峻な崖に挟まれた深い谷の底に降り、

たくさんの巨石が転がる川原に腰を下ろして、

そっと息をひそめていると、あちらこちらから

精霊の気配が漂ってくるような気がします。

今では剣山観光のスポットとなっていますが、

その昔はまさしく「秘境」だったのでしょう。

 

ちなみに、こちらの奥祖谷二重かずら橋は、

源平の戦いに敗れた平家一族が、

剣山・平家の馬場での訓練に通うために架設されたという説や、

弘法大師が困っている村人を見かねて作ったという説……等々、

様々な伝承が取り沙汰されているものの、

正確な用途は未だによくわかっていません。

 

地元の方の話によると

「近年観光用に作った(架け替えた?)」

とのことで、 元々かずら橋の向こうに集落はなく、

「生活のために作られたものではない」

というような話も聞きます。

いずれにせよ、この祖谷の地が、

日本の三大秘境のひとつと言われるように、

「何かから隠れる場所」「何かを隠す場所」

であったのは、確かなのかもしれません。


朝の冷気

2017-12-08 09:29:07 | 剣山・イスラエル

<奥祖谷二重かずら橋>

 

剣神社への参拝を済ませ、

剣山の頂に別れを告げると、

いよいよ酷道439号線との

対面が待ち受けていました。

とは言え、実際に国道が

「酷道」へと変貌するのは、

県境や峠の近辺に限られています。

今回私が通ったルートに関しては、

多少ヒヤッとする箇所はあるものの、

そこそこ整備された舗装道路が続き、

全体的には快適なドライブとなりました

(とは言え、ほぼ一車線ですけど……)。

 

今朝の出発があまりにも早かったせいか、

スケジュールに余裕が生じたため、

途中、奥祖谷二重かずら橋に立ち寄り、

道路掃除をしていた地元のおばあさんに、

昔の祖谷の暮らしなどを聞きながら、

剣山の空気にたっぷりと浸ります。

山頂から幾分下がっているとは言え、

まだ標高は1000m近くあるでしょう。

かずら橋(および野猿)を見学すべく、

山間を流れる川のほうへ降りて行くと、

そこかしこに剣山から流れ落ちる

朝の冷気が充満していました。


シナイ山への憧憬

2017-12-07 09:33:27 | 剣山・イスラエル

<池田町・川崎地区>

 

中東やイスラエルへの造詣が深い方々は、

剣山および剣山周辺の景色を見たとき、

両者の地形が非常に似通っていることに、

少なからず感動を覚えるのだそうです。

そして、四国を横断する四国山地には、

かのモーゼが神から十戒を授かった

シナイ山の姿を重ね合わせると聞きました。

 

確かに写真で確認しましても、

シナイ山の山頂から見た眺めは、

先ほど私が見た見ノ越峠からの

浮世離れした景色を彷彿させますし、

四国山地という場所そのものも、

熊野や白山などの山々とは異なり、

樹木の密集度が薄い印象を受けます。

 

これほどの標高、降水量を誇る山でありながら、

剣山という山を訪れて感じるのは、

しっとりとした深い森の気配ではなく、

どこか湿度の低い乾いた岩山の空気です。

もしかすると、古くからこの地域に伝わる

「山焼き」の習慣は、赤茶けた岩肌がむき出しの

シナイ山への憧憬が込められているのでしょうか……。


パレスチナ

2017-12-06 09:27:29 | 剣山・イスラエル

<池田町・川崎地区>

 

私自身、さも詳しく知っているかのごとく、

古代ユダヤの話などを取り上げていますが、

現在のエルサレム・イスラエル・パレスチナの

複雑な関係については、かなりの勉強不足です。

幾度となくニュースを読み込んでも、

重層的に絡み合った情報の糸は解けず……。

イスラエル周辺の地理関係なども、

未だに曖昧模糊としていたため、

本やネットなどで調べてみたところ、

それらの場所と剣山周辺との地形が、

とてもよく似ていることに気づきました。

 

ちなみに、パレスチナというのは、

地中海東岸一帯を指し示す「地域名」で、

このエリア内にイスラエルという国家と、

「パレスチナ自治区」という半国家があり、

両者に挟まれる形で、かの有名な

エルサレムという都市が存在します。

実は、エルサレムという都市は、

標高800mほどの高地に開けており、

パレスチナ一帯で暮らす人々は、

古くから山の上で生活を営んできたのです。


剣山とスサノオ

2017-12-05 09:16:05 | 剣山・イスラエル

<四国中央市>

 

祇園祭が古代ユダヤの伝承の再現であるように、

毎年7月17日に行われる剣山のお祭りも、

渡来人との関連を無視することはできません。

山から神様をお招きするのではなく、

「山頂に向かってお神輿を上げる」

という不思議な習わしは、お神輿という船を

アララト山に見立てた剣山に運ぶことで、

故郷の神への畏敬の念をあらわし続けた

ユダヤ人の残影なのでしょうか……。

 

7月17日と聞いて思い出すのは、

有名な京都八坂神社の祇園祭であり、

ご祭神である牛頭天皇ことスサノオです。

もともと剣山でお祀りしていた主祭神は、

素盞男命(すさのおのみこと)だとされ、

同月同日にお祭りが行われる祇園祭と同様、

ヤハウェそしてスサノオへの信仰心が、

今なおこの四国・剣山の山中にも、

引き継がれているのかもしれません。


日本らしい光景

2017-12-04 09:13:18 | 剣山・イスラエル

<剣山・見ノ越>

 

剣山山頂では、毎年7月17日になると、

山の頂を目指してお神輿を担ぎあげる、

古くからのお祭りが行われるそうです。

7月17日と言いますと、

京都祇園祭のハイライト・山鉾巡幸の日であり、

ノアの箱舟がアララト山に到着したとされる

古代ユダヤの記念日のひとつですね。

「失われた十支族」との関連を指摘されるのも、

やはりこのお祭りの影響が強いのでしょう。

 

ちなみに、この劔山本宮劔神社例大祭は、

平家や安徳天皇を慰霊する行事とも言われ、

平家のシンボルである赤旗を掲げながら、

ほら貝を持った修験姿の崇敬者などが、

六根清浄(ろっこんしょうじょう)を唱えて、

「平家の馬場」と呼ばれる草地を進むそうです。

 

また、それと同時に御旅所においては、

阿波忌部の一派・木頭忌部(きとういんべ)氏

に伝わる劔の舞が奉納されるのだとか。

ここ剣山では、神道、仏教、修験道、

そして古代ユダヤまでもが混在した、

「日本らしい」光景が脈々と生き続けていました。

【参考サイト】

ダイドードリンコ 日本の祭り


剣山に集う人々

2017-12-03 09:09:54 | 剣山・イスラエル

<剣神社 つるぎじんじゃ>

 

昭和の時代、剣山の謎を解明すべく、

多くの人々が発掘調査に乗り出した結果、

「地下の人口建造物」「多数のミイラ」

等が発見されたと聞きます。

ただし、当時の政府の方針により、

これらの業績が国家レベルでの大発見として、

公に取り上げられることはありませんでした。

 

一方、一部の地元の人々の間では、

「イスラエル関係する要人たちが、

水面下で剣山に接触している」

という噂が流れているのだそうです。

しかも最近は、剣山の存在を知った

海外からの外国人(主に中東の人)が、

続々とこの地を訪れているのだとか。

 

京都でもなく東京でもなく、

このような四国の辺境の地を目指すには、

いったいどのような目的があるのでしょうか……。

伊勢周辺や岐阜周辺などと同様、

いち早く日本の秘密に気づいているのは、

宝の山のお膝元で暮らす日本人ではなく、

海外の人たちのほうなのかもしれません。


剣山のミステリー

2017-12-02 10:07:40 | 剣山・イスラエル

<剣神社 つるぎじんじゃ>

 

昭和の初期、数年間にもわたり、

剣山山頂付近の調査が行われました。

その結果、「剣山は人工の山である」

という結論に達したと聞きますが、

証拠となるような品ははすべて、

噂を聞きつけた当時の特高警察により、

没収されてしまったそうです。

 

その後、多くの人たちが、

「剣山のミステリー」を解明すべく、

剣山の元へと集まったものの、

付近一帯が国立公園に指定され、

表立った発掘調査ができなくなり、

唯一の例外として立ち入りを許可された

元海軍大佐の山本英輔という人物によって、

100体を越えるミイラが発見された時期が、

最後の探索の機会となってしまいました。