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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 姑姪(こてつ)と母子と孰(いづ)れか親しき

2012-12-28 08:33:56 | 十八史略

武承嗣・三思、營求爲太子。仁桀從容言於曌曰、太宗櫛風沐雨、親冒鋒鏑、以定天下、傳之子孫。太帝以二子托陛下。今乃欲移之他族。無乃非天意乎。姑姪與母子孰親。陛下立子、則千秋萬歳後、配食太廟。立姪、則未聞姪爲天子、而祔姑於廟者也。曌、稍悟。已而又力勸之。遂自房州召廬陵王還都、立爲皇太子、以子旦爲相王。仁桀最見信重、好面折廷爭、曌常屈從。稱爲國老、而不名。仁桀卒。曌泣歎。

武承嗣・三思、太子と為らんことを栄求(えいきゅう)す。仁傑、従容として曌(しょう)に言って曰く、「太宗、風に櫛(くしけず)り、雨に沐(ゆあみ)し、親(みず)から鋒鏑(ほうてき)を冒して以って天下を定め、之を子孫に伝う。太帝、二子を以って陛下に託せり。今乃ち之を他族に移さんと欲す。乃ち天意に非ざること無からんや。姑姪(こてつ)と母子と孰(いづ)れか親しき。陛下、子を立てば、則ち千秋万歳の後、太廟に配食せん。姪を立てば、則ち未だ姪(てつ)天子となって、姑(こ)を廟に祔(ふ)する者を聞かざるなり」と。曌、やや悟る。已にして又力(つと)めて之を勧む。遂に房州より廬陵王を召して都に還らしめ、立てて皇太子となし、子旦を以って相王(しょうおう)となす。仁傑最も信重(しんちょう)せられ、好んで面折廷争(めんせつていそう)す。曌常に屈従す。称して国老となして、名いわず。仁傑卒す。曌、泣いて歎ず。

栄求 栄達を求めること。 鋒鏑 ほこと矢じり。 姑姪 おばとおい。姪はめいと甥に共用する。 千秋万歳 千年万年。 配食 祭祀をうける。 祔 あわせ祀る。 面折廷争 面と向かって朝廷で諌める。 

武后の甥の承嗣と三思が、皇太子の地位を求めて画策した。武后の気持ちが傾きかけたとき、仁傑は落ち着きはらって武后に言った。「太宗皇帝は風雨に身を曝し、自ら敵のほこと対峙し矢面に立って天下を平定して、これを子孫に伝えられました。また高宗皇帝は二人のお子を陛下に託されました。陛下はそれを他の族に移そうとなさっています。これは天意にそむくことに他ならないことでございます。甥ご様とお子様とどちらが縁が親いと思われますか、陛下がお子さまをお立てになれば、未来永劫太廟に合祀せられるでありましょう。甥が天子になっておばを廟に合祀した者があると聞いたことがありません」と申し上げた。武后もやや悟られた様子であった。その後もつとめて勧めたので遂に房州より廬陵王哲を都に召還して立てて皇太子とし、子の旦を相王とした。
狄仁傑は最も信頼篤く重用せられて、しばしば諌め論争したが、武后が屈することが常だった。そして名を呼ばず国老と呼んだ。仁傑が世を去るとき(700年)涙を流して悲しんだ。


十八史略 婁師と狄仁傑

2012-12-27 09:08:40 | 十八史略
將相多得人。魏元忠・婁師・狄仁傑・姚元崇・皆名相。宗亦顯於朝。師寛厚愼、犯而不挍。弟除代州刺史。師謂、兄弟榮寵過盛、人所疾也。何以自免。弟曰、自今人雖唾其面、拭之而已。師愀然曰、此所以爲吾憂也。人唾汝面怒汝也。而拭之、則逆其意而重其怒矣、唾不拭自乾、當笑而受之耳。師毎薦仁傑。而仁傑毎毀師。曌語仁傑曰、朕用卿、師所薦也。仁傑退而歎曰、婁公盛。我爲所容久矣。

将相多く人を得たり。魏元忠・婁師(ろうしとく)・狄仁傑(てきじんけつ)・姚元崇(ようげんしゅう)、皆名相なり。宗(そうえい)も亦朝(ちょう)に顕わる。師徳は寛厚清慎にして、犯せども挍(こう)せず。弟、代州の刺史に除せらる。師徳謂う、「兄弟(けいてい)、栄寵過盛(えいちょうかせい)なるは、人の疾(にく)む所なり。何を以ってか自ら免(まぬか)れん」と。弟曰く、「今より、人、某(それがし)の面に唾すと雖も、之を拭わんのみ」と。師徳、愀然(しゅうぜん)として曰く、「此れ吾が憂いをなす所以なり。人、汝が面に唾するは、汝を怒ればなり。而るに之を拭わば、則(すなわ)ち、其の意に逆らって、其の怒りを重ねん。唾は拭わざるも、自ら乾かん、当に笑って之を受くべきのみ」と。
師徳、毎(つね)に仁傑を薦(すす)む。而るに仁傑は毎に師徳を毀(そし)る。曌(しょう)仁傑に語(つ)げて曰く、「朕、卿を用うるは、師徳の薦むる所なり」と。仁傑、退いて歎じて曰く、「婁公は盛徳なり。我れ容(い)るる所となること久し」と。


犯して挍せず 仕掛けられても相手にならないこと。 愀然 心配そうな様子。容 ゆるされること。

将軍や大臣も逸材が集まった。魏元忠・婁師徳・狄仁傑・姚元崇等である。宗もまた朝廷で抜きんでていた。とりわけ婁師徳は寛大にして温厚、他人からのいわれない干渉にも、一向に取り合わないようにしていた。弟が代州の刺史に任命されたとき、師徳が言うには、「兄弟がそろって栄達して寵を受けるのは、人の嫉みを買うもとである。どのようにこれを避けるつもりか」と。弟が答えて、「たとえば人が私の顔に唾を吐きかけても、ただこれを拭い去るだけにいたします」と言った。師徳は、「だから私が心配なのだ、人が唾を吐きかけてくるのは、そなたに対して怒っているからだ。それなのにこれを拭ってしまったら、人の怒りは消えず、かえって増すことになるだろう。唾は拭わなくとも自然に乾く、だから笑ってこれを甘受すべきである」と諭した。
師徳はつねに仁桀を武后に推薦していた。ところが仁桀はいつも師徳を誹謗していた。あるとき武后が仁桀に言った。「そなたを登用したのは師徳が強く薦めたからだ、知っていたか」と。仁桀は退出すると歎息して言うには「婁公の徳は測り知れないほどだ。私は長いあいだ非礼を赦されていたのだなあ」と。


十八史略 鍛錬羅織 

2012-12-25 12:07:07 | 十八史略
初寵僧懷義。後寵張易之・張昌宗。兄弟居中用事。易之五郎、昌宗六郎。佞者曰、人言六郎似蓮花。吾謂、蓮花似六郎耳。曌知人心不服、且内行不正、畏人議己、盛開告密之門。用酷吏侯思止・索元禮・周興・來俊臣・吉頊等、鍛錬羅織、率以反逆誣人。誅殺不可勝紀。用此拑制天下。然有權數善用人、賢才亦樂爲之用。徐有功仁恕執法。曌毎屈意從之。

初め僧懐義を寵す。後、張易之・張昌宗を寵す。兄弟(けいてい)中に居て事を用う。易之は五郎、昌宗は六郎。佞者(ねいしゃ)曰く「人は言う、六郎、蓮花に似たり、と。吾謂(おも)えらく、蓮花、六郎に似たるのみ」と。曌(しょう)、人心の服せざるを知り、且つ内行の正しからずして、人の己を議せんことを畏れ、盛んに告密の門を開く。酷吏、侯思止・索元禮・周興・來俊臣・吉頊(きつぎょく)等を用い、鍛錬羅織(たんれんらしょく)して、率(おおむ)ね反逆を以って人を誣(し)う。誅殺すること勝(あ)げて紀(き)す可からず。此れを用いて天下を拑制(かんせい)す。然れども権数有って善く人を用い、賢才も亦之が用をなすことを楽しむ。徐有功(じょゆうこう) 仁恕(じんじょ)にして法を執(と)る。曌、毎(つね)に意を屈して之に従う。

五郎・六郎 一族の輩行。 内行 私生活。 鍛錬羅織 鍛錬は酷吏がむりやり罪名を造りあげること、羅織は網で捕え、でっちあげること。 紀 記。 拑制 拑ははさむ、厳しく締め付けること。権数 かけひき、権謀術数。 仁恕 あわれみ深く、思いやりの厚いこと。

武后は初め僧の懐義を寵愛していたが、次第に張易之・張昌宗の兄弟に移った。張兄弟は朝廷にあって思いのままに振舞った。兄の易之を五郎と呼び、昌宗を六郎と呼んだ。あるへつらい者が「人は六郎さまは蓮の花に似ていると言うが、私が思うには蓮の花が六郎様に似ているのでございます」と言った。武后は人々が自分を信服していないことを知っていて、なお且つ不品行が口の端にのぼることを畏れて密告が盛んになるように仕向けた。また侯思止・索元禮・周興・來俊臣・吉頊といった酷吏を重用し、むりやり罪名をでっちあげて反逆の罪をきせた。このため殺された者は一々数えきれないほどであった。武后はこういった恐怖政治で天下を治めたが一方、かけひきも巧みで、人材の登用も的確であったから、賢才も武后のために働くことを楽しむという風であった。その中で徐有功は思いやりがあり、慈悲深く、寛大に法を用いた。さすがの武后も有功に対しては意を枉げてその裁定に従った。

前回に書き忘れたことがありました。武后の曌の文字について、特に武后が使用を強制したもので照に相当し、則天文字と呼ばれるものです。他に国に相当する圀などがあります。

十八史略 一抔の土未だ乾かず、六尺之孤安くにか在る

2012-12-22 11:46:09 | 十八史略
駱賓王の檄文
在高宗之世、后自殺子弘廢子賢。高宗既崩、子哲即位。廢爲廬陵王、而立子旦。后臨朝稱制、立武氏七廟。英公李敬業起兵討之。檄曰、一抔之土未乾、六尺之孤安在。又曰、試觀今日之域中。竟是誰家之天下。太后遣將撃殺之。越王貞又擧兵匡復、不克而死。太后遂大殺唐宗室、自名曌、稱皇帝、國號周、以旦爲皇嗣、改姓武。時曌年六十七矣。

高宗の世に在って、后自ら子弘を殺し、子賢を廃す。高宗既に崩じ、子哲位に即く。廃して廬陵王と為し、而して子旦を立つ。后、朝に臨んで制を称し、武氏の七廟を立つ。英公李敬業、兵を起して之を討つ。檄に曰く「一抔(いっぽう)の土未だ乾かず、六尺(りくせき)の孤安(いづ)くにか在る」と。又曰く、「試みに今日の域中を観よ。竟(つい)に是れ誰が家の天下ぞ」と。太后、将を遣わして撃って之を殺す。越王貞、又兵を挙げて匡復せんとし、克たずして死す。太后遂に大いに唐の宗室を殺し、自ら曌(しょう)と名づけ、皇帝と称し、国を周と号し、旦を以って皇嗣となし、姓を武と改めしむ。時に曌、年六十七なり。

制を称し 天子に代って詔勅を出すこと。 七廟 天子のみに行われた先祖の祀り。 李敬業 李勣の孫、元の徐姓に直され、徐敬業とした。檄 出兵の召し文、駱賓王が起草した。 一抔の土 一すくいの土、高宗の陵墓の土。 六尺の孤 高宗の遺児、尺は二歳半。 匡復 不正をただす。

高宗の在世中に武后は自分の手で我が子の、弘を殺し賢を廃嫡して後に殺した。高宗が崩じて、次に哲を位に即けるとすぐさま廃して廬陵王に追いやって子の旦を即位させた。また武氏の廟を天子と同じ七廟にした。
李勣の孫の英公李敬業が武后討伐の兵を挙げた。駱賓王が書いた檄文には「陵墓の土が乾ききらない今、先帝の遺児は何処に行ったのか」また「この国のありさまをよく見よ、はたして誰の天下であるか」とあった。皇太后となった武后は将を派遣して敬業を攻め殺した。越王の貞がまた挙兵し、武后の過ちを正そうとしたが、勝たずに死んだ。武后はここで唐の一族のほとんどを殺し、自らを曌と名づけ、皇帝と称し、国号を周に変え、旦を皇帝の世嗣とし、武姓に改めさせた。時に曌六十七歳であった。


十八史略 二人天子

2012-12-20 09:04:11 | 十八史略

太宗崩。才人年二十四矣。爲尼。高宗幸寺、見之而泣。時王皇后與蕭淑妃爭寵。密令長髪、勸高宗納之。既入而后與淑妃皆失寵。武氏年三十二、遂自昭儀爲后。王・蕭皆爲所殺。贈父士彠周國公、尋加贈太原王。高宗苦風眩、不能視百司奏事、或使皇后決之。后性明敏、渉獵文史、處事皆稱旨。由是委以政事。權與人主。人謂之二聖。

太宗崩ず。才人年二十四、尼となる。高宗、寺に幸(みゆき)し、之を見て泣く。時に王皇后、蕭淑妃(しょうしゅくひ)と寵を争う。密かに髪を長ぜしめ、高宗に勧めて之を納(い)る。既に入って后と淑妃と皆寵を失う。武氏年三十二、遂に昭儀より后となる。王・蕭皆為に殺さる。父士彠(しわく)に周国公を贈り、尋(つ)いで太原王を加贈す。高宗、風眩(ふうげん)を苦しみ、百司の奏事(そうじ)を視ること能わず、或いは皇后をして之を決せしむ。后、性明敏にして、文史を渉猟(しょうりょう)す。事を処して、皆旨(むね)に称(かな)う。是に由って委(ゆだ)ぬるに政事を以ってす。権、人主に(ひと)し。人、之を二聖と謂う

才人、昭儀 淑妃 女官の序列前出。 風眩 てんかん。 渉猟 広く書物を読むこと。 人主 君主、帝。 し 等しい。

太宗が崩じた。才人武氏はこのとき二十四歳、剃髪して尼となって菩提寺にいた。高宗が参詣したとき尼姿の武氏を見かけて涙を流した。
この頃皇后の王氏は、高宗の寵が蕭淑妃に傾いてきたので武氏に髪を伸ばさせたうえで高宗に勧めて後宮に入らせた。ところが皇后も淑妃も次第に帝から見むきされなくなった。ついに王皇后は廃され、武氏が三十二歳で昭儀から皇后になった(655年)。前皇后の王氏も蕭淑妃も武后の手で惨殺された。武后は父の士彠に周国公の爵位を贈り、さらに太原王の位を加えた。
高宗には癲癇の持病があり、百官の奏上する政務をすべて見ることができず、ときに皇后に決裁させた。武后は明敏で、広く典籍に通暁していたので、裁可する件がすべて高宗の意にかなった。そのため重要な政務も任されるようになり、その権勢は皇帝に並ぶようになった。世間ではこれを二聖と呼んだ。