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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 武帝の事跡四

2010-08-31 17:35:03 | 十八史略

汲黯獨以嚴見憚。數切諌、不得留内。爲東海守。好清浄、臥閣内不出。而郡中大治。入爲九卿。上方招文。嘗曰、吾欲云云。黯曰、陛下内多欲、而外施仁義。奈何欲效唐虞之治乎。上怒罷朝曰、甚矣、黯之戇也。他日又曰、古有社稷臣。黯近之矣。

汲黯(きゅうあん)、独り厳を以って憚(はばか)らる。数しば切諌(せっかん)して、内に留まるを得ず。東海の守と為る。清浄を好み、閣内(こうない)に臥して出でず。而して郡中大いに治まる。入って九卿(きゅうけい)と為る。上、方(まさ)に文学を招く。嘗て曰く、吾云々せんと欲すと。黯曰く、陛下、内、多欲にして、外、仁義を施す。奈何(いかん)ぞ唐虞(とうぐ)の治に效(なら)わんと欲するか、と。上、怒って朝(ちょう)を罷(や)めて曰く、甚だしいかな、黯の戇(とう)なるや、と。他日又曰く、いにしえ、社稷(しゃしょく)の臣あり。黯、之に近し、と。

群臣の中で汲黯だけは謹厳な人として武帝からけむたがられていた。度々厳しく諌めるので、朝廷に留まることができず、飛ばされて東海郡の太守になった。俗塵にまみれるのを嫌って、閉じこもったままだったが、郡中はよく治まった。再び朝廷に呼び戻されて九大臣の列に加わった。その頃武帝は学問に秀でた者を招き寄せていた。あるとき「わしはしかじかのことをしようと思う」と言うと汲黯が遮って、「陛下は内心欲が深くいらっしゃるのに、うわべだけ仁義を謳っておられる、それで堯や舜の治世に倣おうとなされるのでしょうか」と臆面もなく言ってのけた。武帝はあまりの無礼さにその日の朝議を取り止めて、「汲黯め馬鹿正直にも程がある」と怒ったが、後日「昔から国家を守り抜く忠臣がいたものだが、汲黯はこれに近い奴であるな」ともらした。

切諌 強くいさめること。 九卿 中枢の九の官庁の長。 文学 漢代、地方官の推薦により学問のすぐれた人を官吏に採用した制度の一。 唐虞 陶唐氏と有虞氏、堯と舜の号。 戇(とう) 愚直 章にぼくづくりとエ下に貝その下に心。 社稷の臣 国家の興廃安否にかかわる家臣。


十八史略 武帝の事跡 

2010-08-28 13:55:24 | 十八史略
丞相連(しき)りに誅を以って死す。

所用丞相、初惟田蚡稍專。上嘗謂蚡曰、卿除吏、盡未。吾亦欲除吏。後皆充位而已。公孫弘後、國家多事、丞相連以誅死。公孫賀拝相、至涕泣不肯拝。亦卒以罪死。酷吏張湯・趙禹・杜周・義緃・王温舒之徒、皆嘗峻用刑法。然湯等有罪、亦不貸也。其卜式・兒寛之屬、亦以長者見用。

用いる所の丞相は、初め惟田蚡(でんぷん)のみ稍(やや)専らなり。上(しょう)嘗て蚡に謂って曰く、卿(けい)、吏を除(じょ)する、尽くるや未だしや。吾も亦吏を除せんと欲す、と。後皆、位に充つるのみ。公孫弘の後、国家多事にして、丞相連(しき)りに誅を以って死す。公孫賀、相に拝せられしも、涕泣(ていきゅう)して肯(あえ)て拝せざるに至る。亦、卒(つい)に罪を以って死す。酷吏、張湯(ちょうとう)・趙禹(ちょうう)・杜周(としゅう)・義緃(ぎしょう)・王温舒(おうおんじょ)の徒、皆嘗て刑法を峻用(しゅんよう)す。然れども湯等罪有れば亦貸さざるなり。其の間に卜式(ぼくしょく)・兒寛(げいかん)の属、亦長者(ちょうしゃ)を以って用いらる。

武帝が用いた丞相の中で、初め田蚡だけが、やや政権を専らにした。ある時、武帝は田蚡に向って、皮肉を言ったことがあった。「丞相どの官吏の任命は終ってしまったかな。わしも少しは任命してみたいのだが」と。しかしその後の丞相は皆ただその位に座っているだけの存在で、実権を持たなかった。公孫弘が丞相になってからは国家に事件が多発して、丞相が次々と罪を負って殺されたから、公孫賀などは丞相に任命されたときに泣いて辞退をしたけれども結局罪を得て殺された。張湯・趙禹・杜周・義緃・王温舒などの面々はいずれも法を峻烈に執行して帝に信任されていたけれども、些細なことで容赦なく処罰された。こうした中で、卜式や兒寛らは有徳の士として武帝に重用された。

十八史略 武帝の事跡二

2010-08-26 14:59:40 | 十八史略
漢、幾んど秦たるを免れず

以方士公孫卿言神仙好樓居、作蜚廉・桂・通天莖臺、作首山宮、作建章宮千門萬戸、東鳳閣、西虎圏、北太液池。中有漸臺・蓬莱・方丈・瀛洲・壷梁。南玉堂璧門、立神明臺、作明光宮。皆極侈靡。數巡幸崇祠祀、修封禪。國用不給。賣武功爵級、造鹿皮幣・白金。桑弘羊・孔僅之徒、作均輸・平準法、興利以佐費、置鹽官、算舟車、造緍錢。天下蕭然。末年盗起。微輪臺一詔、漢幾不免爲秦。

方士公孫卿(こうそんけい)が、神仙は楼居を好む、と言うを以って、蜚廉(ひれん)・桂・通天茎台(つうてんけいだい)を作り、首山宮を作り、建章宮を作り、千門万戸、東は鳳閣、西は虎圏、北は太液池。中(うち)に漸台(ぜんだい)・蓬莱・方丈・瀛洲(えいしゅう)・壷梁(こりょう)有り。南は玉堂璧門、神明台を立て、明光宮を作る。皆侈靡(しび)を極む。数しば巡幸して、祠祀(しし)を崇(たっと)び、封禅を修す。国用給せず。武功の爵級(しゃくきゅう)を売り、鹿皮の幣・白金を造る。桑弘羊(そうこうよう)・孔僅(こうきん)の徒、均輸・平準法を作り、利を興して以って費を佐(たす)け、塩官を置き、舟車を算し、緍銭(びんせん)を造る。天下蕭然(しょうぜん)たり。末年、盗起こる。輪台の一詔微(な)かりせば、漢、幾(ほと)んど秦たるを免れず。

方士の公孫卿が、神仙は好んで高い楼台に住むと聞かされると、武帝は蜚廉閣・桂閣・通天茎台などの高楼を建てた。また首山宮、建章宮を作り、多くの門や屋敷を建てた。東には鳳閣、西には虎の檻、北に太液の池、その池の中には漸台という高楼を建て、蓬莱・方丈・瀛洲・壷梁などの島を造った。南には宝玉をちりばめた堂や門が作られ、神明台、明光宮を作った。すべてが奢りを極めたものであった。また帝はしばしば地方を巡幸し、盛んに神々をまつり封禅の儀式を行った。そのため財政は逼迫して、軍功によって賜るべき爵位を金で売り与えたり、鹿皮で代用した紙幣や錫を混ぜた銀貨を鋳造してその場を凌いだ。桑弘羊や孔僅の徒が均輸法や平準法を制定して、利益を挙げて国費の足しにした。また塩の売買を掌る官を置き、舟や車に税をかけ、銭一さしにも税を課した。天下はすっかり沈滞し、武帝の晩年には盗賊が横行するようになった。もしこの時輪台の詔勅が出されていなければ、漢はほとんど秦と同じ末路をたどることを免れなかったであろう。

均輸法 各地の産物を政府に納めさせ、利益を乗せた上で統一価格で売り渡した。 平準法 政府が安い時に買いつけ、価格の平準を保ちつつ利益を得て売り渡す法。 輪台の一詔 屯田兵を輪台国に置くことを取り止め、武帝が反省した詔勅。

十八史略 武帝の事跡(一) 

2010-08-24 16:29:37 | 十八史略
上雄材大略。承文・景豊富之後、窮極武事。嘗謂、高帝遺平城之憂。思如齊襄公復九世之讎。數征匈奴、盡漢兵勢。匈奴遠遁、幕南無王庭。斥地立郡縣、置受降城、通西域、通西南夷、東撃朝鮮、南伐粤、軍旅歳起。内事土木、築上苑、屬南山。建柏梁臺、作承露銅盤。高二十丈、大七圍、上有仙人掌。

上(しょう)、雄材大略あり。文・景、豊富の恵を承け、武事を窮極す。嘗て謂(い)えらく、高帝、平城の憂いを遺(のこ)せり。齊の襄公が九世の讎(あだ)を復するが如くならんことを思う、と。数々(しばしば)匈奴を征し、漢の兵勢を盡す。匈奴遠く遁(のが)れ、幕南(ばくなん)に王庭(おうてい)無し。地を斥(ひら)き、郡縣を立て、受降城を置き、西域に通じ、西南夷に通じ、東のかた朝鮮を撃ち、南のかた粤(えつ)を伐ち、軍旅歳々起こる。内には土木を事とし、上苑を築き、南山に属す。柏梁台を建て、承露銅盤を作る。高さ二十丈、大いさ七囲、上に仙人掌あり。

武帝は持って生まれた優れた能力と機略があった。そのうえ、文帝・景帝の遺した豊富な財力があったので、憑かれたように兵事に明け暮れた。ある時、「わが高祖は平城で匈奴に囲まれ、九死に一生を得た。その恥辱と憂憤は子孫に受け継がれている。その昔、斉の襄公は九代前の仇を報いた。わしもそれに倣わなければならない」と言った。こうして度々匈奴を討ち、兵力の限りを尽くして匈奴を遠く退け、沙漠の南には匈奴王の領地は無くなった。武帝はその地を開墾して郡縣を置き、投降者を受け入れる砦を設けた。かくして武帝は威光を西域から西南域に拡げ、東は朝鮮を、南は越国を伐って毎年のように戦争があった。国内では土木事業をおこした。宮中に庭園を造成して南山にまで連ねさせ、柏梁台を築き、銅盤を置いた。その銅盤は高さ二十丈、太さは七かかえもあり、露を受ける仙人が盃をささげている像(仙人掌)があった。

平城の憂い 高祖が四十万の匈奴軍に包囲されたとき、陳平の機略により、七日後に囲みを解かれた。 幕南 幕は沙漠、ゴビ砂漠のこと。 粤は越。 
承露銅盤 長命を授けるとされる天の露を承ける銅盤。

十八史略 武帝霍光に後を託す。

2010-08-21 09:29:39 | 十八史略

三年、匈奴寇五原・酒泉。遣李廣利撃之。廣利降匈奴。
四年、罷方士候神人者。
以田千秋爲相、封富民侯、罷議輪臺屯田、下詔深陳既往之悔。
後元二年、上幸五柞宮。病篤。以霍光爲大司馬大將軍、受遺詔輔太子。上在位五十四年、改元者十有一、曰、建元・元光・元朔・元狩・元鼎・元封・太初・天漢・太始・征和・後元。

三年、匈奴五原・酒泉に寇(こう)す。李廣利を遣わして之を撃たしむ。廣利匈奴に降る。
四年、方士の神人を候(こう)する者を罷(や)む。
田千秋を以って相と為し、富民侯に封じ、輪台の屯田を議することを罷(や)め、詔(みことのり)を下して深く既往(きおう)の悔いを陳(ちん)ず。
後元二年、上(しょう)、五柞宮(ごさくきゅう)に幸(こう)す。病篤し。霍光(かくこう)を以って大司馬大将軍と為し、遺詔(いしょう)を受けて太子を輔(たす)けしむ。上、在位五十四年、改元する者(こと)十有一、曰く、建元・元光・元朔(げんさく)・元狩(げんしゅ)・元鼎(げんてい)・元封(げんぽう)・太初・天漢・太始・征和・後元。

征和三年に匈奴が五原・酒泉に侵入した。武帝は李廣利を遣わして撃たせたが、李廣利は匈奴に降伏してしまった。
四年、神霊を降ろすという方士を朝廷から追放した。
田千秋を丞相に任命し、富民侯に封じた。また西域の輪台国に屯田兵を置くとする議案を取り下げ、詔勅を下して、これまであまりに兵を出したことを悔いている旨を告げ示した。
後元二年に武帝は五柞宮に行幸したが、そこで病が悪化した。霍光を大司馬大将軍に任じ、太子を補佐するようと詔を遺して世を去った。位にあること五十四年、元号を変えること十一回、すなわち建元・元光・元朔・元狩・元鼎・元封・太初・天漢・太始・征和・後元である。

輪台国 新疆にあった国。 五柞宮 西安にあった宮殿。 霍光 霍去病の異母弟