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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

皆様へ

2015-04-08 13:54:50 | Weblog
永い間、閲覧して下さいました皆様にお詫びとお礼を申し上げます。
十八史略は大半を終えましたが、唐宋八家文は三人目に入った所で
筆を置くことになりました。
まだまだ名文が残されているので無念でなりません。
しかしこれも命運致し方ない事でございます。
是非続きを本で読んでいただきたいのです。
本当に永い間ありがとうございました。

辞世に代えて一句

  今まさに散り支度して竹の秋

          寡黙堂こと森谷正

実践商業高校S38.年卒業3年C組寺島教室クラス会

2012-10-30 12:48:06 | Weblog
10月27日東中野の旧日本閣に於いて寺島先生をお迎えして49年ぶりのクラス会を催しました。1時半に母校に集合、すっかり変貌した校舎を見学した。教頭先生の説明を聞きながら、旧校舎の在り処を思い出していたが、かなり曖昧になっているのに愕然とした。
会場に戻って直行組みと合流、先生もお見えになったが80歳とも思えぬ若々しさで背筋もピンとしてお顔の色も良く、誰かが百歳までは元気そうですねと言っていた。ただ我々生徒の側に故障者がおり、すでに鬼籍に入っている仲間も居た。判明している名を読み上げて黙祷を捧げた後、先生のご挨拶をいただいた。関西から出席した松岡仁さんの乾杯の発声ののち、出席順にそれぞれ近況報告に移った。悠々自適という人も居れば母親の介護に明け暮れている人、70歳まで働くという人、さまざまとりどりである。二年後の開催を約して締めた後、先生をお送りして散会、お決まりの二次会は近所のカラオケに。二年後の再会を誓ってそれぞれの駅に向かった。幹事の杉本文彦さん、伊藤信武さん、八十島勝一さん、どうもありがとうございました。

十八史略 穆帝卒す

2012-04-19 10:56:19 | Weblog
秦苻堅弑其君生、自立爲秦天王。有薦王猛於堅者。一見如舊。自謂、如玄之於孔明。一歳中五遷官。擧異才、修廢職、課農桑、恤困窮。秦民大悦。
燕主慕容雋卒。子暐立。
晉桓温以謝安爲征西司馬。安少有重名。前後徴辟皆不就。士大夫相謂曰、安石不出、如蒼生何。年四十餘乃出。
帝在位十七年崩。改元者二、曰永和・升平。無嗣。成帝子瑯琊王立。是爲哀皇帝。

秦の苻堅(ふけん)其の君生(せい)を弑し、自ら立って秦天王と為る。王猛を堅に薦める者有り。一見、旧の如し。自ら謂う、「玄徳の孔明に於けるが如し」と。一歳の中五たび官を遷(うつ)す。異才を挙げ、廃職を修め、農桑を課し、困窮を恤(あわれ)む。秦の民大いに悦ぶ。
燕主慕容雋(ぼようしゅん)卒す。子暐(い)立つ。
晋の桓温、謝安を以って征西司馬と為す。安、少にして重名あり。前後徴辟(ちょうへき)皆就かず。士大夫、相謂って曰く、「安石出でずんば、蒼生を如何(いかん)せん」と。年四十余にして乃ち出づ。
帝、在位十七年にして崩ず。改元する者(こと)二、永和・升平と曰う。嗣(し)無し。成帝の子瑯琊王立つ。是を哀皇帝と為す。


廃職を修め 官署を統廃合すること。 前後 間をおかずに続けて。 徴辟 徴も辟も朝廷に召されること。 安石 謝安の字。 蒼生 たみくさ、人民。 

秦の苻堅が、主君の苻生を殺し、立って秦天王となった(357年)。王猛を推薦する者がいて、会ってみるとたちまち旧知のように思えた。みずから「まるで劉備が諸葛亮を得たようなものだ」と言って、一年のうちに五度も官を進めた。また人材を抜擢し、官署を整備した。民には農耕と養蚕を行わせ、困窮者を救った。秦の人々は善政を謳歌したのであった。
燕の国主慕容雋が死んで、子の慕容暐が立った(359年)。
晋では桓温が謝安を征西司馬に任命した。謝安は若い頃から高名で朝廷から招聘されていたが、出仕しなかった。士大夫たちは「安石が出てこなければ、この民くさは一体どうすればいいのだ」と口々に言い合った。四十を越えて官に就いたのである。
穆帝が在位十七年で崩じた(361年)。改元すること二回、永和・升平という。嗣子が無く、成帝の子の瑯琊王が即位した。これが哀皇帝である。


虚刻逸時

2011-08-09 15:05:58 | Weblog
今日は長崎に原爆が投下された日、66年前B29爆撃機が一機北九州の小倉から進路を変えて侵入してきた。驚くべきことに当時日本軍はそれを把握していたらしい。少なくとも特殊任務の飛行機がテニアンから日本に向けて飛び立ったことが認識されていたという。三日前に広島に投下されたときもそうだが、防空体勢もとらず空襲警報さえ発令されないまま多くの非戦闘員、無辜の市民が犠牲となった。米軍の通信電波が傍受できて、それが特殊な任務らしいとの報告を受けながら、参謀本部では何ら対策をとらなかった事が明るみにでた。
まてよ、こりゃあ今の日本とそっくりじゃないか。巨大地震、大津波それに続く原発事故と放射能汚染。未曾有の国難というべき大事に与野党ひっくるめてバカなことをやっている。被災者の人々はたまらない、風評被害にさらされている人たちも泣くに泣けない、ただあきれるだけ。挙国一致といいながら実際は虚刻逸時だ。あきれるからあきらめるになったとき、さて選挙はどうしよう?

十八史略 左袒

2010-05-11 13:38:12 | Weblog
劉氏の為にせんとする者は左袒せよ
八年、太后崩。諸呂欲爲亂。時呂祿將北軍。呂産將南軍。太尉勃不能主兵。平・勃使酈寄説祿、解印以兵授勃。勃入軍門、令曰、爲呂氏者右袒、爲劉氏者左袒。軍中皆左袒。軍中皆左袒。召朱虚侯劉章、予卒千餘人、撃呂産殺之、分部悉捕諸呂、無少長皆斬之。
諸大臣、迎立代王恆。王西郷讓者三、南郷讓者再。遂即位。誅子弘等、赦天下。是爲太宗孝文皇帝。

八年、太后崩ず。諸呂、乱を為さんと欲す。時に呂禄は北軍に将たり。呂産は南軍に将たり。太尉勃、兵を主(つかさど)ること能わず。平・勃酈寄(れきき)をして禄に説かしめ、印を解き兵を以って勃に授けしむ。勃、軍門に入り、令して曰く、呂氏の為にせんとする者は右袒(うたん)し、劉氏の為にせんとする者は左袒(さたん)せよ、と。軍中皆左袒す。朱虚侯(しゅきょこう)劉章を召して、卒千余人を予(あた)え、呂産を撃って之を殺し、分部して悉く諸呂を捕え、少長と無く皆之を斬る。
諸大臣、代王恒を迎え立つ。王、西郷(せいきょう)して譲ること三たび、南郷して譲ること再び。遂に位に即く。子弘等を誅し、天下に赦(しゃ)す。是を太宗孝文皇帝と為す。

八年に呂太后が亡くなった。この時呂氏一族が報復を恐れて反乱を起こそうと企てた。このとき、呂禄は北軍を率い、呂産は南軍を率いていた。太尉の周勃は一兵も掌握していなかった。陳平と周勃は酈寄を使って呂禄から大将の印綬を欺き取り、北軍の兵力を周勃に渡させた。
周勃は軍営に入るや「呂氏に味方する者は右肩をぬげ、劉氏に味方しようと思う者は左肩をはだけよ」と命じた。全軍の兵士は左肩をぬいだ。そこで周勃は朱虚侯の劉章を召し出し、兵士千余人を与え、呂産を攻め殺し、さらに手分けして呂一族を捕え、大人子供の区別無く、すべて斬り殺した。
大臣たちは高祖の第三子である代王恒を迎えて立てようとしたが、恒は西に面して辞退すること三度、南面して二度辞退したが、辞退しきれず即位した。そして呂后の立てた弘等を殺し、天下に大赦をほどこした。これが太宗孝文皇帝である。

左袒 左袖を脱ぐこと、ここから味方することを左袒すると言った。
西郷、南郷 郷は嚮に同じ向うこと、主人と客が対坐するとき、主人は西に居て東に向かい、客は反対に向く、つまり自身は主とならない意思をあらわした。また天子は南面するのが礼で、しかたなく天子の座に着いたが、なお辞退の姿勢を表したもの。

三大悪女の一人といわれた呂后が遂に死んだ。紀元前180年、二千百九十年のことになります。他の二人は武則天、則天武后とも呼ばれ、千三百年前に死んでいます。もう一人は西太后、およそ百年前のことです。三人とも相当残酷な話を残していますが、不思議なことに、政治的には国内をよくまとめ、民衆には平穏な時期をつくり出していたようです