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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 陳平匈奴と和睦す

2010-03-30 18:25:02 | 十八史略
匈奴寇邊。帝自將撃之。聞冒頓單于居代谷、悉兵三十萬、北遂之、至平城。冒頓精兵四十萬騎、圍帝於白登七日。用陳平秘計、使厚遺閼氏。冒頓乃解圍去。平從帝征伐、凡六出奇計輒封邑。
九年、遺劉敬使匈奴和親、取家人子名公主、妻單于。

匈奴、辺に寇(こう)す。帝自ら将として之を撃つ。冒頓単于(ぼくとつぜんう)代谷(だいこく)に居ると聞き、兵三十万を悉(つく)し、北して之を遂い、平城に至る。冒頓の精兵四十万騎、帝を白登(はくとう)に囲むこと七日。陳平の秘計を用い,間(ひそか)に厚く閼氏(えんし)に遺(おく)らしむ。冒頓乃ち囲みを解いて去る。平、帝に従うて征伐し、凡(すべ)て六たび奇計を出す。輒(すなわ)ち封邑を益(ま)す。
九年、劉敬を遺(つか)わして匈奴に使いせしめて和親し、家人の子を取って公主と名づけ単于に妻(めあ)わす。

匈奴が国境を侵し攻め込んで来たので,高祖みずから将となって討伐に向った。冒頓単于が代谷にいると聞き、三十万の兵を残らず率いて北上し、追って平城に着いた。ところが冒頓の精兵四十万騎が高祖を白登に囲むこと七日に及んだ。この時、陳平の奇抜な計により、ひそかに手厚く単于の妻に贈り物をしたので、冒頓は包囲を解いて去った。陳平は帝に従って征伐に出たが、六度も奇計を出して帝を救ったので、領地を加増された。
九年に、劉敬を使者として匈奴に遣わし、和親させ、良家の子女を帝の子として、単于の妻にさせた。

杉山公園リニューアル

2010-03-27 13:54:14 | Weblog
明日28日いよいよ杉山公園の改修が終わり、お披露目となります。地下に駐輪場を設け、トイレの位置や植栽も変えて一変しました。
当日はもちつき大会もあるそうです。小さいお子さんも若いお父さんも、もちつきが体験できます。搗き立ての餅も食べられますよ。
ところで余計なことですが数年前に公園の由来の石碑を変えたのですが、写しまちがえたと思われる文字を見つけました。ついでに捜してみてください。

十八史略 叔孫通 太常となる

2010-03-27 13:49:23 | 十八史略
前回のつづき 読み下し文から
七年、長楽宮成る。諸侯群臣、皆朝賀す。謁者、礼を治め、諸侯王以下、吏六百石(せき)に至るまでを引き、次(じ)を以って奉賀せしむ。振恐(しんきょう)肅敬(しゅっけい)せざるもの莫(な)し。礼畢(おわ)って法酒(ほうしゅ)を置く。御吏、法を執(と)り、儀の如くならざる者を挙げて、輒(すなわ)ち引き去る。朝を竟(お)え酒を罷(や)むるまで、敢えて諠譁して礼を失う者無し。上(しょう)曰く、吾乃(すなわ)ち、今日、皇帝たるの貴(たっと)きを知る、と。通(とう)を拝して太常(たいじょう)と為す。

七年に長楽宮が完成した。諸侯群臣は皆朝廷に出て祝った。儀礼を司る式部官が取り仕切り、諸侯王以下六百石の吏官までを導いて席次に従って、お祝いの言葉を言上させたが、皆恐れ入り謹み敬わぬ者はなかった。拝賀の礼が終って儀礼の酒を賜ったが、御史が法をつかさどり儀礼に従わぬ者を挙げて外に引き立てたので朝賀がすみ酒宴が終るまで、声高に騒いで礼を失する者はなかった。高祖は「今日になって初めて、皇帝であることの貴さが実感できた」と喜んだ。そして叔孫通を太常に取り立てた。

法酒 儀礼の酒
諠譁 騒がしいこと、喧嘩
太常 神祇官、

十八史略 叔孫通太常となる

2010-03-25 17:48:27 | 十八史略

七年、長樂宮成。諸侯羣臣皆朝賀。謁者治禮、引諸侯王以下、至吏六百石、以次奉賀。莫不振恐肅敬。禮畢置法酒。御吏執法、擧不如儀者、輒引去。竟朝罷腫、無敢諠譁失禮者。上曰、吾乃今日知爲皇帝之貴也。拝通爲太常。

七年、長楽宮成る。諸侯群臣、皆朝賀す。謁者、礼を治め、諸侯王以下、吏六百石(せき)に至るまでを引き、次(じ)を以って奉賀せしむ。振恐(しんきょう)肅敬(しゅっけい)せざるもの莫(な)し。礼畢(おわ)って法酒(ほうしゅ)を置く。御吏、法を執(と)り、儀の如くならざる者を挙げて、輒(すなわ)ち引き去る。朝を竟(お)え酒を罷(や)むるまで、敢えて喧嘩して礼を失う者無し。上(しょう)曰く、吾乃(すなわ)ち、今日、皇帝たるの貴(たっと)きを知る、と。通(とう)を拝して太常(たいじょう)と為す。

十八史略 

2010-03-23 08:20:26 | 十八史略
高祖は秦の苛酷な法律に懲り、簡素な法に変えた。ところが臣下たちは酒を飲んでは功を自慢し、酔ってわめきちらし、剣を抜いて宮殿の柱に斬りつける者まであらわれた。そこで叔孫通(しゅくそんとう)という者が高祖に説いた「そもそも儒者は、進んで天下を攻め取るには無用ですが、取った天下を治めるには役立ちます。どうか魯の国の儒者を召してともに朝廷の儀式を調えたいとぞんじます」高祖はこれを許した。魯では二人の儒者が同行を拒んでこう言った「礼楽というものは、天子に徳が備わって、はじめて興すものです」と。しかし叔孫通は招聘に応じて来た者、及び帝の側近の者と自分の弟子と百人余りで野外で糸で縄張りをし、茅で席次の標識を立てて百官の席順を決め、朝見の練習をさせた。

緜蕝(めんぜつ)  緜は木綿糸、蕝は茅