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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 関中震恐す 

2011-04-30 10:47:51 | 十八史略
尋・邑兵卻。諸部共乗之。連勝遂前。無不一當百。秀與敢死者三千人、衝其中堅。尋・邑陣亂。漢兵乗鋭崩之、遂殺尋昆陽。城中守者、亦鼓譟出、中外合勢、呼聲動天地。莽兵大潰、走者相踐、伏尸百餘里。會大雷風。屋瓦皆飛、雨下如注。虎豹皆股戰、溺死滍川者萬數。關中聞之震恐。海内豪傑響應、皆殺莽牧守、自稱將軍、用漢年號。旬月徧天下。

尋・邑の兵卻(しりぞ)く。諸部供に之に乗ず。連(しきり)に勝って遂に前(すす)む。一、百に当らざる無し。秀、敢死(かんし)の者三千人と、其の中堅を衝く。尋・邑の陣乱る。漢兵、鋭に乗じて之を崩し、遂に尋を昆陽にころす。城中の守る者、亦鼓譟(こそう)して出で、中外、勢を合わせ、呼声、天地を動かす。莽の兵大いに潰(つい)え、走る者相践(ふ)み、伏尸(ふくし)百余里。会々(たまたま)大雷風有り。屋瓦(おくが)皆飛び、雨の下(ふ)ること注(そそぐ)が如し。虎豹皆股戦(こせん)し、滍川(ちせん)に溺死する者万数なり。関中之を聞いて震恐(しんきょう)す。海内(かいだい)の豪傑饗応し、皆莽の牧守(ぼくしゅ)を殺し、自ら将軍と称し、漢の年号を用う。旬月(じゅんげつ)にして天下に徧(あまね)し。

王尋・王邑の軍勢が退却した。漢の各部隊はこれに乗じて、連勝を重ねて進撃した。一騎が敵兵百人当たる奮戦を繰りひろげた。劉秀は決死の兵三千人と供に、敵軍の中核を衝いた。王邑と王尋の陣は乱れ、漢の兵は勢いに乗じて敵を切り崩し、遂に王尋を昆陽で殺した。城中で守備についていた者も太鼓を打ち声を挙げて撃って出た。内と外と勢いを合わせ、その喊声は天地を揺るがすばかりであった。王莽の軍は総崩れとなり、潰走する兵は践(ふ)みつ践まれつ、たおれた屍骸は百里余りも続いた。折りしも雷と暴風が起こり、屋根瓦は吹き飛び豪雨は滝のようであった。そのため敵の猛獣どもは、震えおののき、滍川に溺死する者万を数えた。関中一帯がこの敗報を聞き震えあがった。天下の豪傑はこれに呼応して立ち、王莽の任命した地方長官を次々に襲って殺し、自ら将軍と称して、漢の年号を用いるようになった。わずか一箇月で漢の威令が天下にあまねく行き渡った。

股戰 戦はおののく、足が震える。


十八史略 今大敵を見て勇む。甚だ怪しむ可し 

2011-04-28 13:56:08 | 十八史略

秀徇昆陽・定陵・郾皆下之。莽遣王邑・王尋、大發兵平山東。以長人巨無覇爲壘尉、驅虎豹犀象之屬、以助兵勢。號百餘萬。旌旗千里不絶。諸將見兵盛、皆走入昆陽、欲散去。秀至郾・定陵、悉發諸營兵、自將歩騎千餘爲前鋒。尋・邑遣兵數千合戰。秀奔之、斬首數十級。諸將曰、劉將軍、平生見小敵怯。今見大敵勇。甚可怪也。

秀、昆陽・定陵・郾(えん)を徇(とな)えて、皆之を下す。莽、王邑・王尋を遣わし、大いに兵を発して山東を平らげしむ。長人巨無覇(きょむは)を以って塁尉(るいい)と為し、虎豹犀象の属を駆り、以って兵勢を助く。百余万と号す。旌旗(せいき)千里絶えず。諸将、兵の盛んなるを見て、皆走って昆陽に入り、散じ去らんと欲す。秀、郾・定陵に至り、悉(ことごと)く諸営の兵を発し、自ら歩騎千余に将として前鋒と為る。尋・邑兵数千を遣わして合戦せしむ。秀、之を奔(はし)らしめ、首を斬ること数十級なり。諸将曰く、劉将軍、平生小敵を見るも怯る。今大敵を見て勇む。甚だ怪しむ可し、と。

劉秀は昆陽・定陵・郾の三県に迫って之を降した。王莽は王邑・王尋に大軍を率いて山東を平定させた。大男の巨無覇という者をいくさ目付けにして、虎や豹の猛獣や犀、象の巨獣を駆り立てて軍勢に加えた、その数百万余と号し、軍旗は千里に連なった。王莽軍の優勢なるを見て、諸将は昆陽に逃げ込み、ちりぢりになろうとしていた。このとき劉秀は郾や定陵に急行して各陣営の兵を残らず動員させ、自ら歩兵と騎兵あわせて千余の将として先鋒になった。王邑と王尋は数千の兵を繰り出して応戦させた。劉秀はこれを敗走させて数十に上る首級をあげた。諸将は驚いて、「劉将軍はいつもは少数の敵にも尻込みするほどであるのに、いま大敵にあたって勇敢に戦われた。まことに不思議である」と。

徇(とな)え 命令して回る、告知する、国を攻め取る。 巨無覇 漢書には、巨毋覇として天鳳の終わりに韓博というものが上奏して、身の丈一丈、身のまわり十囲の巨人で胡虜を撃滅したいとして王莽に推挙しているが、巨(王莽のあざな)覇たること毋(な)しと読めることから博を処刑した、とある。

十八史略 劉縯・劉秀立つ

2011-04-26 11:19:44 | 十八史略
及新市・平林兵起、南陽騒動。宛人李通、迎秀起兵。秀兄縯、字伯升、慷慨有大節。常憤憤欲復社稷。平居不事家人生業。傾身破産、交結天下雄俊。至是分遣親客、發諸縣兵。縯自發舂陵子弟。皆恐懼亡匿。曰、伯升殺我。及見秀絳衣・大冠、驚曰、謹厚者亦復爲之。乃自安。部署賓客、招説諸帥。新市・平林・下江兵、皆來會。兵多無所統一。欲立劉氏從人望。下江將王常欲立縯。新市・平林將帥、憚其威明、遂立更始、以縯爲大司徒、秀爲將軍。

新市・平林の兵起るに及んで、南陽騒動す。宛人李通(えんひと、りとう)、秀を迎えて兵を起こす。秀の兄縯、字(あざな)は伯升、慷慨(こうがい)にして大節あり。常に憤憤として社稷(しゃしょく)を復せんと欲す。平居家人の生業を事とせず。身を傾け産を破り、天下の雄俊と交結す。是(ここ)に至って親客を分遣(ぶんけん)し、諸県の兵を発す。縯自ら舂陵の子弟を発す。皆恐懼(きょうく)して亡(に)げ匿(かく)る。曰く、伯升、我を殺す、と。秀が絳衣(こうい)・大冠するを見るに及んで、驚いて曰く、勤厚なる者も亦復(また)これを為すか、と。乃ち自ら安んず。賓客を部署し、諸帥を招説(しょうぜい)す。新市・平林・下江の兵、皆来たり会す。兵多くして統一する所無し。劉氏を立てて、人望に従わんと欲す。下江の将王常、縯を立てんと欲す。新市・平林の将帥、其の威明(いめい)を憚り、遂に更始を立て、縯を以って大司徒と為し、秀を将軍と為す。

新市・平林の兵起ると、南陽も騒然としだした。宛の人李通という者が、劉秀を迎えて兵を起こした。秀の兄縯は、字を伯升と言い、不義・不正を嘆く熱情と、志を変えない強い意志をもっていた。常に時勢を憤り、漢室の再興を期していた。平素から生計家業に目もくれず、身を賭し財産を散じて、天下の英傑俊才と交りを結んだ。ここに至って身内や客分の者たちを遣い、諸県の兵を募った。劉縯自ら舂陵の若者を徴発したが、皆恐れて逃げ隠れて、口ぐちに「伯升に従ったら、我われは敗れて殺されてしまうぞ」と言いあった。ところが劉秀が赤い軍衣に大冠をつけて現れたのを見て、「あの謹しみ深く温厚な人さえ立ったのか」と驚き、はじめて得心した。劉縯は客分の者をそれぞれの部署に配置し、諸将を招き説いた。新市・平林・下江の兵も、皆来て加わった。兵があまりに多く統制が困難となったので、諸将が相談して漢室に続く劉氏を推し立ててその人望に依ろうと思った。下江の将王常は、縯を立てようとしたが、新市と平林の将軍たちは、劉縯の威光と人望や英明をかえって邪魔に思い、御し易い更始将軍の劉玄を立てて、縯を大司徒とし、秀を将軍とした。

劉縯(りゅういん、あるいはりゅうえん) 社稷 土地の神と五穀の神、建国のとき祭壇を設けて祀ったことから、国家朝廷。 絳衣 絳は赤い絹、将軍が用いる軍服。 更始 劉氏一族の玄

十八史略 光武皇帝

2011-04-23 11:11:17 | 十八史略
気佳なる哉、鬱々葱々然たり

世祖光武皇帝名秀、字文叔、長沙定王發之後也。景帝生發。發生舂陵節侯買。侯再三世。徙封以南陽白水郷爲舂陵、宗族往家焉。買少子外。外生囘。囘生南頓令欽。欽生秀於南頓。有嘉禾一莖九穂之瑞。故名。先是有望氣者。望舂陵曰、氣佳哉。鬱鬱葱葱然。王莽改貨曰貨泉。人以其字爲白水眞人。秀竟從白水起。隆準日角。受尚書通大義。嘗過蔡少公。少公學圖讖。言、劉秀當爲天子。或曰、國師公劉秀乎。秀戲曰、何由知非僕邪。

世祖光武皇帝名は秀、字(あざな)は文叔、長沙の定王發の後(のち)なり。景帝發を生む。發、舂陵(しょうりょう)の節侯(せつこう)買を生む。侯たること再三世なり。封を徙(うつ)し南陽の白水郷を以って舂陵と為し、宗族往(ゆ)いて家す。買の少子を外という。外、回を生む。回、南頓の令欽を生む。欽、秀を南頓に生む。嘉禾一莖(かかいっけい)九穂(すい)の瑞(ずい)有り。故に名づく。是より先、気を望む者有り。舂陵を望んで曰く、気佳なるかな。鬱鬱葱葱(そうそう)然たり。王莽、貨を改め貨泉という。人、その字を以って白水真人となす。秀竟(つい)に白水より起こる。隆準(りゅうせつ)にして日角(にっかく)あり。尚書を受けて、大義に通ず。嘗て蔡少公に過(よぎ)る。少公、図讖(としん)を学ぶ。言う、劉秀当(まさ)に天子と為るべし、と。或る人曰く、国師公劉秀か、と。秀戯れて曰く、何に由(よ)って僕に非ざるを知るか、と。

世祖光武皇帝、名は秀で字は文叔という。長沙の定王發の子孫である。景帝(在位前156年~前141年)が発を生み、発が舂陵の節侯の買を生んだ。買の後、その地に侯として二、三代続いたが、その後南陽の白水郷に移り、その地を同じく舂陵と名づけ、一族をあげて定住した。買の末子を外といい、外は回を生み、回は欽を生み、欽は河南省南頓県の県令になり、秀が生まれた。その時、稲の一茎から九房の穂が出るという瑞兆があった。それで禾(いね)が乃(のびる)の意をとって秀と名づけた。これより先よく気を占う者が舂陵を望んで「なんとすばらしい。鬱々葱々と雲気の立ち昇ることよ」と言った。また王莽が貨幣を変えて貨泉を造ったとき、ある人がその文字は白水真人と分解できると言ったことがあるが、はたして白水から劉秀というまことの道を体得した人が現れた訳である。鼻が高く額が尖って天子の相があった。師について尚書を学んだが、たちまち大意を悟った。嘗て蔡少公の邸に立ち寄った。少公は図讖の学を学んでいたので、「劉秀という者が将来天子になるであろう」と言った。すると居合わせた客が「国師公の劉秀(別人)だろうか」と言うと、劉秀は冗談めかして「私も劉秀だが、あなたはどうして私でないと思うのだろうか」と言った。

鬱々葱々 気がさかんに昇るさま。 隆準 鼻梁が高い。 日角 額の上部が隆起している相。 図讖 未来の吉凶を予言した書。 国師公劉秀 七略を著した劉歆(きん)のこと、国師となり秀と名乗った。後に王莽を殺そうと図って自殺した。

十八史略 天、徳を予に生ず、漢兵其れ予を如何せん

2011-04-21 08:42:06 | 十八史略

歳旱蝗。人相食、遠近兵起。莽以五石銅鑄威斗、如北斗状。欲以厭勝衆兵、出入使人負之以行。至漢兵入宮、猶旋席、随斗柄而坐曰、天生於予。漢兵其如予何。斬首漸臺。軍人分其身、節解臠之。自簒至亡、改元者三、曰始建國・天鳳・地皇。凡十五年。莽傳首至宛。更始自宛遷都洛陽。父老見司隷校尉官屬、或垂涕曰、不圖、今日復見漢官威儀。
更始元年、遷都長安。
赤眉攻長安。明年、赤眉入。更始出奔。已而降赤眉、爲所殺。自立至亡、凡三年。前數月、大司馬秀已即位於河北。是爲世祖光武皇帝。

歳(とし) 旱蝗(かんこう)あり。人相食(は)み、遠近兵起こる。莽、五石銅を以って威斗(いと)を鋳(い)、北斗の状の如くす。以って衆兵を厭勝(えんしょう)せんと欲し、出入に人をして之を負って以って行かしむ。漢兵、宮に入るに至っても、猶席を旋(めぐ)らし、斗柄(とへい)に随って坐して曰く、天、徳を予(われ)に生ず。漢兵其れ予を如何せん、と。首を漸台(ぜんだい)に斬る。軍人其の身を分ち、節解(せっかい)して之を臠(れん)す。簒より亡に至るまで改元する者(こと)三、始建国・天鳳・地皇と曰(い)う。凡(すべ)て十五年なり。莽、首を伝せられて宛に至る。更始、宛より都を洛陽に遷(うつ)す。父老、司隷校尉の官属を見、或る者は涕を垂れて曰く、図らざりき、今日復漢官の威儀を見んとは、と。
更始元年、都を長安に遷(うつ)す。
赤眉、長安を攻む。明年、赤眉入る。更始、出奔す。已にして赤眉に降(くだ)り、殺す所と為る。立(りつ)より亡に至るまで、凡て三年なり。前数月、大司馬秀、已に河北に位に即く。是を世祖光武皇帝と為す。

年々、旱魃(かんばつ)や蝗(いなご)の害に見舞われ、人々は共食いをするまで追いつめられ、各所で暴動が起こった。王莽は五種の薬石と銅で北斗星をかたどった威斗というものを鋳た。その霊威によって各所の兵を威圧しようとして、外出の折にも人に背負わせて行った。
漢の兵が宮中に攻め入って来ても、王莽は玉座の向きを変えて斗の柄が敵に向くように坐して「天が徳を予にさずけているのだ。漢の兵が予をどうすることが出来るものか」と強がっていたが、とうとう漸台で首を斬られてしまった。兵たちは、王莽の身体を節々に切り離し切り刻んでしまった。簒奪から滅亡に至るまで、改元すること三回、始建国・天鳳・地皇がそれで、あわせて十五年間である。莽の首は駅伝えに宛まで送られた。更始帝は宛から洛陽に都を遷した。この時、父老たちは司隷校尉の率いる属官たちを見て、ある者は涙を流しつつ「今日、こうして再び漢廷の役人の威容を目の当たりにしようとは思いもよらなかった」と言った。更始元年に長安に遷都した。
赤眉が長安を攻め、翌年には攻め入った。更始帝は逃げ出したが間もなく赤眉に降伏し、殺された。帝位に即いてから滅亡に至るまで、あわせて三年である。
その数か月前、大司馬の劉秀はすでに河北で皇帝の位に即いていた。これを世祖光武皇帝という。

漸台 未央宮にある高台。 臠 切り身。