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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 五胡十六国

2012-03-31 10:35:59 | 十八史略

ここで五胡十六国を整理しておきたい。

五 胡   十六国   興亡年    建国者   都   征服国

モ       前趙(漢) 304~329   劉淵    平陽   後趙
  匈奴    北涼 397~439   沮渠蒙遜       北魏
ン       夏(大夏) 407~431   赫連勃勃       北魏

ゴ 羯(けつ) 後趙 319~351   石勒    鄴   ※冉閔

ル        前燕 337~370   慕容皝        前秦
        後燕 384~409   慕容氏   中山   北燕
系 鮮卑(せんぴ) 西秦 385~431   乞伏国仁  金城   夏
         南涼 397~414   禿髪烏孤       西秦
       南燕 398~410   慕容徳   滑台   東晋

チ        成(漢) 304~347   李特    成都   東晋
ベ 氐(てい)   前秦 351~394   苻健    長安   後秦
ッ        後涼 386~403   呂光         後秦

系 羌(きょう)  後秦 384~417   姚萇         東晋

漢       前涼 301~376   張軌         前秦
族        西涼 400~421   李    敦煌   北涼
         北燕 409~436   馮跋    竜城   北魏

※冉閔 後趙の臣

十八史略 張重華、自ら涼王を称す

2012-03-31 10:35:59 | 十八史略

涼州張重華、自稱涼王。初惠帝之世、張軌爲涼州刺史、威著西土。懷帝陥没。軌遣兵助愍帝於長安。帝以軌爲涼州牧西平公。軌卒。子寔立。寔爲妖賊所殺。弟茂立。趙主劉曜撃茂。茂降趙。茂卒。寔之子駿立。茂臨終語駿、必奉晉。不可失。駿雖復臣於後趙石勒、恥之。成帝時、假道於蜀、以通晉。駿卒。子重華立。晉遣使、仍拝西平公。重華自爲王。

涼州張重華、自ら涼王を称す。初め恵帝の世、張軌(ちょうき)涼州の刺史と為る。威、西土(せいど)に著(あら)わる。懐帝、陥没す。軌、兵を遣わして愍帝を長安に助けしむ。帝、軌を以って、涼州の牧西平公と為す。軌卒す。子寔(しょく)立つ。寔、妖賊の殺す所と為る。弟茂(も)立つ。趙主劉曜、茂を撃つ。茂、趙に降る。茂卒す。寔の子駿立つ。茂、終りに臨んで駿に語す、「必ず晋に奉ぜよ。失うべからず」と。駿、復た後趙の石勒に臣たりと雖も、之を恥ず。成帝の時、道を蜀に仮り、以って晋に通ず。駿卒す。子重華立つ。晋、使いを遣わし、仍(よ)って西平公に拝す。重華自ら王と為る。

恵帝 290~306年。 懐帝 307~312年。 愍帝 313~316年。 以上西晋。 成帝(東晋)326~342年。 刺史 監察官。 牧 長官。 仮 借りる。

涼州の張重華がみずから涼王を名乗った(349年)。遡れば西晋恵帝の世、張軌が涼州の刺史となり、西方に威名をあげた。漢の劉聡が懐帝を滅ぼしたとき、張軌が長安に兵を派遣して愍帝を助けたため、涼州の牧とし、西平公とした。張軌の死後、子の寔が立ったが、寔は怪しい賊に殺され弟の茂が立った。趙王の劉曜は茂を撃ち、茂は趙に降った。茂が死ぬと、寔の子の駿が立った。茂は臨終のとき駿に、「必ず晋に仕えよ、捨ててはならぬ」と言い残した。張駿はまた後趙の石勒に臣従していたが、内心それを羞じていた。成帝の時になって蜀の道を通って晋に修好を求めた。張駿が死ぬと子の重華が立った。晋は使いを遣わして、それで西平公に任命したが、満足せず、自ら王と名乗った。

十八史略 成漢滅び後趙乱る

2012-03-29 09:11:06 | 十八史略

漢主李勢、驕淫不恤國事。桓温帥師伐漢。拝表即行。進至成都。勢降。送建康。漢亡。
燕王慕容皝卒。子雋立。
趙天王石虎稱帝。尋卒。子世立。其兄遵弑之而自立。趙亂。晉征討都督褚裒、表請伐趙。朝野以爲、中原指期可復。蔡謨獨以爲、莫若度量力。經營分表、恐憂及朝廷。裒遣將、果敗没、
趙蒲洪遣使降晉。洪事趙累世、至是石閔言於趙主遵曰、蒲洪人傑也。今鎭關中。恐秦・雍非國家有。遵罷洪都督。洪怒歸枋頭、遂通于晉。

漢主李勢、驕淫(きょういん)にして国事を恤(うれ)えず。桓温、師を帥(ひき)いて漢を伐つ。拝表して即ち行く。進んで成都に至る。勢降る。建康に送る。漢亡ぶ。
燕王慕容皝(ぼようこう)卒す。子雋(しゅん)立つ。
趙天王石虎、帝と称す。尋(つ)いで卒す。子世(せい)立つ。その兄遵(じゅん)、之を弑して自立す。趙乱る。晋の征討都督褚裒(ちょほう)、表して趙を伐たんと請う。朝野以為(おも)えらく、「中原、期を指して復すべし」と。蔡謨(さいぼ)独り以為えらく、「徳を度(はか)り力を量るに若(し)くは莫(な)し。分表を経営せば、恐らくは、憂い朝廷に及ばん」と。裒、将を遣(や)る。果たして敗没す。
趙の蒲洪(ほこう)、使いを遣わして晋に降る。洪、趙に事(つか)うること累世、是(ここ)に至って、石閔(せきびん)、趙主遵に言って曰く、「蒲洪は人傑なり。今関中を鎮す。恐らくは、秦・雍(よう)は国家の有には非じ」と。遵、洪の都督を罷(や)む。洪、怒って枋頭(ほうとう)に帰り、遂に晋に通ず。


拝表 上奏文を奉ること。 期を指して 分表 分は分限、表は外、身の程のほか。 経営 計画をたてる。 人傑 特に優れた人、傑物。 秦・雍 今の甘粛省、陜西省の地。 枋頭 河南省の地名。

漢主の李勢は驕り昂ぶって酒色に耽り、国事を顧みなかった。桓温は軍隊をひきいて、漢を伐った。表を奉りすぐさま進発して成都に軍を進めた。李勢は降伏して、建康に送られた。遂に成漢は亡んだ(347年)。
燕王の慕容皝が死んで、子の雋が後を嗣いだ。
趙天王石虎が帝と自称したが、ほどなく死んだ。子の世が立ったが、兄の石遵が世を弑して自ら立った。そのため趙の国内が乱れた。
晋の征討都督の褚裒が上奏文を奉って趙を伐ちたいと願い出た。朝野共に中原が晋の手に取り戻すことは時間の問題と思っていたが、蔡謨だけは、「徳と力をはかり較べるに越したことはない。身の程を超えたことを計画すると、災いは朝廷にまで及ぶ恐れがあるであろう」と危惧した。しかし褚裒が将を派遣して趙を攻めたが案の定敗れて戦死した。
趙の蒲洪が使いを遣わして晋に降った。蒲洪の家は代々趙に仕えていたが、この時になって石閔が、石遵に向かって「蒲洪はただ者ではありません。いま、関中を治めていますが、恐らく秦・雍の地は我が国のものではなくなりましょう」と言ったので、石遵は蒲洪を都督から解任した。蒲洪は怒って枋頭に帰り、遂に晋に内通したのである。


石川忠久先生の講演

2012-03-27 17:25:01 | 詩吟
一昨日、宇都宮で少壮吟士のチャリチィーが行われ、中澤春誠師も出演されたが、残念ながら所用のため行くことができなかった。用事を切り上げて神田の学士会館で行われた二十一世紀詩歌朗詠懇談会の講演を聴いて来た。講師はおなじみの石川忠久先生で「中国の四季」と題して間に吟詠を挟んでの講義であった。(春を謳う)では、陶潜の「四時」李白の「春夜洛城に笛を聞く」杜甫の「春望」を(夏に処す)で高駢の「山亭夏日」、楊万里の「夏夜涼を追う」(秋に憶う)で李白の「静夜思」と「峨眉山月の歌」杜牧の「紫微花」と「山行」白居易の「菊花」を、(冬に対す)では高適の「除夜の作」陸游の「降雪」柳宗元の「江雪」を作者から、字句の解説、中国語の読みまで懇切丁寧に尚且つ、ユーモアを交えて、NHKラジオで聞いていたあの語り口で講演をしてくださった。たいそう意義深い時間を過ごさせていただきました。誘ってくださった三浦喨泉さんに感謝。

十八史略 穆皇帝

2012-03-27 08:48:59 | 十八史略
温は形勝の地に居らしむべからず
孝宗穆皇帝名耼、三歳即位。會稽王輔政。
庾翼卒。以桓温都督荊・梁等州軍事。翼初表其子領荊州。何充曰、荊楚國之西門。豈可以白面少年當之。桓温英略過人。西任無出温者。丹陽尹劉惔。知温有不臣之志、謂曰、温不可使居形勝地。不聽。竟以温代翼。

孝宗穆皇帝、名は耼(たん)、三歳にして位に即く。会稽王(いく)、政を輔(たす)く。
庾翼卒す。桓温を以って荊・梁等の州軍事を都督せしむ。翼、初め其の子を表して荊州を領せしむ。何充(かじゅう)曰く、「荊は楚国の西門なり。豈(あ)に白面の少年を以って之に当(あ)つ可(べ)けんや。桓温は英略人に過ぐ。西任(せいにん)温に出づる者無し」と。丹陽の尹、劉惔(りゅうたん)、温が不臣の志有るを知り、に謂って曰く、「温は形勝の地に居(お)らしむべからず」と。聴かず。竟(つい)に温を以って翼に代(か)う。


楚国 揚子江中流域、かつての楚の国。 白面 青二才。西任 西方の任務。 丹陽 江蘇省の地名。 不臣の志 臣下としてあるまじき志、野心。 形勝の地 要害の地。

孝宗穆皇帝、名を耼といい、三歳で即位した。会稽王の司馬が政治を補佐した。
庾翼が死んだので、桓温を荊州、梁州の軍事都督に任命した。初め庾翼は自分の子に荊州を治めさせるよう上表したが、翼の死後、何充が「荊州は楚国の西門にあたる要衝の地です。どうしてなまっ白い青二才に任せられましょうか、それに比べて桓温は智恵策略に抜きんでています。西の任務はこれに過ぎる者は居りません」と反対した。丹陽の長官の劉惔が、桓温に野心のあることを見抜き、「桓温を要害の地に置くのは危険です、いけません」とに進言したが、聞き入れられず、結局桓温を庾翼の代わりにした。