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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

唐宋八家文 韓愈 後十九日復たび宰相に上る書 (二ノ二)

2013-06-04 10:12:57 | 唐宋八家文
愈之彊學力行有年矣。愚不惟道之險夷、行且不息、以蹈於窮餓之水火。其既危且亟矣。大其聲而疾呼矣。閤下其亦聞而見之矣。其將往而全之歟、抑將安而不救歟。有來言於閤下者曰、有觀溺於水、而爇於火者。有可救之道、而終莫之救也。閤下且以爲仁人乎哉。不然若愈者、亦君子之所宜動心者也。
 或謂愈、子言則然矣。宰相則知子矣。如時不可何。愈竊謂之不知言者。誠其材能不足當吾賢相之擧耳。若所謂時者、固在上位者之爲耳。非天之所爲也。
 前五六年時、宰相薦聞尚有自布衣蒙抽擢者。與今豈異時哉。且今節度・觀察使及防禦・營田諸小使等、尚得自擧判官、無於已仕未仕者。況在宰相、吾君所尊敬者、而曰不可乎。
 古之進人者、或取於盜、或擧於管庫。今布衣雖賤、猶足以方於此。情隘辭蹙、不知所裁。亦惟少垂燐焉。愈再拜。

後十九日復(ふた)たび宰相に上(たてまつ)る書 (二ノ二)

 愈の学に彊(つと)め行いに力むること年有り。愚にして道の険夷(けんい)を惟(おも)わず、行きて且つ息(や)まず、以って窮餓(きゅうが)の水火を踏む。それ既に危うくして且つ亟(すみや)かなり。その声を大にして疾呼せり。閤下それ亦た聞きてこれを見たり。それ将(は)た往きてこれを全うせんか、抑々(そもそも)将た安んじて救わざるか。
閤下且つ以って仁人と為さんか。然らずんば、愈の若(ごと)き者も亦た君子の宜しく心を動かすべき所のものなり。或るひと愈に謂う「子(し)の言は則ち然り。宰相は則ち子を知れり。時の不可なるを如何(いかん)せん」と。
愈窃(ひそ)かにこれを言を知らざる者と謂(おも)えり。誠にその材能(ざいのう)の吾が賢相の挙ぐるに当たるに足らざるのみ。所謂(いわゆる)時の若きは、固(もと)より上位に在る者の為すことのみ。天の為すところに非ざるなり。
前五六年の時、宰相の薦聞(せんぶん)尚お布衣より抽擢(ちゅうてき)を蒙りし者有り。今と豈時を異にせんや。且つ今の節度・観察使及び防禦・営田(えいでん)の諸小使等すら、尚自ら判官を挙ぐるを得、已に仕えたると未だ仕えざる者と間(へだ)つる無し。況んや宰相に在りては、吾が君の尊敬するところの者、而も不可なりと曰わんや。
古の人を進むる者は、或いは盗より取り、或いは管庫より挙ぐ。今布衣は賎しと雖も、猶お以ってこれに方(くら)ぶるに足る。情隘(せば)まり辞蹙(ちぢこま)りて、裁(さい)するところを知らず。亦惟だ少しく憐れみを垂れんことを。愈、再拝。


険夷 けわしい所と平らかな所。 材能 才能。 薦聞 推薦して君主に申し上げる。 抽擢 抜擢。 節度使 地方の軍政行政をつかさどる。 監察使 地方行政を監督する官。防禦使 要地で軍務をつかさどる。 営田使 屯田を監督する官。 小使 防禦・営田などの低い官職。 判官 属官。 盗より取り 斉の管仲が盗賊の中から官吏に推薦した。管庫より挙ぐ 晋の趙文子が倉庫番から七十余人を官吏に登用した。 裁する 処置する。

 私が学問に励み、行いを正しくしてきたのにはかなりの年月がございました。愚かにも道の険しいことを考えず、ひたすら突き進むだけでございました。それゆえ貧と飢えにあえいできました。それもすでに危うく切迫しており、こうして声を大にして叫んでいるのでございます。閣下もこの叫びを聞かれ、その事態をご覧になりました。さて閣下は駆けつけて救おうとなさいますか、それとも平然と見過ごされますか。
 誰かが閣下の前でこう言ったとします「水に溺れ、火に焼かれる人を見ました。救う手立てはありましたが、結局助けませんでした」と。閣下はこの人を仁者だとお思いでしょうか。お思いでないとしましたら、私のような者にも、君子として同情を寄せて下さってよいのではございませんか。
 或るひとが申しました「君の言うことはもっともだ。宰相も君のことを知っている。だが時節が悪いのはどうしようもないのだ」と。
 わたしはこれを言葉を知らない人だと思いました。本当は私の才能が、賢明な宰相閣下の推挙するに値いするに足らないからに過ぎないのでどざいます。時節などはもとより高位高官の作り出されるもので、天の為すところでは無いのであります。
 今から五、六年前には宰相が天子に人材を推薦する場合、無位無官の身から抜擢される者がありました。今とその時と時節が違っているはずはございません。まして今の節度使・観察使や防禦・営田の微禄の官職まで自分で属官を推挙することができ、仕官しているか、無官かの区別さえありません。まして宰相の身にあって君子の尊敬を受けている方がそれをできないと言うのでしょうか。
 昔、人を薦めるひとは盗賊の中にいためぼしい者を推挙し、倉庫番の中から登用したりしました。今私は無官といえどもなおこれらの人々に比較するに充分足りていると思うのであります。
思いが胸にせまり、言葉がつかえてまとまりがつかない状態です。ただ少しく憐れみを垂れ給うことを。愈 再拝。


いよいよ切迫して書いた仕官の依頼ですが残念ながら取り上げるには至りませんでした。

十八詩略 

2013-06-04 09:25:51 | 十八史略
宣宗皇帝、不慧を装う
宣宗皇帝名怡、憲宗皇帝子也。幼號不慧。太和後自韜匿。文宗好誘其言以爲笑。武宗豪邁、尤不禮之。名爲光叔。武宗疾篤。子幼。宦官定策禁中。詔立怡爲皇太叔。更名忱。權匂當軍國事。裁決咸當理。人始知其隠焉。尋即位。
李裕罷。僧孺・宗閔等北僊。裕三貶、至崖州司戸以死。
令狐綯同平章事。先是綯爲學士。上嘗以太宗所選金鏡録、授綯使讀之。又書貞觀政要於觀屏風、毎正色拱手而讀。嘗與學士畢諴論邊事。諴具陳方略。上悦曰、不意頗牧在吾禁中。即用爲邊帥。果稱其任。

宣宗皇帝、名は怡(い)憲宗の子也。幼きとき不慧(ふけい)と号す。太和の後益々自ら韜匿(とうとく)す。文宗好んで其の言を誘(いざの)うて以って笑いと為す。武宗豪邁(ごうまい)にして尤も之を礼せず。名付けて光叔と為す。武宗、疾篤し。子幼なり。宦官、策を禁中に定む。詔して怡を立てて、皇太叔と為す。更(あらた)めて忱(しん)と名づく。権(かり)に軍国の事を匂当(こうとう)す。裁決咸(ことごと)く理に当たる。人始めて其の隠徳を知る。尋(つ)いで位に即く。
李徳裕罷(や)む。僧孺・宗閔等、北に僊(うつ)る。徳裕三たび貶(へん)せられ、崖州の司戸(しこ)に至って以って死す。
令狐綯(れいことう)、同平章事たり。是より先綯、学士と為る。上嘗て太宗の選する所の金鏡録を以って、綯に授けて之を読ましむ。又貞観政要を屏風に書して、毎(つね)に色を正し手を拱(きょう)して読む。嘗て学士畢諴(ひっかん)と辺事を論ず。諴具(つぶさ)に方略を陳(の)ぶ。上悦んで曰く「意(おも)わざりき、頗牧(はぼく)、吾が禁中に在らんとは」と。即ち用いて辺帥と為す。果たして其の任に称(かの)う。


不慧 慧は賢い。 韜匿 才能を隠す。 豪邁 気性が強い。  光叔 光王というべきを軽んじて光叔父と呼んだ。 策を定む 臣下が天子を定めること。 権 仮。 匂当 事務を執る。 崖州 広東省の地。 司戸 戸籍や田地を管理する。 金鏡録 唐の太宗が自撰の書。 貞観政要 太宗と家臣の政治問答。拱す 手を組んで拝礼すること。 頗牧 廉頗と李牧共に趙の名将。 辺帥 国境防備の将軍。 

宣宗皇帝、名は怡で憲宗の子で武宗の叔父にあたる。幼いとき愚か者と言われ、太和の後には益々才能を隠して愚を装っていた。文宗はこの怡に何か言わせて笑いの種にした。武宗は気性が強く叔父を礼せず光叔と呼びすてにしていた。
武宗の病気が重く、子はまだ幼なかった。宦官たちは太子を立てるにあたって自分達の傀儡として怡を皇太叔に立て、名を忱とあらためるとの詔が発せられた。試みに軍政と国政に当たらせてみた。すると裁決がすべて的を射ていた。人は始めて才能を隠していたことを知ったのであった。やがて武宗の崩御にともなって即位した。 
同平章事李徳裕が罷免され、牛僧孺・李宗閔らは北に任地を移された。李徳裕は三度左遷され崖州の司戸にまで落とされてそこで死んだ。
令狐綯が同平章事となった。それより以前令狐綯は翰林学士となって宣宗の側近くに仕えていた。宣宗は太宗の撰した金鏡録を授けて講じさせたことがあった。また貞観政要を屏風に書いて拱手して読んだ。
嘗て翰林学士の畢諴に辺境防備について意見を求めると畢諴はつぶさに方略を言上した。宣宗は驚き且つ悦んで「廉頗と李牧に匹敵する者が禁中に居るとは思いもよらなかった」と言って、即座に抜擢して辺將としたところ見事に任にふさわしい働きをした。


唐宋八家文 韓愈 後十九日復上宰相書(二ノ一)

2013-06-01 08:41:14 | 唐宋八家文
後十九日復上宰相書
二月十六日。前郷貢進士韓愈、謹再拝言相公閤下。向上書及所著文、後待命凡十有九日。不得命、恐懼不敢逃遁、不知所爲。乃復敢自納於不測之誅、以求畢其説、而請命於左右。
 愈聞之。蹈水火者之求免於人也、不惟
其父兄子弟慈愛、然後呼而望之也。將有介於其側者、雖其所憎怨、苟不至乎欲其死者、則將大其聲疾呼而望其仁之也。
 彼介於其側者、聞其聲而見其事、不惟其父兄子弟之慈愛、然後往而全之也。雖有所憎怨、苟不至乎欲其死者、則將狂奔盡氣、濡手足焦毛髪、救之而不辭也。若是者何哉。其勢誠急、而其情誠可悲也。

後十九日復(ふた)たび宰相に上(たてまつ)る書 (二ノ一)
二月十六日。前(さき)の郷貢(きょうこう)の進士韓愈、謹んで再拝し相公閤下(こうか)に言(もう)す。向(さき)に書及び著すところの文を上り、後命を待つこと凡そ十有九日なり。命を得ず、恐懼するも敢えて逃遁(とうとん)せず、為すところを知らず。乃ち復た敢えて自ら不測の誅を納(い)れ、以ってその説を畢(お)えんことを求めて、命を左右に請う。
 愈これを聞けり。「水火を踏む者の免れんことを人に求むるや、惟だその父兄子弟の慈愛にして、然る後に呼びてこれを望むのみならざるなり。将(は)たその側(かたわら)に介する者有らば、その憎怨(ぞうえん)するところと雖も、苟(いやしく)もその死を欲するに至らざる者あらば、則ち将(まさ)にその声を大にして疾呼(しつこ)し、そのこれに仁あらんことを望まんとするなり。
 彼(か)のその側に介する者も、その声を聞きてその事を見れば、惟その父兄子弟の慈愛にして、然る後に往きてこれを全うするのみならざるなり。憎怨するところ有りと雖も、苟くもその死を欲するに至らざる者ならば、則ち将に狂奔(きょうほん)して気を尽し、手足を濡らし、毛髪を焦がし、これを救いて辞せざらんとするなり」と。是(かく)の若(ごと)きは何ぞや。その勢い誠に急にして、その情誠に悲しむべければなり。

郷貢 州県長官が選抜した進士。 逃遁 逃げること。 憎怨 憎み怨む。 疾呼 激しく呼び立てること。 

二月十六日。前の郷貢の進士韓愈、謹んで再拝し、宰相閣下に申し上げます。さきに書面と自作の文章をさしあげましてから、ご返事を待つこと十九日になります。ご返事がいただけませんので、無礼者めとお叱りを畏れながら逃げ出すこともできずこうして復た敢えてお咎めを覚悟の上で自分の考えを申し上げて左右の方たちのご返事を待つことに致します。
私はこのように聞いております。「水に溺れ火に焼かれている人が助けを求める場合、肉親を呼んで救助を求めるでしょうか、もし側に人が居れば、たとえ日ごろ憎み怨んでいる者でも、死ねばよいとまで思われていなければ、大声を上げて叫び、助けてくれることを願うものであります。側にいる人も、その声を聞き差し迫った事態を見れば、父兄子弟の情を持つ人に限らず駆けつけて助けようとするでしょう。死ねばよいと思っていない相手なら、懸命に走り寄って、手足を濡らし毛髪を焦して救い出さずにおかないものです」と。
これはなぜでしょうか。事態が切迫していて相手があまりにも可愛想だからであります。

十八史略 天子は宜しく奢靡を以って之を娯しましむべし

2013-06-01 08:33:37 | 十八史略

削宦者仇士良官爵、籍没其家。先是士良致仕。其黨送歸。士良教之曰、天子不可令閑。常宜以奢靡娯之。使無暇及他事。愼勿使之讀書親近儒生。見前代興亡、心知憂戄、則吾輩疎斥矣。
毀天下佛寺、僧尼勒歸俗。
會昌六年、上崩。在位七年。改元者一、曰會昌。光王立。是爲宣宗皇帝。

宦者仇士良の官爵を削り、其の家を籍没(せきぼつ)す。是より先、士良致仕(ちし)す。其の党帰るを送る。士良之に教えて曰く「天子は閑ならしむ可からず。常に宜しく奢靡(しゃび)を以って之を娯(たの)しましむべし。他事に及ぶに暇(いとま)無からしめよ。慎んで之をして書を読み儒生に親近せしむる勿れ。前代の興亡を見て、心に憂戄(ゆうく)を知らば、則ち吾輩疎斥(そせき)せられん」と。
天下の仏寺を毀(こぼ)ち、僧尼は勒(ろく)して俗に帰せしむ。
会昌六年、上崩ず。在位七年。改元する者(こと)一、会昌と曰う。光王立つ。是を宣宗皇帝と為す。


籍没 財産を記録し、官に没収すること。 致仕 辞任。 奢靡 奢侈にふけること。 憂戄 憂え恐れること。 疎斥 疎外。 勒 勒はくつわ、支配すること。

宦者仇士良の官爵を剥奪し、家財を没収した。これより前、士良は役目を辞していたが、一党が士良を見送りに来たときに言った「天子には閑を与えてはいけない。奢侈にふけらせ外の事を考えないようにすることが肝要だ。書を読み儒学生に近づけてはならぬ、歴史の興亡を学び、憂いや恐れを抱いたときが我々が排斥される時なのだ」と。
会昌五年、天下の仏寺四万を取り壊し、僧と尼二十六万人を還俗させた。(これを会昌の廃仏という)
会昌六年(846年)武宗が崩じた。位に在ること七年、改元は一度、会昌という。光王が後を嗣いだ。これが宣宗皇帝である。