寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

唐宋八家文 韓愈

2014-04-29 09:00:46 | 唐宋八家文
朝に還らんとして墓を過ぎ駅の梁に留め題す
韓愈は長慶四年(824年)夏病を得て役を辞し十二月二日長安で死んだ。娘の挐女を改葬して一年後のことである。死後礼部尚書を贈られ文公と諡(おくりな)された。挐女の死について「去歳刑部侍郎より罪を以って潮州刺史に貶せられ、駅(かえうま)に乗りて任に赴く。その後家もまた譴(せ)め逐われ、小女の道に死したれば、これを層峰駅の旁(かたわら)の山下に殯(もがり)す。恩を蒙りて朝に還らんとして、その墓を過ぎ、駅の梁に留め題(しる)す」と題して七言律詩を残している。
 數條藤束木皮棺  草殯荒山白骨寒
 驚恐入心身已病  扶舁沿路衆知難
 繞墳不暇號三匝  設祭惟聞飯一盤
 致汝無辜由我罪  百年慙痛涙闌干
数条の藤(ふじづる)もて木皮の棺を束(つか)ね  
荒山に草殯(かりもがり)すれば白骨寒し
驚きと恐れと心に入りて身は已(すで)に病み 
扶(たす)け舁(かつ)がれて路をたどれば衆(ひと)は難(あや)うきを知る
墳(はか)を繞(めぐ)るに号(な)きて三たび匝(めぐ)る暇(いとま)もあらず 
祭りを設くるに惟だ飯の一盤のみと聞く
汝を辜(つみ)無きに致(し)なせしは我が罪に由(よ)る
百年慙(は)じ痛み涙は闌干(しとど)ならん

これをもって韓愈を終わり次回から柳宗元になります。

十八史略 隠帝

2014-04-26 08:48:58 | 十八史略
隠帝
隱帝名承祐、年十八即位。
先是漢祖以弟崇尹太原、爲留守河東節度使。崇與郭威有隙。至是威爲樞密使侍中執政。崇爲自全之計、選募勇士、招納亡命、繕甲兵、實府庫、罷上供財賦、朝廷詔令、多不稟承。
荊南高從誨卒。子寶融知軍府。
河中李守貞反。郭威督諸軍、討克之。守貞自殺。
漢以郭威爲鄴都留守。
楚王馬希廣之兄希萼、殺希廣而自立。

隠帝名は承祐、年十八にして位に即く。
是より先漢祖、弟の崇を以って太原に尹(いん)とし、留守(りゅうしゅ)河東節度使と為す。崇、郭威(かくい)と隙(げき)有り。是(ここ)に至って威、枢密使侍中と為って政(まつごと)を執る。崇、自全の計を為し、勇士を選び募り、亡命を招き納れ、甲兵を繕(おさ)め、府庫を実(み)て、財賦を上供することを罷(や)め、朝廷の詔令、多くは稟承(ひんしょう)せず。
荊南の高従誨(こうしょうかい)卒す。子の宝融、軍府に知(ち)たり。
河中の李守貞反す。郭威、諸軍を督して、討って之に克(か)つ。守貞自殺す。
漢、郭威を以って鄴都留守(ぎょうとりゅうしゅ)と為す。
楚王馬希広の兄希萼(きがく)、希広を殺して自立す。


尹 長官。 留守 節度使が不在のとき代理となる役目。 亡命 命は名籍、逃亡した者。 稟承 承知すること。 督 率いる。 知 治める。
隠帝は名を承祐といった。十八歳で即位した。
これより前に漢の高祖知遠が河東の節度使をしていた時、弟の崇を太原府の知事として、河東節度使の留守を命じた。ところが崇は郭威という者と仲が悪く、隠帝が即位すると郭威が枢密使侍中となって政務を執ることになったので危険を感じ、自分の身を安全に保つため、勇者を募り、亡命者を招き入れ、甲冑武器を繕い、庫を満たし、年貢の上納をやめ、朝廷からの詔勅も多くは無視した。
荊南の高従誨が死に、子の宝融が軍と役所を治めた。
河中の節度使の李守貞が謀叛を起こしたので、郭威が軍を率いてこれを討ち、守貞は自殺した。漢は郭威を鄴都留守に任命した。
楚王馬希広の兄の希萼が希広を殺して自立した。


唐宋八家文 韓愈 女 挐女(だじょ)を祭る文

2014-04-24 09:44:49 | 唐宋八家文
祭女挐女文
維年月日。阿爹阿八、使汝嬭以酒・時果・庶羞之奠、祭于第四小娘子挐子之靈。
嗚呼、昔汝疾極、値吾南逐。蒼黄分散、使女驚憂。我視汝顔、心知死隔。汝視我面、悲不能啼。我既南行、家亦随譴。扶汝上輿、走朝至暮。天雪氷寒、傷汝羸肌。撼頓險阻、不得少息。不能食飮、又使渇飢。死于窮山、實非其命。不免水火、父母之罪。使汝至此、豈不縁我
草葬路隅、棺非其棺。既瘞遂行、誰守誰瞻。魂單骨寒、無所託依。人誰不死。於汝即冤。我歸自南、乃臨哭汝。汝目汝面、在吾眼傍。汝心汝意、宛宛可忘。
逢歳之吉、致汝先墓。無驚無恐、安以即路。飮食芳甘、棺輿華好、歸于其丘、萬古是保。尚饗。

女(むすめ) 挐女(だじょ)を祭る文
維(こ)れ年月日。阿爹阿八、汝が嬭(だい)をして清酒、時果、庶羞(しょしゅう)の奠(てん)を以って、第四小娘子(しょうじょうし)なる挐子(だし)の霊を祭らしむ。
嗚呼、昔汝の疾(やまい)極まれるとき、吾が南に逐(お)わるるに値(あ)う。蒼黄(そうこう)分散し、女(むすめ)をして驚き憂えしめり。我汝の顔を視て、心に死の隔てんことを知れり。汝我が面(おもて)を視て、悲しむも啼(な)く能わず。我既に南行し、家も亦た譴(けん)に随(したが)う。汝を扶(たす)けて輿に上(のぼ)せ、走ること朝より暮れに至る。天雪ふり、氷寒く、汝が羸(よわ)き肌を傷(いた)ましむ。険阻に撼頓(かんとん)するも、少しも息(いこ)うを得ず。食飲する能わず、また渇き飢えしむ。
窮山に死せるは、実にその命に非ず。水火を免れざるは父母の罪なり。汝をして此に至らしむるは、豈我に縁(よ)らざらんや。
路隅に草葬(そうそう)すれば、棺はその棺に非ず。既に瘞(うず)めて遂に行けば、誰か守り誰か瞻(み)ん。魂は単(ひと)り骨は寒く、託依(たくい)するところ無し。人誰か死せざらん。汝に於けるは即ち冤(えん)なり。
我南より帰り、乃ち臨みて汝を哭す。汝が目、汝が面は、吾が眼の傍らに在り。汝が心汝が意(おもい)は宛宛(えんえん)として忘るべけんや。
歳の吉(よきひ)に逢いて、汝を先墓に致す。驚く無く、恐るる無く、安らかに以って路に即(つ)け。飲食の芳甘(ほうかん)、棺輿(かんよ)の華好(かこう)なるをもて、その丘に帰すれば、万古是れ保たん。尚(ねが)わくは饗(う)けよ。


阿爹阿八 阿爹も阿八もお父さんの意。 嬭 うば。 時果、庶羞 季節の果物とごちそう。 奠 おそなえ。 蒼黄 慌てふためく。 譴 とがめ譴責。 撼頓 揺れ倒れる。 草葬 仮埋葬。 瞻 見る、見張る。 託依 頼る。 冤 無実の罪。 宛宛 伸び縮みする。 先墓 先祖の墓。 

年月日。お父さんはそなたの乳母に、お神酒と季節の果物と御馳走をお供えに持たせて、四番目の娘のそなたの霊を祭らせる。
 ああ、昔そなたの病気が危篤に陥ったとき、私が南方の潮州に流罪になり、慌てふためいて家族と別れることになり、そなたを驚かせ悲しませたのだった。私はそなたの顔を視て、心の中で、死の遠くないことを感じていた。そなたも私の顔を視て、悲しんでいたけれど泣く力も無かった。
 私が南に発つと、家族もまた咎めによって都を出なければならなくなった。そなたを輿に乗せて、朝から晩まで道を急いだ。空からは雪が降り、地面は凍って冷たく、そなたの衰弱した体を痛めつける。険しい道に輿が揺れ倒れても休むいとまなく飲食すらできず、渇き飢えた。
 奥深い山の中で死んでしまったのはそなたの運命ではない、危難を免れなかったのは、すべて親の罪なのだ。そなたを死に至らしめたのは、ほかならぬ私のせいだったのだ。
 道端に仮の埋葬をしたので、ひつぎもそなたにふさわしいものではなかった。埋葬するとすぐさま家族は旅を続けたので、誰もそなたの墓を見まもることができず、そなたの魂はただひとり、体は凍え頼る人もなかった。人は誰も死ぬのだけれど、そなたの死はそなたにとって理不尽なものだった。
私が南から帰り、墓に参ってそなたを弔った。そなたの目そなたの顔が私の目の前に浮んでくる。そなたの心そなたの思いは私の中に渦巻いて忘れることなどとてもできない。
佳い日を選んでそなたを先祖の墓に納めた。もう恐れることなく安らかに黄泉の旅路につきなさい。おいしい食べ物と清らかな水、美しいひつぎでお墓に葬りました。永遠にそなたを守ってくれるでしょう。どうかお父さんのこの祈りを受けてください。


長慶三年(823年)韓愈五十六歳の作。「仏骨を論ずる表」により天子の逆鱗にふれて、都を追われ、十二歳で故なく死んだ四女を悼む父親の悲哀。この文はわれらの胸に惻惻と迫ってくる。自分が娘の死を早めたこと、その死に立ち会えなかった無念、路傍にかりもがりをしてきた自責の念が簡潔な文のなかに込められている。

十八史略 契丹の堯骨死す

2014-04-22 09:09:40 | 十八史略
後晉祖以知遠鎭河東。晉祖殂。遺命以知遠入輔政。晉人匿之。知遠由是怨朝廷。契丹連入寇。晉雖以知遠爲行營都統、知遠不行。契丹滅晉入大梁。知遠稱帝於晉陽。契丹去。乃發太原入洛、遂入汴、國號漢。後更名。
契丹主那律光歸、至殺胡林而死。剖腹實盬載去。人謂之帝■。子兀欲立。
楚王馬希範卒。子希廣立。
呉越王錢弘佐卒。弘倧立。其下廢之、而立弘俶。
漢主殂。在位一年。改元乾祐。子周王立。是爲隱帝。

後、晋祖知遠を以って河東に鎮せしむ。晋祖、殂す。遺命して知遠を以って入って政を輔(たす)けしむ。晋人之を匿(かく)す。知遠是に由って朝廷を怨む。契丹連(しき)りに入寇す。晋、知遠を以って行営都統と為すと雖も、知遠行かず。契丹、晋を滅ぼして大梁に入る。知遠帝を晋陽に称す。契丹去る。乃ち太原を発して洛に入り、遂に汴(べん)に入り、国を漢と号す。後に名を(こう)と更(あらた)む。
契丹の主那律徳光帰り、殺胡林に至って死す。腹を剖(さ)き塩を実てて載せ去る。人之を帝■(ていは)と謂う。子の兀欲(こつよく)立つ。
楚王馬希範卒す。子の希広立つ。
呉越王銭弘佐卒す。弘倧(こうそう)立つ。其の下(しも)之を廃して弘俶(こうしゅく)を立つ。
漢主殂す。在位一年。元を乾祐と改む。子の周王立つ。是を隠帝と為す。
                             ■は羊に巴、干物の意。
行営都統 総司令官。 那律徳光 堯骨のこと、徳光は漢名。 

後に晋の高祖は知遠を河東の節度使に任命した。死に臨んで知遠に洛陽に入って後嗣の政治を輔佐するよう遺言したが、朝廷はこれを秘してしまった。知遠はこれによって朝廷を怨むようになった。その後契丹がしきりに侵入してきたので、晋は知遠を行営都統に任命したけれど知遠は動かなかった。それで遂に契丹は晋を滅ぼして大梁に入った。知遠は晋陽で帝と称していたが、契丹が引き上げると、太原を出て洛陽に入り、遂に汴に入って国号を漢と称し、名をと改めた。
契丹の主の那律徳光が帰る途中、殺胡林で死んだ(947年)。腹を割き塩を詰め込んで車に載せて帰った。人々はこれを帝は、と言った。子の兀欲が立った。
楚王の馬希範が死んで子の希広が立った。
呉越王の銭弘佐が死んで弘倧が立ったが、その臣下がこれを廃して弘俶を立てた。
漢の高祖が死んだ(948年)。在位僅か一年で、年号を乾祐と改めた。子の周王が立った。これを隠帝という。


唐宋八家文 韓愈 殿中少監馬君墓誌

2014-04-19 12:10:39 | 唐宋八家文
殿中少監馬君墓誌
君諱繼祖。司徒贈太師北平莊武王之孫、少府監贈太子少傅諱暢之子。生四歳、以門功拜太子舍人。積三十四年、五轉而至殿中少監。年三十七以卒。有男八人女二人。
 始余初冠、應進士、貢在京師、窮不自存。以故人稚弟拜北平王於馬前。王問而憐之、因得見於安邑里第。王軫其寒飢、賜食與衣、召二子使爲之主。其季遇我特厚。少府監贈太子少傅者也。姆抱幼子立側。眉眼如畫、髪漆黒。肌肉玉雪可念。殿中君也。當是時、見王於北亭。猶高山深林鉅谷、龍虎變化不測、傑魁人也。退見少傅、翠竹碧梧、鸞鵠停峙、能守其業者也。幼子娟好靜秀、瑤環瑜珥、蘭其牙、稱其家兒也。
 後四十五年、吾成進士、去而東游、哭北平王於客舍。後十五六年、吾爲尚書都官郎、分司東都。而分府少傅卒哭之。又十餘年、至今哭少監焉。嗚呼、吾未耄老、自始至今、未四十年、而哭其祖・子・孫三世。于人世何如也。人欲久不死而觀居此世者、何也。

君諱(いみな)は継祖(けいそ)。司徒贈太師北平荘武王の孫、少府監贈太子少傅(しょうふ)諱は暢(ちょう)の子なり。生まれて四歳、門功を以って太子舎人に拝せらる。三十四年を積んで、五たび転じて殿中少監に至る。年三十七にして以って卒す。男八人、女二人有り。
 始め余初めて冠し、進士に応じ、貢(こう)せられて京師(けいし)に在りしとき、窮して自ら存せず。故人の稚弟を以って北平王を馬前に拝す。王問いてこれを憐れみ、因りて安邑里の第(てい)に見ゆるを得たり。王その寒飢(かんき)を軫(いた)んで、食と衣を賜い、二子を召して、これが主たらしむ。その季我を遇すること特に厚し。少府監贈太子少傅という者なり。姆(ぼ)、幼子を抱いて側に立てり。眉眼画けるが如く、髪は漆黒なり。肌肉は玉雪のごとくにして念(おも)うべし。殿中君なり。
 是(こ)の時に当たって、王に北亭に見(まみ)ゆ。猶高山森林鉅谷(きょこく)に、龍虎の変化して測られざるがごとく、傑魁(けっかい)の人なり。退いて少傅に見ゆるに、翠竹碧梧(すいちくへきご)、鸞鵠(らんこく)の停峙(ていじ)するがごとく、能くその業を守る者なり。幼子は娟好静秀(けんこうせいしゅう)、瑤環瑜珥(ようかんゆじ)、蘭の其の牙を(いだ)すがごとく、その家に称(かな)える児なり。
 後四五年、吾進士と成り、去って東に游び、北平王を客舎に哭す。後十五六年、吾尚書都官郎と為り、東都に分司す。而して分府たりし少府卒し、これを哭す。また十余年、今に至りて少監を哭す。
嗚呼、吾未だ耄老(ぼうろう)ならざるに、始めより今に至るまで、未だ四十年ならずして、その祖・子・孫の三世を哭せり。人の世に于(お)いて何如(いかん)ぞや。人久しく死せざることを欲するも此の世に居る者を観(み)るに、何ぞや。


殿中少監 殿中省の次官、従四品上。 司徒贈太師北平莊武王 馬燧のこと、司徒は三公の一。 少府監贈太子少傅 少府監は工業の監督官庁長官、従三品で死後太子少傅を贈られた。 太子舎人 太子の召使、馬燧の威光で与えられた官職。 貢 推薦。 稚弟 末弟。 第 邸。 主 接待役。 姆 うば。 玉雪 雪の美称。 可念 可愛い。 鉅谷 大きい谷。 傑魁 すぐれた人物。 鸞鵠 霊鳥。 停峙 とまり佇む。 娟好静秀 うつくしく上品。 瑤環瑜珥 玉の腕輪や耳輪。 牙をす 芽を出すこと。 称 かなう。 吾尚書都官郎 尚書省の都官員外郎、韓愈はこのとき河南省の令を兼ねていた。 耄老 おいぼれ。 

君の諱は継祖。司徒贈太師北平莊武王馬燧の孫で少府監贈太子少傅、馬暢の子である。四歳で太子舎人の官を賜った。三十四年を経て五度転任して殿中少監になった。三十七歳で死去。男子八人、女子二人が残された。
 私が二十歳になったばかりの時、進士を受験し、地方試験に合格して長安に出てきた時には貧乏で自活してゆけないほど困窮していた。お知り合いの末弟でございます。と拝謁した。北平王馬燧はこれを聞いて憐れみ、安邑の屋敷で面会することを許された。王は私の貧窮をあわれんで、食物と衣服を下された。また二人の子を呼んで私の接待役を申し付けた。そのうち弟の方が特に手厚くもてなしてくれた。それが少府監贈太子少傅、あなたの父上馬暢様だった。乳母が幼子を抱いて立っており、眉と眼がまるで描いた様にはっきりしており、髪は漆のように艶があり、肌は雪のように白く、かわいかった。それがあなただった。
 この時、北平王に北の亭でお目にかかったが、王は高山深林峡谷をかけ巡る龍や虎のようにはかり知れぬ偉大な人物であった。そこを退いて少傅にお目にかかると、瑞々しい竹やあおぎりに霊鳥が止まり居るようで家門を守るにふさわしい人格を宿し、幼子は美しく上品で、玉の腕輪や耳飾りのように輝き、まるで蘭が新芽を出したようで、名門の後継ぎにふさわしい子であった。
 その後四五年経ち私が進士となり、東の洛陽に旅をしているその宿で、北平王の訃報を聞き、悼んだ。それから十五年、私は尚書都官郎の職で東都洛陽に勤めていたが、やはり洛陽勤務の少傅が亡くなり、その死を悼んだ。さらに十数年、今少監を哭すことになった。
 ああ、私はまだそれほど耄碌していないのに、馬君に初めて会ってから四十年足らずのうちに祖父、子、孫の三代を弔ったのだ。これはどういうことなのか。人は誰でも長生きをしたいと願っているけれどこの世に居る者を見るに、どうであろうか。