朝に還らんとして墓を過ぎ駅の梁に留め題す
韓愈は長慶四年(824年)夏病を得て役を辞し十二月二日長安で死んだ。娘の挐女を改葬して一年後のことである。死後礼部尚書を贈られ文公と諡(おくりな)された。挐女の死について「去歳刑部侍郎より罪を以って潮州刺史に貶せられ、駅(かえうま)に乗りて任に赴く。その後家もまた譴(せ)め逐われ、小女の道に死したれば、これを層峰駅の旁(かたわら)の山下に殯(もがり)す。恩を蒙りて朝に還らんとして、その墓を過ぎ、駅の梁に留め題(しる)す」と題して七言律詩を残している。
數條藤束木皮棺 草殯荒山白骨寒
驚恐入心身已病 扶舁沿路衆知難
繞墳不暇號三匝 設祭惟聞飯一盤
致汝無辜由我罪 百年慙痛涙闌干
数条の藤(ふじづる)もて木皮の棺を束(つか)ね
荒山に草殯(かりもがり)すれば白骨寒し
驚きと恐れと心に入りて身は已(すで)に病み
扶(たす)け舁(かつ)がれて路をたどれば衆(ひと)は難(あや)うきを知る
墳(はか)を繞(めぐ)るに号(な)きて三たび匝(めぐ)る暇(いとま)もあらず
祭りを設くるに惟だ飯の一盤のみと聞く
汝を辜(つみ)無きに致(し)なせしは我が罪に由(よ)る
百年慙(は)じ痛み涙は闌干(しとど)ならん
これをもって韓愈を終わり次回から柳宗元になります。
韓愈は長慶四年(824年)夏病を得て役を辞し十二月二日長安で死んだ。娘の挐女を改葬して一年後のことである。死後礼部尚書を贈られ文公と諡(おくりな)された。挐女の死について「去歳刑部侍郎より罪を以って潮州刺史に貶せられ、駅(かえうま)に乗りて任に赴く。その後家もまた譴(せ)め逐われ、小女の道に死したれば、これを層峰駅の旁(かたわら)の山下に殯(もがり)す。恩を蒙りて朝に還らんとして、その墓を過ぎ、駅の梁に留め題(しる)す」と題して七言律詩を残している。
數條藤束木皮棺 草殯荒山白骨寒
驚恐入心身已病 扶舁沿路衆知難
繞墳不暇號三匝 設祭惟聞飯一盤
致汝無辜由我罪 百年慙痛涙闌干
数条の藤(ふじづる)もて木皮の棺を束(つか)ね
荒山に草殯(かりもがり)すれば白骨寒し
驚きと恐れと心に入りて身は已(すで)に病み
扶(たす)け舁(かつ)がれて路をたどれば衆(ひと)は難(あや)うきを知る
墳(はか)を繞(めぐ)るに号(な)きて三たび匝(めぐ)る暇(いとま)もあらず
祭りを設くるに惟だ飯の一盤のみと聞く
汝を辜(つみ)無きに致(し)なせしは我が罪に由(よ)る
百年慙(は)じ痛み涙は闌干(しとど)ならん
これをもって韓愈を終わり次回から柳宗元になります。