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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略拾い読み 魯仲連

2009-02-27 16:46:48 | Weblog
 魏の安釐(き)王立ち、公子無忌(むき)を封じて信陵君と為す。無忌、人を愛し士に下る。食客三千人あり。
秦趙を攻む。魏王、晋鄙(しんぴ)をして之を救わしむ。秦の昭王、兵を移して先ず救う者を撃たんと欲す。王恐れ、晋鄙の兵を止めて、鄴に壁せしめ、又新垣衍(しんえんえん)をして趙に説き、共に秦を尊んで帝と為さしむ。魯仲連往いて衍に見(まみ)えて曰く、彼の秦は礼義を棄てて首功を上(たっと)ぶの国なり。即(も)し肆然(しぜん)として天下に帝たらば、則ち連は東海を踏んで死する有るのみ、と。衍、再拝して曰く、先生は天下の士なり。吾敢て復た秦を帝とすと言わじ、と。

鄴に壁せしめ 鄴(地名)に壁を高くしてこもる。 礼義 人の行うべき礼の道 
首功を上ぶ 敵の首を取る手柄を尊ぶ  肆然 気ままに

十八史略拾い読み

2009-02-26 17:55:22 | Weblog
 文侯卒、子撃立。是爲武侯。武侯浮西河而下。中流顧謂呉起曰。美哉山河之固、魏國之寳也。起曰、在徳不在險。昔三苗氏、左洞庭、右彭蠡、禹滅之。桀之居、左河・濟、右泰・華、伊闕在其南、羊腸在其北、湯放之。紂之國、左孟門、右太行、恆山在其北、大河經其南、武王殺之。若不修徳、舟中人皆敵國也。武侯曰、善。武侯卒。子惠王罃立。東敗於齊、將軍龐涓與太子申皆死。南敗於楚、西喪地於秦。乃卑辭厚幣、以招賢者。孟子至。而不用。子襄王立。孟子去之齊。

文侯卒し、子撃立つ。是を武侯と為す。武侯、西河に浮んで下る。中流にして顧みて呉起に謂って曰く。美なるかな山河の固め、魏国の宝なり、と。起曰く、徳に在って険に在らず。― 中略 ― 若(もし)徳を修めずんば、舟中の人皆敵国なり、と。武侯曰く、善し、と。武侯卒し、子の恵王罃(おう)立つ。東は斉に敗られ将軍龐涓、太子申と皆死す。南は楚に敗られ、西は地を秦に喪(うしな)う。すなわち辞を卑(ひく)うし、幣を厚うして、以て賢者を招く。孟子至る。しかも用いず。子襄立つ。孟子去って斉に之(ゆ)く。

武侯は舟で河西を下ったが、中流にさしかかった所で、呉起に言った、「なんと見事なことよ、この山河の堅固なことは、わが国の宝ではないか」と。呉起は答えて「いえ、国の宝は君の徳にあって、険阻な山河ではありません、―中略― もし徳を修めなければ、この舟の中の者でも敵になりますぞ」と言った。武侯が死ぬと子の恵王罃が立ったが、戦いには敗れ将軍、太子は失い、領地は侵された。そこで国勢を立て直すために、言葉を低くし、贈り物を厚くして、広く賢者を求めた。そのとき孟子が来たが、恵王は用いなかった。子の襄王が位に就くと、孟子は去って斉に向った。

十八史略拾い読み呉起 卒の疽(そ)を吮(す)う

2009-02-24 18:07:55 | Weblog
 呉起 
有衛人呉起者。初仕魯。魯欲使起撃齊。而起娶齊女。疑之。起殺妻以求將、大破齊師。或曰、起殘忍薄行人也。起恐得罪歸魏。文侯以爲將、抜秦五城。起與士卒同衣食、卒有病疽。起吮之。卒母聞而哭曰、往年呉公吮其父。不旋踵死敵。今又吮其子。妾不知其死所矣。

衛人呉起という者有り。初め魯に仕う。魯、起をして斉を撃たしめんと欲す。而して起斉の女を娶る。之を疑う。起、妻を殺して以て将たらんことを求め、大いに斉の師を破る。或る人曰く、起は殘忍薄行の人なりと。起、罪を得んことを恐れ、魏に帰す。文侯以て将と為し、秦の五城を抜く。起、士卒と衣食を同じうす。卒に疽を病むもの有り。起之を吮(す)う。卒の母聞いて哭して曰く、往年、呉公、其の父を吮う。踵を旋(めぐ)らさずして敵に死せり。今又其の子を吮う。妾(しょう)、其の死所を知らず、と。

吮う 膿や血を口を付けて吸い出すこと  踵を旋らさず 敵に後ろを見せなかった
妾 自分の謙称

十八史略拾い読み 国乱れては良相を思う

2009-02-23 18:04:18 | Weblog
 土曜日NHKで大戦末期の兵器「回天」の番組を見た。1mほどの空間に閉じ込められて敵の艦船に魚雷として死にに行く。視界も利かず酸素も充分でないなかで、多くの若者が自爆スイッチを押したと。生き残った人々の涙の証言が悲しく腹立たしかった。庶民が良き指導者を選ぶことの出来なかった時代の悲しさと、良き指導者の見つからない時代のもどかしさがある。

文侯謂李克曰、先生嘗教寡人。家貧思良妻、國亂思良相。今所相、非魏成則翟璜。二子何如。克曰、居視其所親、富視其所與、達視其所擧、窮視其所不爲、貧視其所不取。五者足以定之矣。卜子夏・田子方・段干木、成所擧也。

文侯、李克に謂って曰く、先生嘗て寡人に教う。家貧にしては良妻を思い、国乱れては良相を思う、と。今相とせんとする所は、魏成に非ずんば則ち翟璜(てきこう)なり。二子は何如(いかん)と。克曰く、居ては其の親しむ所を視、富んでは其の與うる所を視、達しては其の挙げる所を視、窮しては其の為さざる所を視、貧しては其の取らざる所を視る。五つの者以て之を定むるに足れり。卜子夏・田子方・段干木は成の挙ぐる所なり、と。すなわち成を相とす。

文侯が李克に、先生は嘗て私に教えて下さいました、家が貧しければ良妻を得たいと思い、国が乱れると良い宰相を得たいと思うものだと。今、宰相にしたいと思う者は魏成かさもなくば翟璜だが、どちらがよろしいでしょう。李克が答えて言うには、「人を視るには、仕官前の人は付き合っている人物を、金持ちになっている人は、投資するところを、すでに高位高官になっている人は、どのような人物を登用しているか、困窮している人の場合は、道義に外れた行いをしていないか、貧しい人は不義の金品を得ていないかを視るのです。この五つで充分です。卜子夏・田子方・段干木の三人はいずれも魏成の推挙によるものです。」そこで魏成を宰相に決めた。
寡人 徳の寡(すくな)い人 王侯が自分をさして使う謙称
 

十八史略拾い読み 魏

2009-02-21 09:53:00 | Weblog
魏之先、本與周同姓、文王子畢公高之後也。國絶。有苗裔、曰畢萬。事晉邑于魏。數世有絳。絳後四世曰桓子者、與韓・趙共滅知氏而分之。桓子之孫、曰文侯斯者、以周威烈王命爲侯。以卜子夏・田子方爲師。過段干木之閭必式。四方賢士多歸之。

魏の先は、本と周と同姓にして、文王の子畢(ひつ)公高の後なり。国絶ゆ。苗裔(びょうえい)有り、畢萬(ひつまん)と曰う。晋に事(つか)えて魏に邑(ゆう)す。数世にして絳(こう)有り。絳の後四世にして桓子(かんし)と曰う者、韓・趙と共に知氏を滅ぼして之を分つ。桓子の孫、文侯斯(し)と曰う者、周の威烈王の命を以て侯と為る。卜子夏・田子方を以て師と為す。段干木の閭を過ぐれば必ず式(しょく)す。四方の賢士多く之に帰す。

苗裔 遠い血筋  卜子夏・田子方 孔門十哲の子夏とその弟子田子方段干木の閭
段干木という有徳の隠士が住む村の門  式す 馬車の前の横木(軾)に頭を付けて敬礼すること。因みに唐宋八家の蘇洵が、蘇軾、蘇轍の二人の子に付けた名前を解説する文があり、軾の由来を書いている。