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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

唐宋八家文 韓愈 柳子厚墓誌銘 (四ノ四)

2014-04-15 08:15:43 | 唐宋八家文
柳子厚墓誌銘 (四ノ四)
 子厚以元和十四年十一月八日卒。年四十七。以十五年七月十日、歸葬萬年先人墓側。子厚有子男二人。長曰周六、始四歳。季曰周七、子厚卒乃生。女子二人皆幼。其得歸葬也、費皆出觀察使河東裴君行立。行立有節概、立然諾。與子厚結交、子厚亦爲之盡。竟頼其力。葬子厚於萬年之墓者、舅弟盧遵。遵涿人。性謹愼、學問不厭。自子厚之斥、遵從而家焉、逮其死不去。既往葬子厚、又將經紀其家。庶幾有始終者。銘曰、是惟子厚之室、既固既安、以利其嗣人。

子厚は元和十四年十一月八日卒す。年四十七。十五年七月十日を以って、万年の先人の墓側(ぼそく)に帰葬(きそう)す。子厚子男(しだん)二人有り。長を周六といい、始めて四歳なり。季(き)を周七と曰い、子厚卒して乃ち生る。女子二人、皆幼なり。
 その帰葬を得たるは、費の皆観察使河東の裴君(はいくん)行立に出ずればなり。行立は節概(せつがい)有り、然諾(ぜんだく)を立つ。子厚と交を結び、子厚も亦これが為に尽す。竟(つい)にその力に頼れり。
 子厚を万年の墓に葬れる者は、舅弟(きゅうてい)盧遵(ろじゅん)なり。遵は涿(たく)の人、性は謹慎にして学問は厭わず。子厚の斥けられしより、遵従って家し、その死に逮(およ)ぶまで去らず。既に往きて子厚を葬り、また将(まさ)にその家を経紀(けいき)せんとす。始終有る者に庶幾(ちか)からん。
 銘に曰く 是れ惟れ子厚の室(しつ)      既に固く既に安(やす)し
      以ってその嗣人(しじん)に利(よろ)しからん。


万年 長安の東、万年県。 帰葬 他郷で死んだ者を郷里に帰して葬ること。 節概 気概と節操。 然諾 引き請けること。 舅弟 母方の従弟。 涿 河北省涿県。 経紀 きりもりすること。 始終 終始変わらぬ心。 

子厚は元和十四年十一月八日に亡くなった。年四十七歳。翌十五年七月十日に、万年の郷里の墓のかたわらに葬る。子厚には男二人有り。長男を周六といい、四歳になった。下の子を周七と曰い、子厚が亡くなってから生れた。娘は二人で共に幼い。
 その帰葬ができたのは、費用を観察使で河東の裴行立君が出したからであった。行立君は気概と節操があり、一度請けあったら必ず守る人であった。子厚と交際が厚く、子厚もまた、行立のために尽した。それで結局行立の力に頼ることになったのである。
 子厚を万年の墓に葬ったのは母方の従弟の盧遵だった。盧遵は涿県の人で性格はまじめでおとなしく、学問に励んだ。子厚が洛陽を追われてからもその後に従って家を構え、子厚の死ぬまでそばを離れなかった。そして万年県に行って子厚を葬ったうえでさらに家族の生活を面倒みようとしている。彼こそ終始変わらぬ心を持った人と言えるであろう。
 銘に曰う これぞ子厚の終の家。 堅固にして安らかなれば
      そのあと嗣ぎによろしからん。

  
元和十五年(820年)韓愈五十三歳袁州刺史の時柳宗元の遺言に応じて作られた。古文復興運動の盟友である宗元の短い生涯を惜しむと共に、役人としては不遇であったが、その為かえって文学的成功をおさめたとした。

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2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (Unknown)
2020-07-21 05:35:26
立然諾

重然諾(然諾を重んず)
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Unknown ()
2020-12-14 20:59:14
漢文を独学している者です。書き下し文と現代語訳を掲載していただき本当にありがとうございます(^_^)
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